2023年6月11日

ただただ、驚き感心する

6月9日、アマゾン地帯のジャングルに墜落した小型飛行機からの生存者として、子どもたち4人が現地で救助された。13歳、9歳、4歳、そして1歳の兄弟だ。残念ながら、彼らの母親やパイロットら大人3人は5月1日の墜落現場で死体として見つかっていた。

頭から地面に激突する形で墜落した飛行の前部座席には大人3人が、4人の子どもたちは後部に座っていたのが幸いした。しかし、何よりも驚かされたのは、墜落したあと、子どもたちが40日間を自分たちだけでジャングルの中で生き延びたことだ。1歳の赤ん坊も含めて。

彼らは、Huitoto Indigenous communityというコロンビアの先住民族の子どもたちで、周りから密林で生きながらえていく術を教えられ身につけていたのだろう。1歳の赤ん坊を皆で守らなければという強い気持ちが兄弟のなかにあったことを指摘する専門家もいる。 

食料をどう得るか、水は、寝る場所は・・・自分たちで考え、行動しなければならないことだらけだったはず。年齢から考えると、実際に動けたのは13歳と9歳のふたりだろう。その2人が力を合わせて下の2人を守った。

いまや近くにコンビニがなければ生きていけないような日本人(ぼくも含めて)には到底できない、人間の知恵と力だ。

2023年6月4日

週刊朝日 ついに休刊

「週刊朝日 ついに休刊」の見出し。朝日新聞ではなく、他紙の記事である。そうだ、と思いだし、近隣のコンビニを覗いたが在庫がない。行きつけの駅前の書店いくつかにも電話したが、売り切れと言われた。

最終号の中吊り広告

新聞専売所ならあるかなと思い連絡したら、手元には残っていないが「重版をかけるそうです」とか。正確には増刷だろうが、珍しい。最終号ならではだろう。なくなるとなれば、名残惜しいと思う読者がたくさんいるのだろう。専売所に届いたら配達してもらうようお願いした。

あらためて雑誌の役割のようなことを考える。雑誌ってなんだろうって。「雑」の字を白川静の『字統』で引いてみると「もと色彩のある織物を組み合わせる意」「他に組み合わせ、混合したものを雑といい、学にも雑学・雑識がある」とある。

組み合わせたもの、混合したもの、というのが雑誌のオリジンのようだ。つまりは、「編集」ということか。ただの断片的な情報を編集して見せることで、より面白く、新しく、別の価値をつくり出すということ。

そうした価値を届けてくれる雑誌は大切なメディア。ネット上にもその類は数え切れないほどあるが、信頼できるかどうかはまったくもって危うい。署名もないサイトは信用しないのが知恵だと思っている。

手に取り、パラパラと一気にめくれるのも紙の雑誌ならではの楽しみなんだけどね。

以前も書いたが休刊に追い込まれた一番の要因は、広告収入が確保できなくなっていたから。ネットに持って行かれてしまった。でもネットの広告ってどれだけ広告主の役に立ってるんだろう。ターゲティング広告なんていっても、だからそれをどうビジネスに活かしているのか。読んでいる人の属性が推測できるから? どんな記事に興味がありそうか分かるから? それで?と言いたい。

企業の広告担当者は、自分が予算を使って何を実現したいのか、企業(製品)にとってどんなマーケティング・コミュニケーションが必要なのか、ちゃんと考えているか。

2023年5月30日

教育の場では、生成AIは生産性を上げない

先日、このブログで生成AIは意外と役に立つと書いた。それに間違いはない。ただし、自分がそれ、つまり自分ではなく生成AIが「これ」をやったと知っている限りだ。

教育の場で問題になるのは、そこのところの対称性が確保されていないこと。たとえば、学生がレポートを生成AIで作成して提出するのは造作もない。

それで終わりならいいが、本来的にはレポートは読まれ、評価される対象である。生成AIで書かれたレポートを生成AIに読ませ、その真偽(本人が書いたか、生成AIが書いたか)を判断し評価まですることは無理だ。

だとするとそれは人間が読み、判断するしかない。すでに僕の元には生成AIを使って課題を提出してきた学生のレポートがある。ほぼ間違いなく、それらは彼ではなく生成AIが作成したものだと見て取っている。

なぜなら、生成AIには知性はない。AIにあるのはずば抜けた計算能力だけ。確率的に相応しい言葉を選びながら文章を構成していくだけだ。だから、表面的にはもっともらしく、それらしい論理の筋道もあるが、人間ならではの、例えば勘違いからの突飛な発想や思い込みがない。ただネット上にある情報を「何も意味を考えず」つなぎ合わせたものに過ぎない。 

これまでその学生が書いてきたもの、話してきた調子と「路線」が違うのだ。たとえば、それまでずっとJ-POPだったのが、いきなりバッハになったら誰でも変だと判る。

だから読めば、これは生成AIが書いたレポートだと判断できる。ただし、それを「生成AI作」と断定する客観的なデータはいまのところない。あくまで主観的な推量と判断の域を出ない。

そのため必要となるのが、提出されたレポートをもとに口頭で質問をして即答させること。そうすれば間違いなく判る。だが、価値を生まないそうしたことに時間を割いてられるだろうか。

そこに生成AIを教育現場に持ち込む現時点での最大の問題点がある。ただ無駄な仕事を増し、関係者全員にストレスを与えて混乱させるだけだ。

現場を知らない人間が、したり顔して「まずは拒絶せず取り入れて、学生が生成AIを使いこなせられるようにすることが好ましい」などとノー天気なことをいうのはやめるべきだろう。

2023年5月29日

都職員を全員、非正規職員にしてみたらいい

都営地下鉄は、その名の通り、東京都が運営する地下鉄である。その半分以上の駅で「偽装請負」という法令違反が行われていた。

それらの駅では都の職員と派遣社員が働いている。関係者以外はそんなことは知らないはずだ。なぜなら、派遣職員も都職員と同じ制服を着用し、同じ業務内容に携わっているから。

だが、働く条件は異なる。都職員の年収は30歳モデルで約440万円、40歳モデルで約550万円だ。一方、派遣で働く人たちはというと、ある男性(年齢は示されていない)の年収は350万円で、昇給はなし。退職金もなしという。

同一労働同一賃金など、どく吹く風だ。

偽装労働は労働者派遣法でも職業安定法でも禁じられている。違法性はもちろん、倫理的にも許されるものではない。東京都は何をやっているんだろう。

だが、この国ではつくづくこうした問題の解決は難しい。解決の方法としてシンプルで効果的な案がある。それは、「都職員を全員、非正規職員にすること」。それしかないだろう。

そうすれば、自分ごとになる。何とかしなけりゃと思う。

2023年5月26日

「非正規社員」という言葉をなくすところから始めよう

先日、同一労働同一賃金について書いた。同一労働同一賃金が是正されていないことは以前から問題であり、またそのための本格的な動きも見られない。

それと深く関わるのが<正規・非正規>の区別である。少し調べて見ると、非正規社員の定義すらはっきりしていないのが分かる。そうした点が、いかにも日本的なのである。

下記は朝日新聞に初めて「非正規社員」という言葉が登場した記事からの引用だ。1990年1月の名古屋版の記事で、弁護士の大脇雅子さんという方の同紙へのコメントから。

 --現在のパートタイマーの地位はどうなっていますか。
 大脇:そもそもパートタイマーとは、1日8時間フルに働く人に対して、短時間しか働かない人を指します。しかし、日本でパートタイマーというと非正社員、という意味になっています。労働省の調べでも、女性パートタイマーの1割は1日8時間近く働いています。結局、正社員と区別して、安く使う手段なんですね。
 --パートタイマーにも正社員並みの権利を、ということですね。
 大脇:そうです。昨年夏、訪れたスウェーデンでは、パートタイマーの時間給が差別されていませんでした。幼児のいる男性社員は育児に協力出来るようにパートタイマーとして1日6時間働けばいい、といった制度も設けるなど、いろいろ工夫しています。昇進や退職金、福利厚生などでも、正社員とパートタイマーという身分差別はありません。7年ほど前、全国レベルで労使が話し合い合意したそうです。
 --日本の現状を変えるのは容易ではありませんね。
 大脇:パートタイマーの権利向上は意外に早く進むと見ています。労働省は昨年6月、パートタイマーの労働条件について指針を出し、また国際労働機関(ILO)はパートタイマー保護基準の制定を議題にすることを昨秋、決めました。90年代後半には、何らかのパート保護法が国内でもできるでしょう。
パートタイムの労働者=非正規社員と呼ばれていたわけだ。パートタイムはフルタイムの対義語。フルタイムが1日8時間であるのに対して、それより短い時間働く者がパートタイムである。大脇さんの話からすると、1990年にはもうパートでありながらフルタイムと同じだけ働いてる人たちがいた。ここで既に、何かがズレている。

毎日新聞に「非正規社員」が初めて登場するのは1995年。その年の『労働白書』の紹介記事。そこには、「パート、派遣社員、季節工といった非正規社員」という言葉がでてくる。単純に1日当たりの労働時間で括ることができなくなっていて、実質的に差別的な労働条件のもとで働いている人たちを非正規と言っているように受け取れる。問題の根は深い。

そもそものところだが、フルタイムとパートタイムは働き方の違いを示している。ところが、正規社員と非正規社員の違いは、働き方の違いではない。正規採用(考えてみれば、この考えがそもそもヘンだ)の制度に則って採用されのが正規社員、そうでないのはすべて非正規社員。同じ仕事を同じようにやっても処遇が違うという「身分制度」だ。

非正規(つまりは、正規に非ず)という言葉を、社員とか職員といった「人」の修飾語として用いるのをやめた方がいいと思う。非正規何とかって、その人を半端者って言ってるような響きがある。

一般財団法人雇用開発センターが運営するサイトに「正規社員と非正規社員の違い」が記されていた。https://www.hiraku-navi20.jp/about_us/index.html

正規社員と非正規社員の違い
(1)正規社員とは
正規社員の定義について、法律で明確にされてはいませんが、一般的には、会社内で正社員と呼ばれ、期間の定めのない雇用契約で働いている社員をさすことが多いようです。
(2)非正規社員とは
非正規社員の定義について、法律で明確にされてはいませんが、一般的には、契約社員やパートタイマー、アルバイト、派遣社員のように期間を定めた雇用契約により、正規社員と比べて短い時間で働く社員をさすことが多いようです。

労働法でも明確化されていないわけだ。使っている言葉が曖昧だから、問題の輪郭がいつまで経ってもはっきりしないままになる。なぜ定義づけしないのだろう。そうすることで不利益を被るグループがあるからだろうな。

2023年5月25日

生徒思いで、だけど世間知らずの先生たちに出会った

新横浜駅から上りの新幹線に乗る。乗るのは東京駅での乗り換えを考えて、いつも15号車と16号車の間のデッキだ。

昨日、新幹線に乗り込もうとしたら、そこに男女が3人。降りるつもりのお客さんかと思ったら、そうではない。だけど、何かへんな様子。3人で僕の方をじっと見ている。

デッキに乗り込むと、その中で一番若そうな30台半ばの男がぼくに向かって言った。「席はどこですか?」。車掌でもない人間に答える必要はないので無視したら、もう一度聞いてきた。やけに真剣そうに聞いてくるので、「席はとってない」と返すと、「この2両(15号車と16号車のことだろう)は我々の貸し切りなので、ほかの車両に行ってください」と言ってきた。

デッキから車両内を覗き込むと、中学生らしい男女で埋まっている。修学旅行の団体なんだ。ぼくは新幹線の乗降扉が開くまで、ずっとホームで読みかけの本に集中していたので車内の様子にまったく目が向いてなかった。

それにしても、さっきのものの言いから推測すると、僕のことがよほど目障りな存在に見えたか、あるいは不審者に映ったんだろう。失礼な!と思い、「そんなに怪しい者に見えるか?」と少し強い調子で若い男に言うと、やや間があって「いえ」と答えた。「おれは東京までの18分、いつもこれで通ってんだ」と言うと、3人はただ黙ってしまった。

生徒のことを心配しているのかもしれないが、それにしても随分失礼な連中である。「あなたたちはどこの旅行代理店の添乗員だ?」ときくと、またもや、やや間があって「教師です」と。引率でやって来た先生たちだった。

車内に座っている生徒らを見ると、遊びたい盛りの子どもたちのはずが、みんなやけに真面目というか、驚くほど静かに座っている。旅先でもおとなしくしているよう強く指導されているのだろう。先生らは先生らで、大きな責任感を感じてプレッシャーに半分あっぷあっぷしている様子。

東京駅への到着間近、教師らに学校名を尋ねたが教えてくれなかった。話してるアクセントから「あなた方、関西からですよね?」と聞くと「神戸から」とだけ答えた。

やがて東京駅に到着。ドアが開き始めたとき、「じゃあ、東京を楽しんで」と先生らに声をかけたが、彼らの頭の中はもうそれどころではない。生徒たちに向かって、一斉に立ち上がれとか、荷物は胸の前に抱えろとか、忘れ物がないように周りを見回せとか、憶えておいた舞台台詞を話しているような感じでトーンが上がっている。

おつかれさん、と胸の中で小さく呟いて先に下車した。先生たち、最初は仕方ないけど、ずっとその調子だと生徒たちが疲れるよ。せっかくの修学旅行なんだから、あまり抑圧しないでもっと解放してやって欲しいと余計な事をつい考えてしまった。

生徒のみんな、修学旅行でいい思い出ができるといいね。

2023年5月22日

「同一労働同一賃金」の議論はどこへ行ってしまったのか

たまたまラジオをつけたら、その番組のパーソナリティの大竹まことがリスナーからの手紙を読んでいた。

手紙を送ってきたのは64歳の女性。非正規公務員として22年間、地方の図書館に司書として勤めていた。正規職員との待遇の違いに不満を感じながら、一途に仕事に打ち込んだ。が、非正規であるがために結局認められないまま、職場を去ったことが縷々綴られていた。


正規、非正規という差別待遇がこの国から消えない。そもそも正規とか不正規とか、なんなんだろう。概念自体がよく分からないのだ。

正規は英語ではregular、だから正規社員はregular employeeなんだろう。だが非正規の英語は辞書では見当たらなかった。あえていれば、非正規社員はnon-regular employeeとなるのだろうか。

投稿者の彼女は22年間努めていて、それでもなぜノン・レギュラーなのか。これでは、人の能力や意欲に無関係な、かつての士農工商の身分制度と何ら変わりない。これが今も続くこの国の常識だ。彼女が投書の中で「やり場のない怒り」と言っていたのはもっともである。

しばらく前まで、同一労働同一賃金という言葉を方々で目にしたが、最近ほとんど聞かない。新聞でも目にしないなあと思い、新聞社のデータベースでちょっと調べてみた。

2000年から昨年まで、朝日新聞(朝夕)と日経新聞(朝夕)に「同一労働同一賃金」の言葉がどのくらい出現していたか。グラフにするとこんな感じだ。

朝日新聞では、1991年にはじめて日本国内の問題として同一労働同一賃金が、その5年前に施行された雇用機会均等法と絡めて記事になっている(それまでは外国でのニュースとして紹介されている)。そして、この時の「同一」とは男女間での同一である。「正規・非正規」の文脈で「同一労働同一賃金」が記事が掲載されたのは2005年のこと。

日経新聞では、1996年に中央大学の古郡鞆子教授が「やさしい経済学」で「同一労働同一賃金」について書いていた。一般記事として始めて掲載されたのは2004年。ただし、男女間の同一労働同一賃金でなく「正規・非正規間」のそれが取り上げられるのはもっと後になってから。

「同一労働同一賃金」の出現数のグラフをみると、両紙ともに2016年に急に掲載記事が増えている。それは、安倍政権下で厚労省が「同一労働同一賃金の実現に向けた検討会」を実施し、その年の暮れに「同一労働同一賃金ガイドライン」を発表したのが理由だ。
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-syokuan_339702.html

ところが、翌年から一気に新聞では見られなくなっている。問題がなくなったわけでもないのに。ただ熱が冷めてしまった。結局みんな、人ごとだから執着しないのだろう。見て見ぬ振りをしてやり過ごすのが大半なんだろう。

たまたま正規で職員になった(コネでもなんでも)者はそのまま正規、途中から非正規として働き始めた者は、いつまでたっても能力や意欲、成果に関係なく非正規のまま放っておかれる。柔軟性がなく硬直的。既得権が当たり前のようにすべてに立ち塞がっている日本の組織と社会。

これじゃ、この国の生産性はいつまでたっても上がるわけない。

2023年5月21日

違うからこそ面白いはずなのに

いま、日本と海外の双方で活躍している日本人俳優は少ない。渡辺謙や真田広之が思い浮かぶが、それ以外に誰がいるかすぐには思い出せない。

その渡辺謙が、自分の俳優人生を振り返ったドキュメンタリーがあった。その中で、渡辺は外国で仕事をすることの難しさや戸惑いについて語っている。
 
彼はイーストウッドが監督をした「硫黄島からの手紙」で主人公である栗林中将を演じ、それ以前には42歳の時、トム・クルーズと共演をした「ラスト・サムライ」でアメリカ映画に出演した。

海外で働く上ではバランスを上手にとってやっていかなければならない大切さについて渡辺は話すとともに、海外での仕事場を「違うことが面白い」と語る。同じ映画を作っている人間といっても、ベースにある文化やそれぞれの現場での感覚も違うと。そこでの違いが面白いと言うのだ。違いを面白いと思う感覚。これがあるから海外で外国人スタッフと仕事ができるのである。

彼が言っているのは映画撮影の現場での日本とアメリカでの違いだが、そうした違いは意外とどこにでもある。そこで思い出したのが、僕が教える社会人大学院でのあるクラスの中での話。学生は60名強だったろうか。彼らをグループに分け、毎回授業の冒頭でそれぞれのグループごとにこちらが指示をしたテーマについてディスカッションをさせ、各グループごとに考えをまとめさせた。

同じグループだと考えが固定化し面白くないだろうと思い、まず学生たちにアンケートをとった。現在のグループ編成について(1)このままで良い(2)編成を変えた方がよい(3)どちらでも構わないの3択の質問に答えてもらった。

変えてほしいという2番目の回答が半分以上あった場合には、全体をシャッフルして新しいグループ編成にするつもりでいた。が、回答を見るとそう答えた学生はわずか1割ほど。

彼らがグループを変えて欲しいと思った理由は、おそらくメンバーに何らかの不満があったのか、もしくは不満がなくても新しい顔ぶれと討議をしたかったからだろう。別に不思議ではない。

そこで、グループを変えてほしいと希望してきた1割ほどの学生たちを別のグループに移行することにした。そうしたところ、当初、グループを変えてほしいと言ってたその何人かが「悪目立ち」するのが嫌だから元のグループに戻してほしいと連絡してきた。以前のグループのメンバーに対して自分が不満を持っていると思われるのが厭だという。

そのとき、「悪目立ち」と言う日本語を初めて聞いた。そんな言葉、いままで使ったことがなかったからね。不思議な言葉があるんだなぁと思いながら対応した覚えがある。

同調圧力、目立ちたくない、周りから浮きたくない、皆と違うと思われたくない。みんな、自分が思うところのコンフォート・ゾーンにいないと不安で仕方ないのだろう。

かつて渡辺謙は、自分の役者としての可能性を広げるために意を決して海外に出て行ったに違いない。そしてそこで、彼は「違うことが面白い」というひとつの感覚を得た。そのことが彼を世界で通用する俳優にした。

違うことを面白いと思えるか思えないか、その違いは日本の若いサラリーマンにとって思いのほか大きい。「悪目立ち」なんてものは、ないんだよ。

2023年5月20日

性犯罪と性的被害の違い

デーブ・スペクターが、藤島ジュリー景子の謝罪動画と今回のジャニー喜多川による出来事について語った「ニューズウィーク日本版」のインタビュー記事を読んだ。

彼は長年メデイアの内側にいるので、その体質や状況をよく知っている。しかも日米のことを比較しながら語ることができる。なるほど、と頷きながら読んだ。

そのなかで、メディアによって使われている「性的被害」という言葉を「性犯罪」に置き換えて考えてみるといいと語っていたのは慧眼だと思う。たしかにそうだ。これは、性加害問題ではなく性犯罪。響いてくる重みが違う。窃盗を万引きというのと同じで印象が大きく異なる。

こうしてある種のイメージ上のすりかえがなされていることに気がつかなかった。アメリカ人に日本語の使い方について教えられた感じだ。

2023年5月15日

ジャニーズ社長の小賢しい謝罪コメント

ジャニーズ事務所の藤島ジュリー景子社長が、動画と文書で創業者・ジャニー喜多川による性加害問題について謝罪した。今ごろになってやっと、という感じだ。

なぜきちんとした記者会見を開かないのか、という声が上がるのは当然だが、その1分少々の動画内のコメントで引っ掛かったのは、彼女の「被害を訴えられている方々に対して、深く深くお詫び申しあげます」という言葉の選び方だ。

社長の彼女が謝罪すべきなのは「被害を訴えている人たち」でなく、「すべての被害者」ではないのか。当時のことを表立って「訴えている」のは性被害を受けた(当時の)少年たちのごく一部に過ぎないはずだ。

だが彼女の姿勢は、週刊文春や英BBCなどのメディアに当時の被害を語った被害者には謝罪を言うが、それ以外は知らないよ、と聞こえる。

表に出てこない少年たちをないものと考えることで事件を矮小化しようとしている。

2023年5月14日

「言ったもん負け」に負けるな

品質不正問題を起こした三菱電機には、目に見えぬ「言ったもん負け」文化があるという。

誰かが気づいて改善の提案をすると、その人が取りまとめ役を任されることになる。それまでやっていた仕事はそのままで、「言った分だけ」仕事が単純に上乗せされることを意味している。

やがてそうした組織には、言われたことしかしない、余計なことはやらない、上司に異論をとなえない、変化を求めない、正義を口にしない社員しかいなくなるのは当然の理だ。

でも、そんな職場で一日何時間も、年に何百日も働いて何か楽しいのだろうか。楽しいわけないよな。組織の上に行けば、普通の社会とは違った別の意味で「楽しい」のかもしれんけど。

だけど、社員はなんで転職しないんだろう。

辞めたくても辞められないのか。我慢するだけの何か他の見返りがあるのか。あるいは、すでに何も感じなくなっているから問題ではないのか。

三菱電機だけじゃないのだろう。きっと、こうした企業って日本中にあって、珍しくもないのかもしれない。

2023年5月13日

点字ブロックを取りのぞけ

2023年5月10日撮影

これは新幹線・新横浜駅ホームの写真である。ホームドア開閉のための操作盤が突き出ているのが分かる。

もし視覚障がい者が点字ブロックに添って歩いたら、ぶつかってしまう。操作盤は金属製。怪我をするか、転倒のおそれもある。何年も前からJR東海に危険だからと改善を求めているが無視されている。その後JR側がやったのは、操作盤の角に黄色い緩衝剤を貼り付けただけ。

点字ブロックに沿って駅ホームを歩く盲導犬の訓練犬と訓練士
(日本盲導犬協会の会報誌から転載)

当初、リスクを指摘したときは「点字ブロックにはかかっておりませんから」というのが、JR東海側の返答だった。だが見れば分かるとおり、くっついている。危険なのには変わりない。そう伝えると、今度は「この操作盤の近くには常時駅員がいるので、安全の確保はできてます」と言う。しかし、写真が示すように、駅員がいるのは新幹線が到着するときだけだ。

点字ブロックは、盲人の安全を確保するためのものなのに、ここではそれを利用すると逆に彼らが怪我をする可能性がある。まずは暫定的措置として、盲人の安全確保のために操作盤の前後の黄色い点字ブロックを取り外すことが必要。パラドックスだ。

その後、ちゃんとした工事ももちろんやってもらわなければいけない。

以前、他の駅(たしか品川駅だったような)で撮った写真がスマホのなかから見つかった。同じ条件でありながら、こちらには視覚障がい者に対しての配慮が見られる。

2023年5月9日

生成AIは意外と役に立つ、かも

連休中からチャットGPTを使い始めた。

数ヵ月前からちょっとばかり長い原稿に取り組んでいて、その作業の効率化をチャットGPTで図れないかと考えて導入した。

こちらが書いた原稿をGPT-4で校正したり、ラフな編集するのに使っているのだが、うまくやれば人間の仕事の効率が上がりそうなのが分かった。

ただし、というか思っていた通り、オリジナルな原稿をAIが書くのは今はまだ無理で期待したクオリティのものは上がってこないことは確認できた。今できるレベルは、良くて程々のアシスタントである。

最初からこれに人の代わりとして何かやらせると(核となるアイデアを発案させるとか、人の代わりに文章を書かせると)お粗末な齟齬が生ずるだろう。なんとかとハサミは、ではないが、これも使い方しだいだ。

物書きでも、オリジナリティやクリエイティビティを問われない人たち、たとえばプレスリリースや官庁の記者会見をもとに記事をまとめているだけの新聞記者なんかは、間違いなくいなくなる。

2023年5月6日

駅のホームから消える時刻表

西武鉄道やJR西日本、JR東日本の駅のホームから、時刻表が順次撤去されている。

それらの会社はコスト削減を理由にあげているが、時刻表を修正するのは基本的には年2回のダイヤ改正の時期だけ、しかも時刻表のフォーマットは既に決まっていて、ただ数字の表示を修正するだけ。
 
なぜそれほどまでに手間を惜しむのか。いざとなれば、手書きだってかまわないぞ。あるいは自分たちでできないなら、近所の小学校の子どもたちに時刻表を作ってもらったらどうだ。その方がイラスト付きで楽しそうだ。
 
鉄道会社は、「利用者たちはスマホを持っており、自分で時刻表を確認することができる」から大丈夫なのだと言うが、本当にそうなのか調査はしたのか。していないだろう。勝手に自分たちがそのように思いたいだけ、あるいはそうしたもっともらしい理由をつけているだけだ。
 
スマホを持っていない小さな子どもや、持っていても使い慣れていない高齢者はどうなのか。海外からの旅行者はどうする。
 
ぼくはスマホは持っているが、それをわざわざ取りだし、起動し、アプリを立ち上げ、路線を選び、駅名を選択し、上りか下りかを選び、時間帯が表示されるようスクロールして・・・バカバカしくてやってられない。
 
時刻表の撤去だけではない。コスト削減を目的に駅から時計やゴミ箱まで取り除いている。ゴミ箱がなければ、つまり捨てるところがなければ客はゴミを持ち帰ってくれる(少なくとも自分たちの駅から外へ持って出てくれる)と考えているからだ。
 
公共交通機関として鉄道運輸業を営んでいる自分たちが、利用者や社会にどのような価値提供しているのか、こうした鉄道会社の経営者たちは考えることがないのだろうか。小さなコストダウンに走るより、彼ら本来の社会性を保つことを重視した方がいい。
 
時刻表について言えば、彼らが今どき考えるべきことはそれをなくすことではなく、むしろ盲人でも利用できるように時刻表に点字をつけることではないのかね。

2023年5月5日

20年以上前に「繁殖していない」と言われたわれわれ日本人

今日は、こどもの日。総務省の集計によると、日本の子ども(15歳未満)の人口は1400万人あまり。その数は42年間継続して減少傾向にある。日本の総人口に占める割合はというと、なんと49年間連続で低下している。

今の政府は「異次元の少子化対策」を掲げたが、何が異次元なのかさっぱり分からない。いまさら何言ってるんだかという低次元であることは分かるが。見得を切った臭い決め言葉(にもなってないが)を振り回すみっともなさを感じる。それより、地に足の着いた科学的で納得感のある政策を考えてもらいたいものだ。

「ジェネレーション X」という言葉を生んだカナダ人作家、ダグラス・クープランドが書いた20年以上前の小説のなかに「日本人は繁殖していないようだ。そのうち、贅沢と静けさを好む老人ばかりの国になるだろう。日本は釣鐘曲線につぶされてしまうだろう」という語りが出てくる。

身も蓋もない言われ方だが、どうも日本はその通りになってしまっているみたいだ。


2023年5月4日

アウトプットがすべてではない

児童買春で逮捕されたジェフリー・エプスタインとの親密な関係からMITメディアラボの日本人初の所長を辞任した某氏が、Chat-GPTについて話していた。

そのなかで、教育での利用は大いに推し進めるべきだと彼は主張していた。根拠として、調べものでもレポート作成でもその速度が飛躍的に上がる点をあげていた。

ネット人らしいシンプルな発想である。効率よく物事をなすことを「善」と考えて生きてきた人にはそれが当たり前という感覚なんだろう。

山登りに例えれば、金持ちがヘリをチャーターして山頂に降り立ち、それで「登頂してきた」と言ってはばからないセンス。彼らから見れば、時間と労力を注ぎ込み、時として人生を賭けて自分の足でピークを目指す本当のクライマーなどアホとしか思えないんだろう。

価値観の違いとも言えるが、大学のレポートを「スマート」にChat-GPTを使って書く(書かせる)のはやはり本末転倒である。そこは、アリストテレスがいうところのエネルゲイア的な考え方に沿って取り組むしかないのだよ。

2023年4月30日

「週朝」休刊から広告のあり方を考える

「週刊朝日」が5月いっぱいで休刊になる。廃刊ではなく休刊と言っているのは望みを残しているということだろうか。ぼくは同誌については特集によって年に数回購入する程度だったけれど、いざなくなるとなると寂しい気がする。

今、多くの雑誌がその部数を落としている。新聞も同様だ。書籍も売れなくなっている。活字離れとか以前から言われているが、こと情報モノに関してはそうではない。ネットで読むようになっただけである。活字は読まれている。

それにしても「週朝」は、日本で最も長い歴史を持つ総合週刊誌で、創刊が1922年(101年前!)。その雑誌がなくなるのには、ちょっとした時代の転換感がある。発行のピークは1950年代で、当時の発行部数は150万部を超えていたらしいが、それが今は7万部代にまで減少していた。

編集長の渡部薫さんという方の発案で、終末を迎える雑誌のYouTubeチャンネルが開設された。このまま消え去るのが悔しいのか、会社の上層部へのうさ晴らしなのかわからないが、いなくなる前に自分たちの存在を残しておきたいのだろう。

 
「休刊の真実」と銘打ったクリップの中で、編集長は休刊に至った最大の理由として広告が入らなくなったことを強調している。広告が取れない雑誌は制作を続けるのが難しい。「暮らしの手帖」なんかは、きわめて特殊な例だ。

雑誌が売れるかどうかは読者次第だが、広告媒体としての価値は広告主である企業と広告代理店が決定する。もちろんその判断基準には発行部数があるから両者は切り離せないところはあるけど、広告部門はもっと頑張れなかったのか。

10年以上前になるが、ニューヨークで暮らしていたとき、現地で雑誌を5、6誌ほど定期購読していた。マンハッタンのど真ん中に住んでいたので外に一歩出れば雑誌はすぐに手に入ったが、定期購読は価格が圧倒的に安かったからだ。

年間購読なら送られてくる雑誌一冊当たりの価格は定価の10〜20%。定期購読者で安定して発行部数を確保し、広告収入で稼ごうという考えだ。日本でも低廉な価格が適用される第三種郵便物という制度があるが、そうした幾ばくかの変動費さえまかなえればそれでよし、という購読料金設定がなされていたのだと思う。 

企業の広告費の使い道がかつてのマス媒体からネットに移っているわけだが、ネット広告って企業のマーケティングに実際に役に立っているのだろうか。ネットユーザー<1人ひとり>の嗜好やこれまでの購入歴に合わせて商品を提示できるというけど、ただ鬱陶しいだけ、そして目障り。ネット上のほとんどの広告は「表現」にすらなってない。目をそらせたくなるモノばかり。

広告会社など関係している連中は表現をどう作り、どう見せるかをちゃんと考えるべきだろう。それができないなら、すべてA.I.にやらせた方がいい。無料でニュースページを見せているからといって、これ以上不愉快にさせられてはたまらない。

2023年4月28日

1年間、わずか1000円の贅沢

沢野ひとしさんに倣い、ぼくも毎朝10分の時間を区切り身の回りの片付けをすることにした。10分しかやらないのが秘訣。 

この際の片付けとは、あるものをあるべき場所に戻してやること、もしくはなくしてしまうこと。できれば後者で行きたいと思いながらの10分である。

ものを捨てるのは難しい。これは世界中で古来から思われていることに違いない。つまり、人間の性(さが)に強く根付いている。断捨離や、片付けに人生のときめきという表現が使われるのもそのためである。

身の回りがすっきりと片付いていた方がいいと思うか、雑然としていた方が落ち着くかは人それぞれ。どっちでもいいが、身の回りにどんなものがあって、それが必要かどうかくらいは分かっていた方がいい。だから、普段目が行かない本棚の棚にある書籍などを引き抜いてみる。

本の間に挟まれて岩波書店の『図書』が出てきた。表紙をめくると沢木耕太郎のコラムとその号の目次があらわれた。きら星のような書き手がならんでいる。

定期購読のための払込み用紙が挟み込まれており、購読料は送料込みで1年間1000円。これって、ずいぶん昔から変わってないように思う。確実に赤字のはずだ。

そういえば先日、ある取引銀行が今後、取引明細書の送付を有料にすると言ってきた。「紙の使用を減らし、環境への負荷をなくすため」など相変わらず子供だましの理屈を書いていて、今後は毎月220円の手数料がかかるそう。こちらは年間2640円。

2023年4月22日

これも利用者サービスのひとつ

最寄りの駅に東急線が乗り入れ、渋谷方面に出るのが幾分楽になった。乗換なしで勤務先まで行けるようになったのは助かる。

それに合わせて、東横線沿線のいくつかの駅を以前より利用するようになり、その1つが沿線のある駅ビルの中の図書館だ。先日、図書カードを作るために立ち寄った。

カウンターで手続きをしているぼくの脇に女性が何人かならんでいる。みな、手には本を抱えている。彼女らの先にあったのは「除菌BOX」と書かれた金属製の箱だ。


この銀色の箱で除菌するらしい。図書館の本は誰が使ったか分からず、どんな菌がついているか分からないからだろう。

だがそこまで気にするかどうかだナ。図書館の本に限らず、書店の棚にある本だって誰が触ったか分からない。神経質になって気にし始めればキリがない。

ただ利用したい人は結構いるようで、そうした利用客からのリクエストでおそらくは設置されたんだろう。新型コロナの影響が大きいかもしれない。

ぼくは本をわざわざ除菌ボックスに入れる気はないが、せっかくだから何か入れたくなった。よく「人は金槌を手にすると、釘を探す」なんて言うが、それに近い。自分の頭を突っこんで除菌してもらおうかとアホなことを一瞬考えたが、扉が閉まらなければ除菌はできない。

そうだ、財布を入れてみようかーーやってみようとしたら、すぐそこにいた図書館スタッフに止められた。