2020年3月11日
2020年3月9日
主人公との同化
舞台は1917年(ソビエト連邦の成立につながるロシア革命が起きた年だ)、ドイツ軍と英国軍が戦闘を繰り広げていたフランス。そこで重要な伝令を託された英国軍の2人の若者が、防衛線を越えて敵の占領地に分け入り、罠にかけられようとしている味方軍にその事実を届けるというもの。
スーパーマンでも何でもない普通の兵士2人が、まさに命を賭けて(というか、戦場そのものがそうした場所なのだが)敵陣をくぐり抜けていくというサバイバルゲームを見ている感覚。
2人は走る、走る。それを長回しのカメラが、いい距離感で追っていく。まるで自分が主人公の一人になって戦場の中を命がけで駆けている気にさせられる。
近代兵器が生まれることで一気に闘いが凄惨なものとなった第一次大戦の悲惨さが伝わってくる。徹底して敵であるドイツ人は、薄汚いイヤな奴らとして(しっかり)描かれている。ドイツではこの映画、あまり流行らないかもしれない。
それにしても、観るものを主人公に同一化させる映画手法はすばらしい。カメラや美術のテクニックが抜きんでているのはもちろん、観るものの五感に訴えるように計算された細かい演出が心憎い。
主人公の近くで爆裂し、耳をつんざく砲弾の音。ドッグファイトで撃墜された敵の飛行機が主人公たちに迫ってくる息を呑む迫力の映像。そうした典型的な映画的体験だけではない。
ポケットから取り出して2人で分けて食べる固いパンはその食感を観客に伝え、喉が渇いた彼らが農場の跡で見つけた牛乳は、その甘い匂いを漂わせていた。
そして何よりも感覚を共有させられたのが、主人公が自陣を離れ、鉄条網を抜けながら敵陣に入って行くときに手の平に刺さったその鉄の棘の痛さ。立ち止まることができないなか、泥の中を進みながら血が流れる手の平にもう片手で包帯を無造作に巻きつける。
観客が主人公と同化するこうした仕組みがうまく盛り込まれている。だから、主人公は特殊な能力を持つスーパー戦士ではなく、たまたま上官によって指名された普通の兵士がふさわしい。
2020年3月7日
「感謝状」は感謝の気持ちを込めて渡してあげてほしい
その会社の定年退職式が2月の末にあったと聞いたが、感染騒ぎの影響で、人の密度を下げるために会議室を分けて実施され、感謝状は社長からの手渡しではなかったとか。
おそらくは式典を取り仕切った人事部の判断なのだろうが、それに従って感謝状を感謝の気持ちの感じられないやり方で渡した、その社長もどうかしている。
2020年3月6日
こんな専門家は、迷惑千万。誰か、何とかしてくれ
いま日本中がコロナウイルス感染対応と、その数々のリアクションで大騒ぎだ。
この1〜2週間が山場だとか、この週末を乗り越えられればとか、この4月以降は収束に向かう模様だとか、メディアでは専門家らしい人たちがそれぞれの見解を述べているが、どれも信用できない。だって、エビデンスが何も示されないんだから。
C.D.C.(Center for Disease Control and Prevention アメリカ疾病管理予防センター)のディレクターは「この病気はインフルエンザに似ているが、問題は我々がそれが何なのか理解していないことだ」と述べ、ワクチンがまだ見つからず、今の状況はこの季節を越えて続くだろう、あるいは年を越えても続くだろうと語っている。https://www.youtube.com/watch?v=kX5bFqgD3Cs
ええっ!て感じである。日本の専門家が語ってることと見方がまったく異なっている。
日本の感染病の元締めは国立感染症研究所(感染研)であり、厚労省や官邸の政策にそこが多大な影響を与えているようだが、これまで(例えば季節性インフルエンザ)のワクチン製造の音頭取りの不適切さ、つまり国民の命や健康を第一義に据えるのではなく、自分たちの利権を常に最優先してきたやり方からは、今回もまたか、と言わざるを得ない。
客船のダイヤモンド・プリンセスで発生した700人を超える感染者を招いたのは、まさに感染研の不作為による。
いま僕は、コロナウイルス関連の情報について日本のメディアはまったく信用しないことにしている。代わりにCNNやBBCといった海外メディアでの報道を仔細にチェックする。科学的な根拠をもとにしたコメントが聞けるから。そして何と言っても一番頼りになるのは、米国のCDCの責任者から伝えられる情報だ。
日本は未だに自分たちが何をどうしたらよいか分からないまま、目先の対応だけを気分でやっているように見える。日本人が得意な「そのうちなんとかなるだろう」である。
だが残念ながら、コロナウイルスはそうした日本人の気分を忖度してくれはしない。政府の施策は「私たちはやってますよ」という言い訳と証拠づくりだけが目的で、ただ時間と税金の無駄遣いに終わる。僕は、今回の闘いは長く続くとみている。
日本の感染症対策の第一人者だというふれこみの賀来満夫(東北医科薬科大特任教授)なる人物が、毎日新聞社のインタビュー(以下のリンク)に答えている。本日付の記事の見出しは「新型コロナ「4~5月がピーク」 感染症対策の第一人者、東北医薬大・賀来特任教授」である。
https://mainichi.jp/articles/20200306/k00/00m/040/020000c?cx_testId=96&cx_testVariant=cx_5&cx_artPos=2&cx_type=collabctx&cx_recsMode=collabctx&cx_testId=96&cx_placement=1000&cx_campaign=5#cxrecs_s
賀来はインタビューの中で、新型コロナについて何の科学的根拠も示さず「1~2週間が山場」だと言ってのけた。
また、こうも語っている。
SARSは2002年11月に確認され、ピークは03年3~4月で同7月に終息宣言が出た。その例を考えると、今回は19年12月に始まったことから、20年4~5月がピークで、8月まで続くと推測する。
おいおい、ちょっと待ってくれ。現時点で実体がまだ分かっていない新型コロナウイルスについて、なぜSARSを引き合いに出して単純に今後の感染予測が成り立つのか?
日本の「第一人者」とやらがこうだから、他は推して知るべしだろう。とっても不安、そして腹が立つ。頭に浮かぶのは、こうした不見識な「専門家」に振り回されるかもしれない不幸な日本人のこれからである。
62歳ってどんな歳
バッテリー交換についてアマゾンに相談したところ、キンドルはバッテリーの交換ができないとのこと。10年以上使っているから、仕方ないか。彼(たぶん中国人)は、割引のクーポンを出すから新しいの買ってはと提案。
その後の対応はアマゾンらしい。そのあと、アマゾンのサイトでキンドルの新製品を選んでショッピングバッグに入れ、そのままチェックアウトしようとすると約束の割引がすぐさま適用されて請求金額が変更になった。実にスマート!!
今度購入したキンドルは防水設計。だから、風呂場に持ち込んで湯船で読書できる。これがなかなかいい。
私立探偵フィリップ・マーロウのその後を描いた Lawrence Osborne の Only to Sleepを湯船につかりながらキンドルで読んでいたら、こんな1節にあたった。
Seventy-two isn't a bad age, but sixty-two is too old to be working. Your are just impersonating the man you used to be. Retirement had seemed like the best way not to die ...62か・・・。
2020年3月4日
停滞し、自らの首を絞める日本
新型コロナウイルスの国内の感染者数は、例のクルーズ船を除くと3月1日現在で239人。この人数をどう見るかはいろいろあるだろうが、人口比での確率は0.0002%である。感染が原因で肺炎などで亡くなった死者数は国内では6人だ。
どこでどういうルートで感染するかが分からないため疑心暗鬼になっているようだが、常識的に考えれば、今われわれがやっていることがどれだけバカバカしいことか分かるはず。
学校は休校になり、各種の催しものは中止。博物館、美術館まで閉館になっている。なんともはやだ。だがその影響で、電車は空いているし、どこも人が少なくていい。いつも混雑している観光地も閑古鳥が鳴いている。どんどん出かけていくチャンスだ。
ところで、テレビで新型コロナウイルスに関しての報道の際にウイルスの顕微鏡写真が映される。これを視聴者に見せることで何が伝わると考えているのだろうか。何か得体の知れないものに人間が襲われているという妙な感覚だけが残る。それ以外の意味はない。学校の理科の授業じゃないんだよ。
国立感染症研究所のクレジットがついた映像 |
2020年2月26日
2020年2月23日
ラオス象の水浴び
2020年2月22日
廃物利用
痩せた畑に、粗末な小屋がいくつか建てられていた。その高床式の小屋には収穫した作物が収められるのだろうか。よく見ると、建物のその足は木造ではなく鉄製であることが分かる。
かつてベトナム戦争で爆撃された地域。落とされたその爆弾の薬莢を小屋を支える柱にしている。ある種の廃物利用であるが、これなら木と違ってネズミが昇ってこられないというメリットがあるらしい。
村の子供ら。
2020年2月12日
カズ・ヒロは、なぜ日本の文化が嫌になったのか
「ウィンストン・チャーチル」で受賞して以来2年ぶり、カズ・ヒロ(辻一弘)さんが米映画「スキャンダル」で2度目のメーキャップ・ヘアスタイリング賞を受賞した。おめでたい。
ただ、授賞式後の記者会見で彼が話したという、以下の談話が少し気になる。
彼は、記者から「日本での経験が受賞に生きたか」と訊ねられ、英語で「(日本の)文化が嫌になってしまった。(日本で)夢を叶えるのが難しいからだ。それで(今は)ここに住んでいる。ご免なさい」と応えた。その場でそれ以上の詳しいコメントは語っていない。
そういえば以前彼は、日本人の映画ジャーナリストのインタビューでこう述べている。少し長いが引用しよう。
また彼は、こうも述べている。日本の教育と社会が、古い考えをなくならせないようになっているんですよね。それに、日本人は集団意識が強いじゃないですか。その中で当てはまるように生きていっているので、古い考えにコントロールされていて、それを取り外せないんですよ。歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう。人に対する優しさや労りとかは、もちろん、あるんですけど、周囲の目を気にして、その理由で行動する人が多いことが問題。自分が大事だと思うことのために、自分でどんどん進んでいく人がいないと。そこを変えないと、100%ころっと変わるのは、難しいと思います。
自分が何をやりたいのか、何をやるべきなのかを自覚して、誰に何を言われようと突き進むこと。日本は、威圧されているじゃないですか。社会でどう受け入れられているか、どう見られているか、全部周りの目なんですよね。そこから動けなくて、葛藤が起こって、精神疾患になってしまうんです。結局のところ、自分の人生なのであって、周りの人のために生きているんではないので。当てはまろう、じゃなくて、どう生きるかが大事なんですよ。ああやっぱり。日本の社会の空気は重苦しく、息が詰まるようなものに感じていたんだろう。今の日本社会の同調圧力やら、くだらないKYやら、忖度やら。
国籍や性別や年齢や、そうした属性に関係なく世界で勝負でき、生きていける人は一様にどこかで彼と同種の思いを持っているはず。
2020年2月11日
「パラサイト」作品賞ほか受賞
この数年、ノミネートされる候補が白人や男性に偏っているという批判が強く、そのためアカデミー賞を選考する米国の映画芸術科学アカデミーは、会員を急速に国際化、多様化している。 昨年度は、スペイン語映画「ROMA」(確かネットフリックスの製作だった)が監督賞を受賞など3部門で受賞したのもその流れのひとつだろう。
今回、そうした時の利もあったが、ポン・ジュノ監督の手による本作品は、細心の演出が行き届いた、それでいて大胆で想像力豊かに練り上げられたプロットが魅力の一作だった。
受賞後の会見で、同監督は「私が自分の身近なことに没入すればするほど、物語はより大きくなり、国際的にアピールするようになった」と語った。このコメントは、とても大事な示唆を与えてくれる。
たとえ特定の文化や地理、時代を元にした作品でも、そのテーマの純度と作品としての完成度を上げれば、そこには普遍性が浮かび上がってくるということだ。黒澤明監督の「羅生門」を観たときに、なぜこの作品が外国の映画関係者から評価されてヴェネツィア国際映画祭でグランプリにあたる金獅子賞を受賞できたのか思ったが、その理由が腑に落ちた気がする。
この映画は、現代の韓国社会の経済的格差、二極化、社会の硬直さをその背景としているが、本作品のアカデミー賞受賞を受けて、文在寅大統領が発表したコメントが振るっている。「最も韓国的な話で世界の人たちの心を動かした」だと。冗談キツイよ。
そうした格差を解消できないどころか深刻化させているのは、あなたたち為政者ではないのかーー。それともこの映画に倣ったブラック・ユーモアでもかましたつもりか。
いや、単にこの映画を観ていないだけだろう、きっと。
2020年2月7日
言い間違えも悪くない
社名がMRJからスペースジェットへ変わった際の話題などを経済評論家の伊藤洋一氏がゲストとして語っていたのだが、彼が「スペースジェットのエンジンは、ホイットニー・ヒューストンで・・・」と言ったのを聞いて、飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
故ホットニー・ヒューストンさん |
プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)って言いたかったんだろう。
2020年2月6日
増刷の連絡から思ったこと
2000年に出版された本だから、もう20年である。今回で25刷目になるという。ビジネス書でこのように息長く店頭で購入されているのは、珍しいかもしれない。
この本は原題が Kotler on Marketing だったので、『コトラーの戦略的マーケティング』というタイトルにした覚えがある。
その後、本書にあやかったのか、コトラーが書いた本の翻訳はほとんどすべて「コトラーの」という枕詞がつくようになった。検索してざっと数えただけでも、書籍だけで15冊以上。Kotler on Marketing のように元の書名タイトルにコトラーが付いているわけではない。
ちなみに、それらの多くはコトラーが中心となって書かれた本でもない。付け足しのように序文だけコトラーで、にもかかわらず、出版社の売らんかな精神で彼の名を書籍タイトルに付けたものが多々ある。
コトラーは1931年生まれなので、今年89歳。少なくともこの10年ほどは、彼の弟と息子が中心の家族経営会社、コトラー・マーケティング・グループが彼を商品としてブランド化し、稼げるうちに稼ごうとビジネスしている感じがする。
ま、それもひとつのマーケティングではあるんだけどね。
2020年1月25日
その薄ら寒さと理不尽さ
1996年、アトランタでアトランタの屋外コンサート会場で発生した爆破事件現場から物語が動き始める。そこに警備員として働いていたリチャード・ジュエルは、最初その第一発見者として英雄視されるが、やがて実行犯の手がかりを得られないFBIから容疑者として疑われるだけでなく、捜査官らによって「犯人」に仕立てられていく。
日本でもかつて、松本サリン事件の第一発見者だった河野さんが報道によって犯人視されたのと同じである。
2020年1月15日
必要なのは、利用者に選択肢を与えること
日本国内だけでも、Windows 7搭載のパソコンは約1,400万台残っている。マイクロソフトは、このまま使い続けるとウィルス感染などのリスクがあるためウィンドウズ10など最新のOSへ切り替えること、あるいはウィンドウズ10を搭載したPCに買い換えることを推奨している。
もう利用者が少なく、その割に費用がかかるというのなら仕方ないかもしれない。しかし日本国内だけで1,400万台、世界中ならおそらく1億台近くがまだ使われているんじゃないかな。
これらを無視してサポートを中止することに、なぜ批判が出ないのか。僕はマックユーザーだから個人的にはあまり関係ないが、Winユーザーはどうして怒らないのだろう。既に「そういうもの」だと思わされているからだろうか。
マイクロソフト社が、サポートを続けるのには費用がかかるからというのであれば、費用をユーザーに課金すればいい。
この機会にOSをアップグレードしたい、あるいはPCを買い換えたいと考える顧客もいれば、このままサポート費用を払ってでも今のOSを使い続けたいというユーザーもいるはずだ。
そうした選択肢を消費者に与えることが大切なのに。
2020年1月13日
映画「パラサイト 半地下の家族」のブラック・ユーモア
半地下だから陽の光があまり差さない。湿気が多く、かび臭い。そして、便器の奥から下水が逆流してこないように、トイレが部屋の中で一番高い場所に設置されているのには苦笑するしかない。
3浪中の息子はその経験を活かしてパク家の高校生の娘に受験勉強を教えるのがうまい。美大希望の娘は機転が利き、わがままでパク夫妻が手を焼いている息子もあっという間に手なずけてしまう。元ハンマー投げの選手だった母親は、その家の家政婦として料理や家事に腕を振るう。
そして職を転々とし、やがて事業に失敗して失業中の父親は、IT企業の経営者であるパク家の主人の運転手としての技量だけでなく、雇い主の気持ちに添った会話がしっかりできる人生の経験者だ。
2020年1月12日
懐かしき、壮絶なサーキットの闘いを描いた一作
怒ったフォードⅡ世がフェラーリに闘いを挑むのだが、レースについては何も知らない彼らが勝てるわけもない。そこで助っ人として、元レーサーのシェルビーにル・マン出場のためのチーム監督として白羽の矢が立てられる。ドライバーは、彼が連れて来たマイルズ。それぞれ、マット・デイモンとクリスチャン・ベイルが見事に演じている。
急速に移行しつつあるEV(電気自動車)には、耳をつんざくエンジンノイズも排気ガスの臭いもない。これはかつて、自分たちの青春時代をクルマとともに過ごしてきた連中が、あの頃を懐かしんで作った映画のように思える。
2020年1月11日
ロング・ショットとは、「高嶺の花」の意味
感心させられたひとつは、字幕翻訳がよく練られたものだったこと。コメディならではの俗語や独特の言い回しも多かったのだが、うまく元の意図をくみ取った字幕がつけられていたと思う。
2020年1月8日
ゴーンの記者会見
CNNとBCCでゴーンが説明をする中継を見たが、その会見は約一時間に及んだ。よほど言いたいことが溜まっていたんだろう。内容はともかく、その気持はよく伝わって来た。こうした会見を日本で、日本のメディアの前で行ってもらえなかったのが残念だ。
当然ながら彼は、自己の正当性をこれでもかと主張する。それも日本人とは違い、自分の非は一歩たりとも認めない。実際はそんなことはあり得ないのだが、外国人は自分の正当性を主張するときは、手段として自己の正当性を完全に主張する。日本人には相容れないところだ。
だから、どうやって日本から忍者のように身を隠して出国審査の目をだましたかといったことには、まったく触れない。自分の非がある領域には、当然のことのごとく目を向けることすらしない。
今回のこの会見に対して日本の司法当局がどう出るか。ゴーンの肩を持つわけでないが、当事者らのことをほとんど省みない司法当局のやり方は指弾されても仕方ないかもしれない。
慎重に審議を重ねているといういかにももっともらしい言い訳で、どうみても必要以上の時間を消費し、関係者に多大な負担をかける裁判制度をあらためようとはしない。裁判官に係争人の当事者意識を持てというのはおかしいかもしれないが、自分たちの都合と保身だけで周りをコントロールしようとするのは間違っている。
今回のことでゴーンは日本では悪人としての烙印を押されたことになったわけだが、日産ははその被害者なのか、あるいは共犯なのか。日産は一所懸命に被害者づらをしているように見えるが、社会の信頼を裏切り、違法行為を追認したという意味では実際は共犯だ。
もちろんゴーンは悪いが、日産という大組織を彼一人がすべて回していたわけではない。そんなことは不可能だ。何百人もの取り巻きがいたはずなのに、そうした連中は批判されないのが不思議である。
ゴーンを担いで大得意になっていた日産の経営者はたくさんいる。ゴーンにすべてをまかせ、称賛も責任も彼に与え、落ち込んでいた業績からの復帰で沸いてきた甘い汁のおこぼれを静かに、だがしっかりとすすっていた日産の日本人幹部らが。
日産を辞めた後、いまも各種団体で役員などに就いていうようなそうした連中に責任がないはずはないだろう。だが、どれもだんまりを決め込んでいる。
技術者や販売の現場は、かつてもいまもボードルームで何が起こっているかなど知らず頑張っているに違いない。ただ、経営者とその周辺が腐りきり、かつての名門企業をおとしめた。今日の多くの日本企業に見受けられる様相である。
言うべきことを言わないという、日本人のシンプルかつ致命的な習癖がそれを形づくっていく。