2018年12月20日
岡林信康50周年コンサート
観客は60代以上の男性がほとんどだ。白髪、白髭、禿頭のオンパレードである。笑っちゃうよ、まったく。連れの女性に体を支えられて、何とかかんとか歩いているかつてのロッカーもちらほら。
コンサートは、岡林がステージに現れ、「どうも、沢田研二です。今日は満員じゃないけど、心を入れかえて歌います」と言ってまず一曲。いやはや、関西人である。
途中の休憩時間には、男性用のトイレからあふれた男たちの列がホールにもずらっと続いていて。初めて見た珍しい風景。
ゲストの予定だった山下洋輔がケガのため出演できなくなったのは残念だったけど、岡林がギター一本で歌う姿は懐かしく、中学生時代の自分がふっと頭に浮かんできて不思議な感覚だった。
2018年12月15日
日本は本当に出遅れたのか
また、現金で買い物した時におつりがよく間違っていたり、またごまかされたりするという。偽札が頻繁に出回っているため、おつりをもらった時には高額紙幣の場合それを光に透かして本物かどうか確認したりする必要もあるらしい。さらには、日本と比べて古い紙幣が中央銀行によって交換されないまま流通しているために、異常に汚れ、ヨレヨレで触るのも憚れるようなものが一般的にまだ用いられているという状況だ。
2018年12月14日
NHKもキャラクター商売
知らなかったが、この地下にNHKキャラクターショップなるものがあり、そこへ向かう行列だった。
http://www.nhk-character.com/chara/chico/images/chico_catalogue.pdf
並んでいたのは、いい年をした(失礼!)おじさんとおばさんがほとんどなのが、ちょっと意外。
チコちゃんとは、着ぐるみで顔の表情をCG加工したあの「ボーと生きてんじゃねーよ」と大人を叱咤する少女のキャラクターである。ボイスエクスチェンジャーで変換した独特の声が耳に残っている。
僕と同年代の男女が列をなしてキャラクターグッズの発売を待つほど人気とは知らなかった。
2018年12月13日
ソーセージパテは、オクラホマから
台車に積まれた段ボールが所在なげにおかれていて、それにふと目をやると、ソーセージパティ Manufacutured By Lopez Foods Inc. Oklahoma City と書いてあった。
マックは、食材をわざわざ北米から輸入してる。冷凍輸送しても、その方が安価なんだ。
2018年12月12日
横文字経営
EGSは環境、社会、ガバナンスのそれぞれの頭文字。SDGsは「持続可能な開発目標」と説明があり、CSVはCreatng Shared Value=共通価値の創造のことである。
今さらながらだが、書き手も読者もこうしたアルファベットを並べた文書を読んでどれほどの理解をしているのか疑問に感じる。
環境を考え、社会的にきちんと適応し、ガバナンスに沿った経営が求められていることは常識のレベルだ。
SDGsは、2015年の国連サミットで設定された17のゴール(目標)のこと。
大切なのは、そこで掲げられている個別の目標であり、その実現のための活動や施策だ。SDGsという<標語>ではなく。
Creating Shared Valueは、米国の有名な経営学者が唱えたことで日本企業の経営者の口にものぼることになった考えだが、これとて近江商人が持っていた「三方よし」の理念と本質的にどれだけ違うのか。
自らの足下すらよく見ず、舶来ものの考え方を即物的に有り難がる傾向は明治時代以来変わらぬの日本の伝統か。こうした言葉を軽々に振り回す人たちほど、何かというとイノベーション、イノベーションと五月蠅い。
2018年12月11日
没後50年の藤田嗣治展
今回は没後50年ということでの大回顧展とうたっており、100点以上の作品が展示されていた。
おかっぱ髪に丸眼鏡、ちょび髭の藤田は、その独特の風貌と画家として活躍したフランスでレオナール・フジタと呼ばれていたといったことから、繊細で女性的なパーソナリティだと勝手に思っていたのだが、今回の回顧展で知った藤田は明治半ばに生まれた極めて日本的で男性的な人物だと思った。
画家としては大変精力的で、フランスを中心にヨーロッパ、日本やアメリカ(ニューヨーク)、南米各国を旅しながら数多くの作品を制作していて、それらの土地の空気やそのときの時代性がキャンバスに描かれている。
藤田といえば女性の肖像と自画像というイメージがあったが、僕は彼が南米のペルーやボリビアで描いた現地の人たち、つまりインディオと呼ばれている人たちを描いたものがひときわ印象に残った。
2018年12月9日
2018年11月26日
Ghosn(ゴーン)has gone.
2018年11月25日
何十年ぶりかに聞いた「四当五落」
この記事を書いたのは、推測だけど、かなり年配で、かなり不勉強な日本人記者だろうね。今では誰も口にしないような言葉を(英文紙の読者だから分からないだろうとたがを括って)さも現代の日本人たちが使っているように書いているのは、われわれ日本人にもFTの読者にも失礼なこと。
僕の経験則からだけだけど、英国のメディアはこうした日本人のエキセントリックさを紹介する記事が大好きだ。それこそ、そんな日本人ってどこにいるの? そんなのいても10万人に一人いるかどうかといった、かなり奇妙で外れた日本人をもってしてあたかも今の日本人の一般像のように見せかけて表現することをやる。
読者がそうしたものを好むから、というのが最大の理由なのだろうけど。いまだに「日本人というのは奇妙でおかしな連中」と思いたがる英国人読者性向がその背景にある。そして、そうしたものが結果として国のイメージを形成していくのだ。いやはや。
2018年11月12日
秘密は秘密じゃない
2018年11月9日
2018年11月8日
前提が示されなければ、意味をなさない
しばしばニュースで「○○すれば、○○○億円の経済効果が期待できる」とか「○○する人は、全国に○○万人いるといわれる」といった記述を目にする。
その度、「ホントか?」と思う。そこに書かれていることが事実かどうか、あるいは推定上の数字だとしたら、その算定根拠をメディアは示してほしい。
例えば、2020年の東京五輪の経済効果は、報道によれば7〜32兆円となっている。また、2019年開催予定のラグビーワールドカップ東京大会の経済効果は4400億円と試算されている。
当然ながら、数字はいくらでも作ることが可能なので、大切なのはどういった前提が据えられているかを我々が知ること。そうでないと、それらを信頼することはできない。
問題なのは、根拠のわからない数字をそのまま記事に使っていたり、そもそも書き手が疑問に思っていないことーー。役所から配られた文章は正しいもの(あるいは文責は自分たちにはない)と考え、確かめることなく記事に載せる。
今年ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑先生は「教科書を信じるな」と記者会見で訴えていたが、今われわれに必要なのは裏付けのない数字や主張を容易に受け入れることなく、疑問を習慣的に持つ態度である。
メディアには数字の裏付けを取り、根拠を国民に示すことを求めたい。それができなければ、いずれれは戦中の「大本営発表」がそうだったように国民を欺き大きな過ちを招くことにもつながりかねない。
紙の新聞の場合、これまで紙幅の都合でデータの詳細や調査手法などを詳しく説明することはできなかったが、いまはネットで補足すればよい。紙の新聞の該当部分に<注番号>をふり、それをもとに読者がウェブ上で注釈として読めるようにすればいい。難しいことは何もない。
新聞社にとっては、そうすることで読者にウェブを訪ねてもらうよいきっかけにもなるし、読者のリテラシーも確実に向上する。
ぜひ実現して欲しい。主要紙のどこかがやり始めれば、他紙もそれに倣うようになるはずだから。
2018年11月7日
『華氏119』と中間選挙
ドキュメンタリー監督、マイケル・ムーアの最新作。11/9は、トランプが米国の大統領に選ばれた大統領選で勝利宣言をした2016年11月9日を指している。
なぜトランプが大統領選に出馬することになったか、どうしてほとんどの人がその時まで信じて疑わなかったヒラリー大統領が実現しなかったのか、民主党がどうやって変節を遂げるに至ったか、オバマが我々が知っているだけの姿ではないことなど、他国のことというのもあるが、いままで知らなかった米国政治の状況を知ることができた。
一言で言えば、共和党だけでなく、民主党も腐っているということ。民主党は、実は先の大統領選で負けるべくして負けたことが分かった。その間違いの源は、大御所と言われる古株の民主党の有力議員たちだった。
既得権を持った彼らには、イデオロギーよりも自らの利益誘導と保身が最優先されたからだ。これって、米国の話だけじゃないよな。
ただこの映画の中で詳細に、かつしつこい位に描かれているのは米国の若者、それも大学生ではなく高校生たち!の賢く勇気ある行動の数々。この点では彼我の違いにため息がでる。アメリカが凄いな、と思わされるのはこうした若者たちの姿を見るときだ。
明日には選挙結果の趨勢は決していることだろう。さて、どうなるか。とりわけ映画に出ていたNY州の候補、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスとミシガン州の候補、ラシダ・トリーブの結果が気になる。
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後記(11月7日)
コルテスさんもトリーブさんも当選したね。
http://www.afpbb.com/articles/-/3185455
https://www.mashupreporter.com/alexandria-ocasio-cortez-ny-primary/
2018年11月6日
失われた8年を取り戻せるか
昨日、早稲田大学の第17代総長に田中愛治教授が就任し、彼から「教職員のみなさんへ」と題する一斉メールが送られてきた。
当然ではあるが、やる気満々の様子で今後に期待している。彼は早稲田出身だが、早稲田で教授になる前に複数の他大学で働いてきた経歴を持っている。それがどうしたと言われそうだが、これまでの総長はいずれも早稲田大学の「純粋培養」だった。
つまり、早稲田大学で学部の課程を終え、そのまま同大学院の修士課程、博士課程へと進学し、その後覚えめでたく助手として採用されれば、あとは歳を経ることで専任講師、助教授(現准教授)、教授となってきた人たち。
18歳で大学に入学したとしたら、同じ組織のなかだけで(途中で留学とかしなければ)半世紀近く生きてきた人たちということになる。それってどうなんだろう・・・? 他所のメシを食ったことがなければ、自分が食べているメシの味を相対化することは難しい。
そうしたなか、彼は他のいくつか大学での研究と教育の経験を経て早稲田に戻ってきた人物だけに、これまでの総長とは違う判断ができることを期待している。
前総長の8年間は、まるで時間が止まっていたようだった。20年後を想定して「Waseda Vision 150」とやらを学内の多くの資源を投入して策定させたが、それだけのように思える。
詳細な長期計画を作るのはいいが、企業でもコンサル会社に大金払って気の利いた長期計画書を作成してもらい、それで何か将来の業績が約束されたかのような気分になっている経営者が多いのを思い出す。
組織として守り信じる基本的理念を徹底しさえすれば、あとは環境に柔軟かつ先行的に適応することの方が、定型的な長期計画をシコシコ作って満足するよりよほど大切だと思う。
失った8年を彼がどうやって取り戻すかが、大学のこれからの明暗を分ける。
2018年11月5日
村上春樹の記者会見
2018年11月4日
思考の芸術
男性用小便器を「泉」と題した芸術作品と定義したことで有名だが、この作品の原題 Fountain は日本語では泉より噴水とした方がイメージがわくと個人的には思うのだが、どうだろう。
僕は大学のマーケティング授業のなかでポジショニングについて学生に説明するとき、実体を変えずにそのものの位置づけや意味を変えた一つの例として彼のこの作品を紹介することがある。
デュシャンはそこに描かれた表現よりも、それが帯びている意味や思考、解釈を芸術の根幹と捉え、すこぶる自由にアーティストとしての活動を行った。
やがては絵画制作を放棄し、大量生産品から彼が選んだものを「レディメイド」という名で作品化するにいたるーーただし、今回の展覧会には彼の初期の絵画作品も十数点飾られていたが、それらはどれも技巧的に優れたものだった。
キャンベル・スープの缶のデザインをモチーフとして取り上げたアンディ・ウォーホルは、デュシャンの価値の転換を換骨奪胎したことに気づく。
2018年11月3日
2018年11月2日
地上350メートルからの眺め
2018年10月28日
2018年10月25日
十五夜の月
最初に撮った一枚が次の写真だ。2420万画素あれば、月面のクレーターの凸凹もこれだけ写る。
満月の月は神秘的で本当にきれいだ。これまでも数えられないほど見ているにもかかわらず、眺めていて飽きない。