2026-02-21

顧客にとって便利なのはどっちか

たまたま2つのクレジットカードの有効期限がそれぞれ近づき、切り替え用のカードが手元に送られて来た。一つは日本の銀行から、もう一つはアメリカの銀行。

これまでもそうだったが、日本のM銀行からはある日突然に「簡易書留」できた。郵便局からの配達があった日は留守だったので、不在連絡票をもとに後日の再配達を依頼。指定日は受け取りのサインをするために自宅で待つことに。

ほぼ同じタイミングで、米国citibankから、まもなく新しいカードを発送する、発送元が記されてない真っ白の封筒で送付する、とのメールが来た。数日後には、カードを本日発送したとの別のメールが来た。

翌週、その通りの封筒が届いた。入っていたカードはそのままではクレジットカードして使えない状態で。つまり、ただのプラスチックのカード。

アクティベーション(有効化)用のURLにアクセスするか、QRコードをスマホで読み込んでカード番号、ユーザーID、パスワード、口座番号を打ち込む。するとクレジットカードとして使えるようになる。 

 


これなら普通郵便でそのまま届くから、自宅で受け取りのサインをする必要はなく、セキュリティも確保されている。

有効化の手続きは2、3分ですむ。しかも、現行のカードはまだ1か月以上使えるのだから、時間のあるときにやればいいだけ。 

なぜ日本の銀行は受取人サインが必要とされる書留の郵便で送ってくるのだろう。それは誰のため? 

このあたりが企業のサービス思想の違いである。 

顧客の利便性の点で、どちらのやり方が優れているかは明らかだと思う。もし客の側が書留送付を好んでいるから、というのを理由にするなら、カード送付前にどちらを選ぶかユーザーに尋ねて選択してもらえばよい。

それだけでも顧客の満足度は確実にあがるはずなんだけどね。

2026-02-20

報奨金付きの通報制度をどう見るか

茨城県は2022年から2024年の3年連続で不法就労者数が全国で最多だった。

だからどうした、と思うのだが、行政の長はそう考えないらしい。県知事はそれを不名誉と考えたのだろう。そしてその不名誉の座を返上するための対策として、不法就労の外国人に関する情報を市民から募ることで積極的な摘発につなげることを決めた。

その目的で4月に創設するのが通報者に賞金を与える「通報報奨金制度」であり、担当部署である県の外国人適正雇用推進室の職員によると、既に制度のスキームはほぼでき上がっているという。

予算が絡むことなので、議会の承認はどうなっているのか訊ねたら、今月下旬か来月あたまの議会にかけ、そのまま通ると考えているとの回答。そのとき口にはしなかったが、なるほど茨城県は自民王国だからな、と思ってしまった。

摘発された外国人労働者は、国外退去を国から命じられるかもしれない。それについてどう思うのか訊くと、少し言葉をためらった後、自分たちは通報をもとに不法労働者かどうか確認し、その後警察に身柄を渡すだけだと。

この制度、通報者に金が支払われる点が気になる。つい先日の衆院選でも、内容の正否やイデオロギーにまったく関係なく、ただ広告費目当てのアクセス数稼ぎのための切り取り動画が世の中に蔓延したことを思い出す。

小遣い稼ぎでそうしたことを平気でやる連中は、今度は外国人と見れば、彼らがどのような人物なのか確認もせず、報奨金目当てで通報するかもしれない。

またそうでなくてもこのような制度ができることで、人々は自分の周りにいる外国人に対して彼らをひょっとしたら不法就労者ではないかという目で見るようになり、日本人と外国の人たちとの間の亀裂がさらに大きくなっていくことが危惧される。

茨城県内の不法就労者は農業分野を中心にした労働者が多いという。その根本のところが何なのかを考え、問題を解決することの方が重要なのではないか。

不法就労者を雇用している農業分野の雇用主たちは、ただ安い労働力が使えるという理由でそうした外国人を雇ってるのかもしれないが、一方で農業を営んでいく上での働き手そのものが逼迫し、彼らで埋めなければ立ち行かなくなっている現状があるのかもしれない。

その場合、農業分野に従事する不法就労者と呼ばれる労働者をただそこから排除するのが適正な措置なのかどうか疑問がある。

そもそも不法就労に従事する外国人は、入国管理局によって入管難民法違反とされ退去強制手続き等が取られた人たちである。だから、まともに働こうにも働けないのだ。糊口を凌ぐためにはそれが不法と知りながらも、働ける口があるならばそれに頼るしかなくなる。

茨城県の大井川知事による今回の決定は、昨今の移民排斥に向かう政治の流れに乗ったものだろうが、本来は人権の問題も含め、これから日本がどうやって国内にいる外国の人たちと関係を築いていくのかを考えることが先のように思われてならない。

2026-02-19

首相が女性から支持される理由

日経などが実施した世論調査で、高市内閣は69%と高支持率を示した。

日経本紙2月18日

石破、岸田と比較するのもなんだかなという感じではあるが、若い人たち、とりわけ女性からの人気(支持)が高いというのには、いささか首を傾げてしまう。

ましてやタカ市首相が使っているアクセサリーやバッグを彼女にあやかって使いたがる「サナ活」だとか、訳が分からない。 

現首相を支持する女性たちに文句を言う筋合いはないが、本当にそれでいいのかと心配になる。選択的夫婦別称制度すら認めようとしないタカ市を、彼女らはどうして支持できるのだろうかと。 

首相は、裁量労働制の適用幅を拡大し、国民が働いて、働いて、働いて、働く日本を目指しているようだが、それで一番割を食うのは高度な専門性をもたないアナタたちかもしれないんだよ。

首相を支持し、同じブランドのバッグやアクセサリーを手にして喜んでいる若い彼女たちは、職場での自分の労働環境がそれでどう変わるか不安を持たないのだろうか。 

さらには自分の夫、また将来的には子どもが戦場へ送られるような状況になっても構わないと覚悟しているのだろうか。 

支持する理由を考えてみたのだが、ひょっとしたらタカ市を支持する若い女性らは、首相官邸で彼女がまわりの男性たち、しかも年上のおじさんたちの上に立ち、引き連れている姿にシンプルに力強さと憧れを感じているのではないか。

それは普段、彼女たちが職場などで年上の男たちから納得がいかない形で頭を押さえつけられるなどして鬱憤がたまっていて、タカ市のそうした「強い」姿を見てスッキリするとことがあるんじゃないかと。 

単純だけど、そんなところが女性初の首相が若い女性から支持を集めている理由ではないかと思えてしまうのだ。

2026-02-18

あまりに劇的な

今朝の新聞の一面に掲載された、共同通信が配信した一枚。

 
前日のショート・プログラムでの思いも寄らぬミスからのフリー。そこで見せた圧巻の出来のペアスケーティングだった。

昨日、テレビでその見事な演技と結果を繰り返し見せられていたにもかかわらず、紙面のこの写真にはグッときてしまった。

すばらしくドラマチックな、ドラマ以上に感動的な一葉である。作ろうと思っても作れないシーンを切り取っている。

2026-02-17

追悼。ロバート・デュバル、フレデリック・ワイズマン

ロバート・デュバルとフレデリック・ワイズマンの訃報を聞いたのは、ほとんど同じタイミングだった。

R・デュバルは、役者として派手さはないが、善人でも悪人でも、小人物から大いなる権威者まで自由に演じることができた米国人俳優で、名脇役と言われるひとりだった。彼が出演した最も早い時期の映画は「アラバマ物語(To Kill a Mockingbird)」 のBoo役。役柄、台詞はなく、本棚にあるそのDVDのパッケージを見てみたが、クレジットはなかった。

英国のマイケル・ケインと並ぶ、自由にそのキャラクターや色を自由に演じられる役者の中の役者というのが僕の評価である。地方の劇団出身で、舞台からテレビや映画に確約の場を拡げたのもマイケル・ケインと似ていた。これまでの彼の映画出演作を数えようとしたのだけど、多すぎて止めた。2022年に最後の映画出演をしている。享年、95歳。

同じ日、映画監督のF・ワイズマンが亡くなったニュースが届いた。半世紀以上にわたってドキュメンタリー映画を制作してきた比類なき映画制作者で監督だった。ドキュメンタリーでありながら、その映画にはインタビューもナレーションも挟まず、淡々と映像をつなぎ紡いでいくことでその実体を観るものに伝えた。

彼が作品の舞台として選んだのは、公共図書館、美術館、ボクシングジム、市庁舎、州議会、公立高校、大学、病院、刑務所、食肉加工工場、裁判所などであり、彼の問題意識はそうした場あるいは組織の持つ制度や権力の構造といったものだった。 
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/01/blog-post_73.html
https://tatsukimura.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html 

2023年製作の「至福のレストラン 三つ星トロワグロ」が最後の作品。紛れもないドキュメンタリー映像製作の巨匠だった。96歳。

2026-02-13

先日、アメリカのICEがなぜああした暴徒と何ら変わらぬ残虐行為を行うのかについて、顔を知られないで「やりたいようにやれる」からだと書いた。本性が露出されることへのためらいをなくすのがこうした匿名性だ。

SNS上などに飛び交う雑多な書き込みの多くは匿名であり、その根っこはそれとたいしてたがわない。言いたいことをただ言うだけで、それが正確かどうかとか、理屈に合っているかどうか、根拠があるかどうかなんてことは、端から気にしない。

人は面が割れず、自分が誰かを他人に知られない状況では別の人間になれるんだろう。いや、別の人間というより、ジキル博士とハイド氏のハイド性という方が相応しい。

そうした側面は理性に抑えられているのが通常なのだが、一旦人に顔を知られない匿名でとなると、一昨年行われた兵庫県知事選でも今回タカ市自民党が歴史的な対象を収めた衆院選でもそうだったように、SNS上では理性が瞬間の感情に追いやられる。

このことは社会にとってのある種の暴力だとも考えられる。

一方、こうした無名性、匿名性もあるのだなと今日の日経新聞「私の履歴書」を読んで感じた。写真家の大石芳野さんが2002年にアフガニスタンへ取材で入った時のことを書いていた。

米国で同時多発テロが発生した翌年のこと。アフガニスタンは、それ以前にソ連の軍事侵攻や内戦、米軍の爆撃など度重なる戦禍で街が破壊されていた。そしてタリバン政権のもとで、女性たちは教育を受けることもできず、まともに働くこともできなかった。

大石さんは「・・・この国では頼る人がいなければ(女性たちは)物乞いになるしかない。こちらが外国人と見ると寄ってきてチャドリ(全身を覆う衣服)の裾から手を出してくる女性が多くいた」そして「顔を隠しているからこんな屈辱に耐えられるのです」と書く。

顔を隠す衣服が屈辱に耐え、生きていくための悲惨なシェルターの一つにもなっているのである。

彼女たちは理不尽この上ない状況の中で自分を守るために、その時、屈辱に自分を殺されないために、自らの人格をその瞬間消し去るため、顔を隠さざるを得ないのだろう。 

もちろん、同じ「顔を隠す」ことでもこれらふたつは、まったく異なる行為である。