2014年2月19日

騙す方も、騙される方も

「現代のベートーベン」と米誌TIMEで紹介された佐村河内守氏が作曲したほとんどの曲が、本人の手によるものではなく、ゴーストライターによるものだったという。

彼が一般の日本人も知る有名人になったきっかけとなったNHKの番組「魂の旋律〜音を失った作曲家〜」は僕もテレビで見ている。その時のロン毛にサングラス、角張ったアゴの形が印象的で、彼が薬の副作用に苦しみ自宅の廊下を四つん這いで進む姿は強いインパクトを与えた。

その数日後、銀座の山野楽器を訪ねた時、店頭には彼の写真の巨大なパネルが掲げられていた。代表作とされた「交響曲第1番<HIROSHIMA>」のCDは18万枚の売上を記録した。

そうした話題性が大きかっただけに、ウソが暴かれた彼は格好の新聞ネタ、週刊誌ネタとなり叩かれている。そして、CDを買った人のなかには「だまされた」と怒りを露わにする人もいるらしい。確かに作曲者としてクレジットされた人物がニセ者で、本当の作者が別にいたということではだまされたわけだが、その曲の本当の作曲者が別人だからといってその曲の価値が変わるわけではない。

だまされたことに怒っている人は、何に怒っているのだろう。自分が裏切られたことだろうか。その気持は分からないではないが、自分が手にしたCDに収められた曲が良ければ、それでよしとすればいいとも思う(ウソをついてた彼の行為を認めているのではない)。芸術は、そもそも属人的な観点で評価されるべきものではないはず。音楽であれば、それを聴く者が自分の耳で聞いて好きだと思えば、それでいいのである。その曲を書いたのが「誰」かというのは、その次だ。曲が本質、作曲者は周辺情報のはずだ。

今回の事件でだまされたと大騒ぎする人たちは、自分の耳を持っていない人たちと云えないか。メディアによって広まった佐村河内のイメージに乗せられ、作られたストーリーに易々と身を委ね、心を動かされていた。騙す方も騙される方も、どっちもどっちだ。

そもそも年に一度もコンサートに足を運ぶこともないような人が、したり顔に彼を指弾しているのが片腹痛い感じだ。「誰が」が重視され、どういった「ストーリー」が作り込まれているかで評判と評価が決まる。これでは本物は生まれない。