2016年2月27日

生地(せいち)は何を語るか

新聞に作家二人の対談が掲載されていた。その一人の写真の下に彼女のプロフィールが記されており、イラン・テヘラン生まれ、エジプト・カイロ、大阪育ちとある。

彼女の写真をながめつつ、「テヘラン生まれか」そう言われれば・・・などと思ったりもする。だが、彼女自身が生地としてイランを選んだわけではないので、「彼女の父親は何をしていた人だろう・・・」という思いにすぐかき消されてしまう。

あるテレビ局の元アナウンサーで現在はタレント稼業をしているある人物は、自分のプロフィールを紹介するとき、なぜかオーストラリア・シドニー生まれ、というところから始める。

そういえば、ニューヨークにいた時に知り合ったある留学生夫婦は、子どもを「ニューヨーク生まれ」にするため、現地で綿密な妊娠出産の計画を立ててがんばっていた。

生地がどこかという情報は、他人に何を語ろうとしているのだろうか。

その人物が何年生まれかというのは、読み手にとって意味があると思う。性別も同様だ。つまり、そこに書かれている内容を言っているのがどの世代に属する人なのか、男なのか女なのかは、参考となる情報になり得る。例えば、20代の女性が言っていれば奇異に聞こえることも、それが60代の男性の考えだと分かれば理解できるといったことがある。

性別と年齢だけで類型的にその人物を判断できるわけではないけど、現実的にはそうした人口統計学的な要素が示してくれることも情報として役に立つことが多い。

一方、生地はどうだろうか。ニューヨークでめでたく産声を上げた赤ちゃんは、父親の大学院留学とともに生後数ヶ月で帰国しているはずである。「ニューヨーク生まれ」が彼(女)の人格に影響するものがあるとしたら、それは何か。あるような、ないような。

誰かと話していて、話のネタとして自分はどこそこ生まれだと話すことはよくあること。しかし力士でもないのに、マスメディアで自分が生まれた場所をプロフィールとして書くのはどういう意図なのだろう。