2016年2月9日

映画はタイトルだ

先日のスリランカ出張時、帰りのフライトの中で観ていた映画が目的地(成田空港)に間もなく到着するからと言うアナウンスとともに、途中で打ち切られてしまった。

やっと続きを劇場で観た。映画「オデッセイ」は、不幸なアクシデントで火星にひとり取り残されてしまった宇宙飛行士の話だ。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモンである。

火星では夏になると極地の氷が溶けて上昇気流が起きて、時には風速100メートルを超える砂嵐が起こる。それに巻き込まれて吹き飛ばされ、気がついたら一人だけ火星に取り残されていた、というのが話の始まり。

水、食糧の確保が当然、生きていくために必至になる。とりわけ、食糧をどうするかなのだが、植物学者である主人公は、火星上の飛行士たちの生活居住施設でジャガイモをそだて食料にする。

主人公の専門が植物学であるところは、考えてみれば都合が良すぎるが、まあいい。彼は、施設内に火星の土を敷き詰め、他の乗組員たちが残していった排泄物のバクテリアを利用して植物を育てる。赤い火星の土から初めて小さな緑の芽が出てくるのはちょっと感動的である。

思いもしなかったサバイバルが描かれているが、この映画の中心的なテーマは人間の持つユーモアと楽観主義への賛歌のように思う。(サバイバル術なら、行きのフライトの中で読んだ加村一馬さんの『洞窟オジさん』の方が格段にスゴイ)
 
地球から2億キロ以上離れた場所に一人で取り残された男が、途方もない孤独のなかで生きて行けたのは、食料となる植物を育てることができたり水を作ることのできる科学的な知識だけでなく、自分の置かれた状況を笑うことのできるユーモアの感覚。

その後ろには逞しい精神力があるわけだが、もうひとつ。彼は、日々の活動や思ったことを施設内の録画カメラに向かってログとして残していったわけだが、ひょっとしたら自分が死んだ後に見つけられ再生されるだろう映像を残すなかでジョークめいたことも言ったりする。人間、思っているだけではなくて、言葉に出して言わなければならないのだ。

いくらユーモアやジョークのセンスがあったとしても、口に出さなければ何にもならない。言葉にして初めて(人に伝えて初めて)精神性と結びつく。その当たり前のことをリアリティをもって教えてくれる。

このあたりは、「やっぱりアメリカンだなあ」と思わせる。もちろんすべてのアメリカ人が前向きで合理的だったり、楽観主義のやってやろう精神を持っているわけではないが、悩む前に考える、落ち込む前に行動する、悲嘆に暮れるのではなく笑い飛ばす、といったことは僕ら日本人よりずっと得意にみえる。

宇宙開発のような究極のパイオニア精神を必要とするものに限らず、新しいことを生み出す彼らの力の基盤を感じる。

ところで、この映画の原作はもともと無名の新人作家がウェブ上で発表し、その後ベストセラーになったもので、小説の原題は The Martian。映画の元のタイトルも同じだ。

小説の日本での翻訳は、早川書房から『火星の人』で出ている。原題をそのまま訳せば「火星人」だが、これではちょっと違うので、火星に取り残された人物と云うことで「火星の人」になっている。



一方、映画の邦題は『オデッセイ』。これはホメロスが残したとされるあの大長編叙事詩である。このタイトルはうまい。

オデッセイ(オデッセウス)には、主人公であるオデッセイアが神の呪いを受けて長旅に出たまま故郷に戻れず長年にわたって漂白し、やがて帰還するはなしが描かれている。

そのため、英語のOdysseyには、長年にわたる放浪の旅の意味がある。まさにこの映画主人公を象徴的に表している。映画のタイトルが小説同様「火星の人」では宇宙観にも欠け、リドリー・スコットらしい映像イメージも観客に思い浮かばなかっただろう。

1968年に公開されたアーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックの 「2001: A Space Odyssey (2001年 宇宙の旅)」へのオマージュも込められているに違いない。

映画の終わり近くに流れてきたのは、デイヴィッド・ボウイの「スターマン」だった。なんだか、じんときたよ。