仕事柄、自分で調査をするし、大学院生にも論文作成の一環で調査活動を指導することも多い。何を明らかにするか、どうやって明らかにするか、どのようなデータを集めるか、サンプルをどう選ぶかなどなど、実際に自分で一連のことをやってみないと調査がどういうものかは分からない。
集めたデータを分析することだけでなく、小規模ながらも自分で調査プロジェクトを進めることが大きな学習につながる。インタビューなど定性でやるか、アンケートベースの定量でやるか。学生には、まずはその辺りからオープンに考えるよう勧めるようにしている。
ただ自分自身は、最近はあまり調査データを信用していない。特に、調査設計が分からないものは、意識的に信用しないようにしている。調査のやり方や分析の仕方をちょっと変えるだけで、簡単にバイアスをかけることができ、またそれをもっともらしく見せることができるから。世の中にそうした調査がいかに多いことか。
もともと人に、例えば「あなたはなぜこの商品を購入したのですか」などと聞いたところで、本当のことは出てこない。こちらのために、相手は「それらしく考えて」答えてくれるだけだ。言葉は信用できない、と思った方が良い。その代わりにリサーチャーがやらなければならないのが、観察である。対象者の行動を観察し、その意味を分析する。まるでシャーロック・ホームズが事件の謎解きをするかのように。
ノンフィクション作家の梯久美子さんが、新聞の文化欄に「インタビューの極意」という文章を書いていた。よいインタビューをするためのノウハウなどないそうだ。(当たり前だが)。ただ、彼女には、インタビューに向かう際に思い描く理想的なインタビューの光景がある。10年ほど前に新宿のビルの地下にある小さなロシア料理屋で1人で昼食をとっていたときに見た、近くのテーブルにいた若い2人の関係である。
賑やかなランチタイムのレストランで、そこだけ周囲と違った空気が流れていた。彼女はそう感じた。なぜ自分がそう感じたのか、彼女はしばらく観察を続けて、その意味が分かった。相手をじっと見つめるのではなく、幅のあるゆったりした視線で相手を見ている女性。そこには2人だけを包む繭のようなものが見えた気がしたそうだ。
以来、インタビューにのぞむ時、そうした繭を思い浮かべるようにしていると言う。