2014年5月1日

深夜のコンビニで思うこと

先週の日曜日(27日)に放送されたばかりのNHK「調査報告 女性たちの貧困 〜”新たな連鎖”の衝撃〜」が、昨晩24:40からもう再放送されていた。それだけ初回放送後の反応が大きかったのだろう。

僕は日曜日の放送分を見たのだけど、番組で紹介されている女性がまだ夜も明けきらぬ早朝からコンビニで働いていたのを覚えている。都会では比較的年配の女性のパートの働き口はスーパーのレジ係で、若い女性の働き口はコンビニがまかなっているように見える。

コンビニで深夜や早朝帯に働いている人たちに出会うと、彼女たちは昼間はどうしているのかと(まったくお節介ながら)気になる。学校に通っているのならともかく(疲れてしんどいだろうが)、夜から早朝までコンビニでずっと働き、そのあと自分の部屋に帰って昼間は寝ているだけという子もたくさんいるのではないかと想像する。

逆説的ながら、コンビニのアルバイトがあるからそうした彼女たちの生活が存在しているとも云える。深夜だからこそ比較的割のいい時給で働け、そのため生活を昼夜逆転させ、学校に行ったり、友達と遊んだりという当たり前の昼間の暮らしを切り捨てて過ごす毎日。そうしたアルバイトでスキルを磨くことができないことは分かっているのだろう。いつまでも続けられないことも分かっているに違いない。でも、やめるわけにいかない状況だ。

トレーシー・チャップマンのアルバム『Tracy Chapman』のなかに「ファスト・カー」という曲がある。当時23歳だった黒人女性歌手の彼女が歌うその歌詞の中には「コンビニエンス・ストア」という言葉が出てくる。


酒浸りの父親を捨てて母親が家を出て行き、残った彼女はいたたまれない思いを抱えたまま父親の面倒を見るために学校をやめた。そしてコンビニのレジでアルバイトを続け家計を支えながらも、八方ふさがりの暮らしから逃げ出したいと思っている。そんな彼女の願望をボーイフレンドが手に入れたクルマに託して歌っている。

トレーシー・チャップマンの歌は、こんな詞で終わっている。
You got a fast car
Is it fast enough so you can fly away?
You gotta make a decision
Leave tonight or live and die this way

この歌が発表されたのは1988年だから、いまから26年前のこと。その後、アメリカはどうなったのだろう。毎日コンビニで働くだけで行き場を失った彼女はどうなったのだろう。アル中の父親や差別が深く残る土地を捨てて彼のクルマで遠くに行ったのだろうか。それとも・・・。そして、いま日本でコンビニでしか働けない若い女性たちは、これからどこへ向かうのだろうか。

2014年4月22日

グローバル人とグローバル人材

公益社団法人青年海外協力協会という、青年海外協力隊の経験者たちが加盟している団体がある。そこから機関誌に掲載するインタビューを申し込まれた。喜んで応じた。

グローバル人材について聞かれ、自分なりに疑問に思っていることや、言葉の定義の曖昧さ、こうした言葉が勝手に一人歩きしている背景などについて話をさせてもらった。

僕なりの問題提起として少し話させてもらったのは、「グローバル人」と「グローバル人材」の違い。当たり前だけど、このふたつは違う。ポイントは、人材として存在しているか、そうではないか。人材であるための必要条件は、専門的な能力があること。それがあって初めて、形容詞のグローバルが付加される。

主従で言えば、人材が主でグローバルは従である。だがなぜか、こうした当たり前のことがよく忘れられている。グローバル=英語ができる、と矮小化され、グローバルであることで人材であると勘違いされている。


2014年4月20日

終わりにさせないということ

学生たちも読んでいるだろうブログでこんなことを書くのも何だが、ぼくは学生時代はあまり授業に出なかった。

今ほどどの授業も出席にうるさくなかったことが第一の理由。授業そのものが面白くなかったのがそれに続く。何を喋っているのかその言語自体が分からない老教授が多かったり、ひたすら文字通り教科書を教壇で読んでいる若手教師などに付き合っている暇はぼくにはなかった。

18歳で東京に出てきて2日後には、近くの本屋でアルバイトを始めていた。それ以外にもバイトを掛け持ちで、1年生ながら「こんなの出てらんねえ」という授業は出る余裕も意欲もなかった。それでいて、成績は結構よかったのは、出席を取らず、期末の試験かレポートで成績評価を付ける教師の授業を選択しては、先輩たちからその傾向を聞いて対策を考えるのが得意だったからだ。

だから、講義をほとんど聞かぬままに「終わって」しまった多くの科目について、ずっと「晴れない」気持ちを抱えながら社会人になった。

22歳で大学を出て企業に就職し、今は大学で教えている。どうやってそうなったのか聞かれることが多いのだが、今にして思えばそうした晴れない気持を引きずっていたから、自分でそれらを学ばなければという思いが強く、会社員をやりながら多少は人より勉強し続けたからかもしれない。

もしぼくが、学生時代に真面目に何々論とか何とか学とかの授業に出ていたとしたら、それらの分野についてその後きちんと学ぼうと考えたかどうか怪しい。勝手に自分で「履修ズミ」と思い込んだに違いないから。

授業をサボることを勧めるつもりはないが、「サボったため勉強していない」ことを後ろめたく思い続けることも大切である。