散歩の途中に見た懸垂幕。誰に向けてのメッセージだろう。家の持ち主が書いたのか、それともリフォーム会社のアイデアか。
そんなことを考えていたら、近くにある県立高校の女子高生2人が「はずして欲しい・・・」って笑いながら僕の後ろを通り過ぎていった。通学途上、毎日これを目にしているんだろう。分かる、分かる。
散歩の途中に見た懸垂幕。誰に向けてのメッセージだろう。家の持ち主が書いたのか、それともリフォーム会社のアイデアか。
そんなことを考えていたら、近くにある県立高校の女子高生2人が「はずして欲しい・・・」って笑いながら僕の後ろを通り過ぎていった。通学途上、毎日これを目にしているんだろう。分かる、分かる。
用語としての「ダイバーシティ」がいつから僕たちの生活に入って来たのか検索してみた。朝日新聞のデータベースでは、初めて「ダイバーシティ」の用語が登場したのは1997年。「ILO(国際労働機関)ダイバーシティワーク研究会」なるものを紹介した記事だった。そこではダイバーシティワークを「多様な働き方」と定義し、在宅ワークや短時間の勤務形態などのことを示していた。
次に「ダイバーシティ」が登場するのは2002年。その年には3件の記事が掲載されている。ひとつはオランダの例を引きながら「ワークシェアリング」を紹介している。それと、企業が社員に提供する福利厚生の多様化についてももの。そして、アメリカでの白人、黒人、ヒスパニック、アジア系などの人種多様性を紹介した記事である。
つまり、その時点から「ダイバーシティ(多様性)」の議論は多様なのである。
ところが今の日本では、というか、最初からだが、ダイバーシティ=女性の管理職登用と思い込むきらいがある。そして女性を管理職に登用することで、「女性ならではの感性をいかした経営を実現」などという浅薄で単純な議論がいまも大手を振っている。
その背景には、企業において見ただけでも、採用から教育、配属、評価、昇進、報酬などすべてに渡って男女の間で差別が存在しているからだ。そこは分かる。是正されなければならない。だが、そのこととダイバーシティ論議は分けて考えることが必要。
ダイバーシティが、「男か女か」といった外形的なことなら、人種、年齢、出身地などの属性をもとに機械的に多様な人材を登用すればいいということになる。
そうではないだろう。大切なことは、外形的な見た目では分からない考え方や価値観の多様性だ。その結果として、異なった(マジョリティ、つまりおじさんから見ての、だが)考えや価値観を持った人の中に女性だったり、外国籍の人だったり、自分たちの半分ほどの年齢の人がいるかもしれない、ということ。そこに目を向け、耳を傾けること。それが肝である。
Diversityの同義語には、difference、distinctiveness、diverseness、heterogeneity、multiplicity、range、varietyなどいろいろある。つまり、ダイバーシティ(多様性)とは本来多様なのである。それを忘れてはいけない。
体調を崩し、回復に向けて静かな日々を過ごしている。病院と薬局に行く以外、どこにも出かける気力が出ない。しかたなく、というわけでもないが、普段はあまり見ることのない国会中継をテレビでながめて過ごしたりしている。
今は予算委員会が開かれているが、そこで議員や官僚などの答弁においてしごく日常的に使われている言い回しに「承知していない」というのがある。
「承知」という言葉について、辞書には1)知っていること、2)聞き入れること、3)許すことの3つの意味が示されている。目的として捉えている範囲が、結構広いのである。
とすると「承知していない」は、1)知らない、2)受け入れない、3)許さないという意味になるが、国会の答弁で用いられているのはそれだけではない。4)理解できない、5)そうは思わない、のときもあるように感じる。
極めて玉虫色の言い回しなのだ。このように相手がどうとでも取れる、ということは、発言者が自分の意図や考えを相手に明確に示したくないときにとても重宝する。「・・・の件については承知しておりません」と言えば、自分は「知らなかった」から「許さない」まで多方面な言い方に使えるわけだ。
本音を知られたくない、言質を取られたくない国会議員や官僚に便利な、ある種の万能表現。だから、もしそうした言い方をする人がいたら、何かを隠し、誤魔化そうとしていると考えた方がよいだろう。
そういえば、私の周りにもこの「承知していない」を多用する人物がいた。旧大蔵省出身の元官僚で、その後天下りか知らないが、早稲田大学の教授になった。会議などの席で、彼が何かにつけてそう言っていたのが違和感として記憶の片隅に残っている。
日産が下請け企業への代金を一方的に減額したことで、下請法違反にあたるとして公正取引委員会から勧告を受ける。
日産と下請け企業各社は、当然ながら納入金額は事前に交渉の上で決めている。にもかかわらず、製品納入後に代金を「一方的に」減額して支払っていた。信じられない。下請けという相手の弱い立場につけ込んでだ。あまりにセコイ、ずるい。
今回明らかになったのは、30社あまり。金額は約30億円。平均すると一社あたり1億円ほどか。日産にとっては目くそ鼻くそでも、下請け企業にとっては存続を左右する回収すべき代金だったかも知れない。
なぜ日産の担当者は、こうしたしょうもない下請けイジメを行っていたのか。会社のためか、自分のためか。「課長、今回も〇〇社への納入代金、支払金額を減額しておきましたから」「おう、そうか、ようやった!」という日産社内の上司と部下のやり取りが聞こえてくる。
今回、この件がニュースになってから、日産は「減額分の全額を業者に返金しました」とコメントしたらしいが、もともと支払うべきものを支払っていないのだから「返金」というのはおかしいだろう。
「全額」というのも変じゃないか。遅れて支払うわけだから、最低限、金利分のペナルティを加えて支払うのがスジだ。そんなこともこの大自動車会社は理解していない。さらには、下請け企業の経営者に与えた精神的苦痛への慰謝料も支払ってしかるべきだろう。どこまでも「上ー下」でしかものを考えない愚かさが見て取れる。
日産の昨年度の売上は13兆円。彼らが違法に支払いを節約しようとした今回の30億円はその0.2%。それによって企業そのものの倫理観を問われ、ブランドを自ら傷つけ、顧客を遠くにやってしまっている。そして日産という会社はセコイ、汚い、いじましい、そして情けないことを広く知らしめた。
こうした企業は他にも多くある。例えば、私が知っているだけでも富士通は同様のことをやっている。下請けの開発会社からソフトを納入させたあとで、見積もりの金額を変更して支払金額を値切っている。こちらにも公取委の調査が入るべきだろう。
日産にしても富士通にしても、自分たちでできないから外の企業に発注してるはずだが、そのあたりが分かっていない。発注者だから自分たちの方がエライ、と考えているのだろうが。
1月の下旬、郵便受けに「東京ガスから大切なお知らせと、皆さまへご協力のお願い」と題するチラシが入っていた。
それによると、「当社は、環境保全の取り組みの一環として、毎月の検針時にお届けしている紙の検針票を2024年10月末をもって廃止しペーパーレス化します」とある。
検針票というのは、毎月の使用量と料金を記したスリップである。大きさはB6サイズを一回り小さくしたものだ。<環境保全の取り組みの一環>というのは、この紙を削減することで二酸化炭素の排出量が減らせると考えているからだろう。で、いったいどのくらい?
こうした大名目を謳っている以上、どのくらい二酸化炭素を減らすことができ、環境保全に役に立つのか具体的に想定しているはず、と考えて問い合わせてみた。
2月2日に東京ガスの社長さん宛に質問状を送った。ひと月以上が過ぎているが、何も回答がない。
なぜ回答しないのか、あるいはできないのか。
(追記 3月7日)
東京ガスから返答が来たヨ。その文面には「年間で40t程度のCO2排出量削減を見込んでおります」と書いてある。それがどのくらいの数値か彼らが送ってきた資料からデータをいくつか引いてみよう。
東京ガスグループによる2022年度の総排出量は、約5,800万トン。そのうちの92%は原料調達関連(電力・LNG等)と彼らが販売した製品の使用(都市ガス等)による。つまり、これらは東京ガス自体による排出量ではないので除くとする。
残りの460万トンが東京ガスによるCO2排出である。内60%が火力発電事業、34%がエネルギーサービス・地域冷暖房事業だ。残りの6%は、都市ガス製造が3.3%、事務所等が1%、その他が2%となっている。
そして、彼らが今回、毎月の紙の検針票を各戸からなくすことで削減できると言ってきた40トン分は、彼らが排出しているCO2の0.00087%にあたる。さて、どう評価したものか。
今回の彼らの手紙の末尾には「なお、これ以上の詳細な内容につきましてはお答えいたしかねますので何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます」とあった。
週末の朝、近くの土手を散歩していて見かけた風景。河川敷に3メートルくらいの細いポールを立てて何かしている男性がいた。ポールの下に何やら道具をいろいろ置いて何かしている。何してるのだろうと思いつつ、通り過ぎた。
しばらくして再度そこを通り過ぎたとき、その男性はまだそこにいて、ポールはもうなかった。男性は荷物を袋にしまうなど、何やら撤収の様子。「何かの調査ですか」と声をかけてみた。その男性には、なんとなく科学者風の雰囲気があったから。
「あ、いや、アマチュア無線です」と返ってきた。かれはこの河川敷で自作のアンテナを立て、アマチュア無線の交信をしていたらしい。聞けば、アンテナだけでなく、無線機やアンプ(50W)も自作だといい、さっき袋にしまったものを色々わざわざ取り出して見せてくれた。
聞けば僕の住まいから歩いて5分ほどのところに住んでいて、天気がいい日はこれら機材一式を載せたカートを押してこの河川敷にくるらしい。
「お盛んですねえ」と言うと、「いま頑張るしかないんですよ」と。というのは、アマチュア無線の電波がどこまで飛ぶかについては11年周期で現れる太陽黒点の活動が大きく影響していて、今年はその大爆発の年らしい。つまり、アマチュア無線愛好家にとっては電波が遠くまで届く願ってもないタイミングで当たり年なのである。
さらに、遠くの電波を拾えるのは1日のなかでも特定の時間帯だけで、朝の7時半から9時半くらいがいいんだとか。なるほど、それで10時くらいにはもう撤収していたのか。
黒点活動が11年ぶりに活発になっているこの時期に、朝の電波状態が良好な時間帯で頑張れば地球の裏側とも交信できるらしい(一番のポイントはアンテナの大きさだとか)。その日は、ブラジルやアルゼンチンのアマチュア無線愛好家と交信できたと言っていた。
いまのSNSの原型をそこに見た気がした。ただし、インターネットと違うのは声、もしくはモールス信号だけなので、その時点で消えていくこと。
インターネットは電波さえ確保できれば、どこだっていつだって安定して使えるが、アマチュア無線はそうではない。周りに高いビルがあるかどうかで圧倒的に受信感度が変わる。天候にも左右される。また1日のなかでの時間帯でも受信感度が変わる(地球上の大気層の変化によるんだろうか)。そして、太陽黒点の活動にも影響される! そんな変化が面白いと思う。
今朝出会ったおじさんは、現在83歳。次の絶好のタイミング(つまり11年後の太陽フレア)のときはどうなっているか分からないって言ってたけど、いつまでも手作りの機器でアマチュア無線を楽しんで欲しい。
東京都が条例でカスハラに関して規制を制定するらしい。
こうしたことが「カスハラ」の例だと紹介する、厚労省が作成したビデオがこれだ。
ではこれは許されるかというと、それはまた別の問題。相手を傷つけている点で、問題だと考えられる。ではどうしたらよいのか。
どうも今後は、こうした行為が東京都内で行われると条例違反ということになるらしいが、誰がどのようにそれを適用するのかがイメージできない。
それを適用してそうした客を規制や処罰の対象とするためには、その人物が誰かを特定し、その客が現場で何をどのように言ったか、何を行ったかを証明しなければならないはず。音声も含めて店内の出来事をすべて録画録音しておけというのだろうか。
ところでこのビデオで気になるのは、問題はレジ前の客だけじゃないことである。やりとりを背中で聞きながら黙ったままで手を貸そうとしない他の店員、割って入ろうとも口を挟もうとせず、後ろでただ顔を歪めているだけの他の客らも問題だ。
少なくともレジが止まり待たされているのだから、堂々と声を上げて注意すればいい。「都の条例」だとか面倒なことを振りかざしても現場での実効性はないに等しいんだから。
もっとシンプルに、一人ひとりがその場でおかしなことに対して声を上げ、そうした客を追い出せばいいだけの話である。そうした当たり前のことができないことが、残念なこの国を象徴している。
カスハラなんて奇妙な言葉を振り回し、しかも役所による規制に頼って問題を解決しようという考えが間違い。
ホテルのあるClarke Quayからシンガポール川沿いの遊歩道をたどって河口へ下る。日差しがとても厳しい。なぜ帽子を持って来なかったのかと後悔する。
小1時間ほどでマリーナベイに出た。突端にシンガポールのシンボルとされているあの「有名な」マーライオン像がある(写真)。高さは7〜8メートルほどだろうか。キッチュと言えばキッチュだが、造形的にも意味的にも何も面白くない。端から期待はしていなかったが、あまりの馬鹿馬鹿しさに脱力する。
観光名所か。あたりは、中国から春節に合わせてやって来た観光客で溢れかえっている。
「退職は一番のリスキリング(学び直し)」という言葉を新聞に見つけた。なるほどそうだな、と膝を打った。
転職などで辞めていく同僚の姿を見ていたのがきっかけで2020年に退職、その後起業し経験を積み、22年にメルカリに再就職したという女性の話が載っていた。
彼女は、会社を離れていたときに多くの事を学んだ、と語っている。そして、いまは充実した気持ちで日々の仕事に打ち込んでいる。
何をやってようが毎月給料をくれる会社というありがたい場所を辞めるのは、誰だってそれなりの覚悟がいる。不安もあることだろう。だからこそ、それを押して辞めたとなれば、ぼんやりとはしていられない。自分を見つめ直しつつ、何をやるべきか高速で考えるようになる。
そこに意味ある学び直しが存在する。会社組織に身を沈めながら言われたことをやってるようでは、本当に何を学び、どう自分を高めていけばいいかなんてそう簡単に分かるものではない。それが一般的な会社ってものだ。
成長したければ、勇気を持ってリスクを取る。多少の賭けにすら出られないようなら、どうせ今いる組織の中でも大したことはできやしないんだから。
1月29日、自称「桐島聡」とされる人物が死亡した。70歳。1974年ごろに起こした企業爆破事件の容疑者として指名手配されていた。
彼は神奈川県鎌倉市の病院に内山洋というクールファイブのような偽名で入院していて、1月25日に病院側に「私は桐島聡だ」「最後は本名で迎えたい」と話したという。警察がそれから捜査に入って、わずか4日後になくなった。末期の胃がんを患っていたらしい。
爆破事件に関与したのは、彼がまだ20歳の学生だった頃。共犯者が海外逃亡しているために時効の適用が止まっていた。
それから逃亡生活を始め、50年である。その間、本名を誰にも明かせず、免許証や保険証、銀行口座を持たず、住民登録などもできず、裏の日常をひっそり生きてきたのだろう。
警察に出頭しようと何度も考えたに違いない。けれどそうしなかった理由は、彼にしか分からない。
ネットには「今頃になって、のこのこと出てくるな」とか「目立ちたいだけだろう」などといった言葉が流れている。本人の50年間の思いを想像したこともない他人が、一知半解な理解でものを言うべきではない。
本名を病院で明かしたのは亡くなる4日前のことになったが、その気持ちたるや察するにあまりある。日々葛藤のなかにいて、さまざまな思いのなかで生きていたはずだ。
彼が20歳の時に行ったことは明らかに犯罪である。では何がその時の彼をそうさせたのか。おそらくそれは、学生時代の人との出会いではないだろうか。もともと本人のなかにいささか歪んだ正義感のようなものがあったのだろうが、その当時の人との出会いが彼をしてこの事件に巻き込まさせ、残りの人生を決定づけたと思っている。
違う出会いがあれば、桐島はまちがいなく違う人生を歩んでいたに違いない。手配写真に写った彼の写真を見て、そう思う。
死を覚悟した彼は、50年間のあいだ封印していた本名を最後の最後に明かして、死ぬ直前にやっと表の世界へ戻ってきた。おおきな胸のつかえが取れた思いがしたことだろう。
パレスチナの人たちを殺し、痛めつけているイスラエル首相のネタニヤフが、どうにもヒトラーに思えてきてならない。イスラエルが殺傷しているのは、あきらかに戦場のウクライナ兵だけではない。街中で、学校で、病院で、なんとか生きのびているウクライナ人の子どもが女性が多数犠牲になっている。
ジェノサイド(集団殺戮)であると世界中の人たちが批判しているにもかかわらず、その発言と行動を止めることをしないのはなぜだ。
ヒトラーは、ラウシュニング(ポーランド生まれのナチス政治家)との対話の中でこう言ったとされる。「私たちの心の中にユダヤ人がいる。しかし、目に見えない亡霊と闘うよりも身体的なかたちでのユダヤ人と闘う方がやさしい」。ヒトラーの人間性の一部が「ユダヤ人」なるものであり、それゆえに彼はユダヤ人を絶滅したかった。ユダヤ人という「他者」への憎しみは、自分自身への憎しみから生じていた。
ネタニヤフのなかにも似た感情があるように思う。長い歴史のなかでユダヤ人を痛めつけてきた数々の国や民族は、今のパレスチナ人ではない。
友人に誘われ、天王洲アイルの寺田倉庫で開催されている「Van Gogh Alive」を観てきた。モーショングラフィクスでゴッホの世界を見る者に近づけてくれる。
映像はすべて投影さえれたもので、実際のペインティングは一枚もない。通常の絵画展とはまったく異なった設えになっている。
壁やパネルといった垂直方向だけでなく床にも映写されていたが、せっかくなら天井も投写スペースにしてくれたら、床に寝転がって見れたのだけど。
作家の青山七恵さんが書いた「電話の贅沢」と題するコラムを読んだ。その中に、こんな1節があった。
・・・私はいま、電話が好きだ。電話には、スリルがある。一度つながってしまったら、やぶれかぶれでも一発勝負でどうにか乗り切るしかないという、綱渡り的、即興劇的なスリル。同じ意思伝達の手段であっても、何度でも書き直しができるメールとはぜんぜんちがう。
やぶれかぶれの一発勝負とまで力まなくてもと思うが、気持ちはよくわかる。電話にはそれなりの緊張感がある。相手が出るのか、出ないのか、話しやすい状況か、そうでないか、機嫌はいいか悪いか、そうした思いが頭を巡る。相手が電話に応えるまでわからない。
若い人たちはもう電話はしないという。理由は、相手にとって電話は突然なので失礼だからとか。それはそうだが、それが電話というものである。
実際のところは、相手のことを考えているようで、自分のことを考えているんじゃないのか。電話をかけられた方が迷惑に思うことがあれば、自分が気が利かない人と思われるのが厭なだけじゃないのかな。
そのうち、「昨日、〇〇に電話したらね・・・」なんて言ったら、相手から「あなた、勇気あるね」と感心されるようになるかもしれない。
確かに電話は突然かかってくる。だから、出られるときは出る、出られないときは出ない、でいいんじゃないのかね。メールではうまく伝えられないことだってあるはず。電話をまったくしないという人たちは、そうした思いを何も持っていない人たちなんだろう。
哲学本が人気だ。ビジネスマンを中心に、そうしたジャンルが今売れているという。ただし哲学書そのものではなく、哲学とは何かをさらっとエピソードや身近な問答を通じて分からせる入門本だ。
どこまで深く入って行くかは別として、哲学に興味を持つのは悪くない。そうした読者がどういった層なのかは詳しく知らないが、みんな悩んでいるのだ。そして、彼らはその答えが<哲学>にはあるのではないかという強い期待感というか、そこにすがっている感じがする。
「哲学って何」かを囓ることで、悩みの解決法を手にできれば楽なんだろうけど、実際それは無理な相談だ。哲学書を数々読みあさっても無理。哲学者自身がそれを分かって、しかも読者を救済するために書いているのではないのだから。哲学者は精神分析医ではない。
タモリは「教養なんてのは、大人のおもちゃである」というようなことを言ったらしいが、それはかなり正鵠を射ている。哲学は悩む人がすがりつくロープでもなく、天から垂れ下がった蜘蛛の糸でもない。
大人にとっての哲学というのは<おもちゃ>くらいの軽い気持ちで付き合うのが正しい付き合い方なのである。そうすると、とても楽しい。