2020年5月26日

匿名でものを言うのは、カッコ悪いぞ

木村花さんという女子プロレスラーが亡くなったことを、数日前CNNを見ていたときに知った。ある番組の途中、画面の下に流れている時事ネタのテロップでたまたま目にした。

それは、22歳の日本人の女子プロレスラーがなくなったという一行のニュースだった。 

彼女については、まったく知らなかった。フジテレビがやっているリアリティ番組に出ていて、最近その視聴者からたいへんな中傷や誹謗を受けていたらしい。

その番組は見たことはないし、SNSへの書き込みがどういったものだったのかもしらないが、一人の人を死に追いやるほどのものだったんだろうと推測するしかない。

ほんとに厭な気分になるよ。たかがテレビ番組に対して、本気であるいは遊び気分かもしれないが、相手を死に追いやるかもしれないような言葉を匿名で投げかける、その頭の悪さと品性のなさと、どうしようもないほどの人としてのなさけなさ。

時の権力に対して意見を言うとき、人は匿名で主張することがある。それは、もしもの時のことを考え身を守るためのものだと思う。中国ほどあからさまでなくても、日本の公安だってどういった形で情報を集めているかわからないからね。

そうした一般の個人が普通では一人で立ち向かえない巨大な相手を対象とする時以外、匿名で人を批判するのは御法度だ。

2020年5月22日

これを犬と思う感覚が分からない

シンガポールの公園では、ボストン・ダイナミクス社が開発した4本足歩行のロボットがパトロールしている。


新型コロナウイルスの感染拡大防止のために人々が適切な距離を保っているかをチェックするためらしい。

それはいいが、これが犬だろうか!? ロボット犬と言われているようだが、犬好きとしてはどうしても犬には見えない。

4本足で移動し、大きさが大型犬程度だからか? 不気味だ。

2020年5月17日

放送大学はどこへいく

僕が教えている研究科は、4月20日からリモート授業を開始した。それから4週間が過ぎた。

最初はどうなるかと思ったところもあったが、何とかなってる。確かに相手が社会人大学院生だから、というのはある。

学部の1年生(18歳)の授業を担当している先生などは、いろいろ苦労が多いという話を聞く。授業の中身をどう伝えるかという以前に、学生によってはネット環境が整っていなくて遠隔のクラスになかなか参加できないとか。

教員もほとんどが自宅からだから、相手の状況を手に取るように分かるわけではなく、そうした授業以前の問題の解決に時間と労力を取られている。

セキュリティの問題が取り沙汰されたりはしたが、Zoomがほぼ一般的なツールとして利用されているようだ。懸念はメンバー以外が紛れ込むことことで情報が漏洩するリスクがあるというのだったが、もともと所詮は大学の授業だ。秘密などない。まあ、あるとすれば、学生の個人情報(誰々は勉強ができない、とか)くらい。

遠隔教育といえば、日本では放送大学がすぐ頭に浮かぶ。それが設立されたのは1981年だから、40年の歴史がある。

しかし不思議なことに、今回日本中の大学教育機関がキャンパスを閉じ、遠隔授業の実施を迫られたとき、僕が知る限りではどこからも放送大学を手本にしようといった考えはみじんもなかった。

40年の遠隔教育の歴史があるのであれば、本来はそこが日本の司令塔として様々なノウハウを各機関に提供するのが道理なのだが。放送大学には実質的なノウハウや教育の技術は何もないのを皆が見て取っているということか。

2020年5月11日

9月入学が始まるかもしれない

人はすべてそうだが、なかでも日本人はこれまでやって来た流れを断ち切り、新たなシステムへ乗り換えるのが下手だ。下手というより、勇気がないのかもしれない。

その断ち切れない一例が、学校への4月入学、3月卒業、企業への一括採用による4月入社などだ。そこでは真の合理性はほとんど考慮されていない。

毎年、2月や3月になると、大雪の中を長靴を履き、顔一杯にマフラーを巻いた受験生が受験場である大学に向かう様子がニュースで流れる。電車などの交通機関の遅延で受験に間に合わなかった高校生の話なども。

またその時期は、例年インフルエンザの流行時期とも重なる。それまで一所懸命準備してきて、インフルエンザや風邪に罹患して目的の大学の入試が受けられなかった若者も多数発生する。

本当に時期が良くないとおもう。学期の始まりを9月にすることで、そのあたりは大いに改善できるはずだ。

9月入試の考えに対しては、全国の多くの教育委員会が反対している。混乱を招くとか、社会全体の仕組み中で考えるべきだとか、もっともらしい事をいっているようだが、要は変化を好んでいないだけだ。 変化に対応するのが億劫なのである。おじさん、おばさんらは。

9月入試に関して、ある新聞社が世論調査を行った記事を目にした。 9月への移行への賛成は56%、反対は32%。ただ、重要なのは若い人ほど賛成への意向が強かったということである。

18〜39歳では、賛成=66%、反対=28%
40〜59歳では、賛成=59%、反対=32%
60歳以上では、賛成=50%、反対=35%

それぞれのグループの標本数は分からないが、もしそれぞれの標本数が同数であるとしたら18〜59歳での賛成者率は63%、反対は30%でダブルスコア以上になる。

60歳以上の意見などは、ただ参考程度にするだけで十分だろう。

コロナ禍で生徒たちが学校に行けない特殊な状況下での調査結果であるが、9月へ入学時期を移行するメリット、デメリットを整理し、移行するなら早々に実行した方がよい。


2020年5月10日

配信解除からみる顧客志向度

自宅ですべての仕事をするようになって、パソコンの前にすわる時間が圧倒的に増えた。おそらく多くの人が同様の変化のなかにあるだろう。

授業はZoomでやっている。個人的なコミュニケーションはメールである。トラフィックが増え、種々のやり取りを整理しておいた方が良さそうに思い、これまで放置していた広告メールを処理することにした。

広告だけでなく、いろんな企業から勝手に届くメールも当然含めてのことである。一度会って名刺交換をしただけで、ずっと毎週個人のメールニュースを送ってくる自称コンサルタントも結構いる。

不要な受信メールを一気に減らそうと考え、迷惑メールのフィルタ強度を上げ、勝手にメールニュースを送付してくる企業のものはオプトアウトすることにした。今では日本企業のものでも、「配信解除」や「unsubscribe」のボタンを押すことでメールの配信を止めることができる。

ただ、なかにはそのために登録IDとパスワードでログインすることを求め、その後も面倒臭い手続きをわれわれに要求するところもある。そうすることで現受信者の解除手続きを減らす目的だろう。相手がメールを読もうが読むまいが関係なく、広告掲載料金のために送付先数をなんとか保っていたい企業だ。

そうした考えが、結局のところどんな感情を相手にもたらすのか、そしてどう彼らのビジネスに跳ね返ってくるかをどうして考えないのだろう。

2020年4月25日

パスカル『パンセ』から

今年1月から始めた私的研究会で、今月はパスカルの『パンセ』を読んだ。いつものように研究室に集まってというわけにはいかないので、Zoomを使っての研究会である。

多くの時間を家の中で過ごし、感染者拡大の数字の移り変わりを見聞きし、いつの間にかそうした目先の情報へ意識が振り回されていると感じているときに、こうした古典をじっくり読み、深く議論をするのは極めて良質な浄化であるように感じた。

『パンセ』は924(編纂によって異なる) の断章からなる一冊だが、そのなかにこうした一節があった。
われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方に置いた後、安心して絶壁の方へ向かって走っているのである。(断章183)
この本が出版されたのは17世紀のこと。 だがこれって、今の状況と変わらない。

恐怖と不安

コロナウイルス感染拡大に関しては、ふたつのストレスがある。

ひとつは、自分が感染者になってしまうのではという恐怖感。もう一つは、すでに自分がもう感染者になっていて、そのため知らず知らずに周りを感染させてしまうのではという不安感である。

前者は意識してコントロールできる。外出を最小限にひかえる、人との距離を確保しておくなど。だけど、後者は厄介だ。すでに感染しているかどうかは、熱が出るとか、嗅覚に問題があるとか何らかの身体的な症状が発症するまで分からない。

その不安感を払拭するのは検査して確認するより他ない。にもかかわらず、検査が容易に受けられない。この国では。

すでに機動的に大規模検査を実施済みの他国に比べて、医療行政の問題が大きいように思う。何かやる際に、やけに慎重なのだ。役人は、やったことがないことをやって何か問題が発生すると責任を問われちゃうと思い、すぐ自己保身のブレーキが働くから。

役人、あるいは「官」という人間たちにとっては、国民の命より責任回避の方がよっぽど大切。だからわれわれの命などはいつも置いてけぼり。3・11の対応も、先の大戦での終結までの過程もそうだった。

行政は国民の顔色をうかがいつつも、全身やけどした患者に一枚一枚バンドエイドでも貼るかような対応しかしていない。効果的ではないし、それらは「ありがたい国からの施し」に見えて、実はすべて国民がかかえなければならない負債(将来の税)として積み上がる。

2020年4月11日

人口単位あたりの新型コロナ死亡者数

毎日、いや毎時のニュースで感染者数が何人になったとか、死亡者数がどれだけ増えたといったニュースでの報道がある。

見ているうちに、多いのか少ないのか、分からなくなってきた。自分が住んでいる町内の話ではなく、国家レベルだったり、あるいは全世界でという話だからである。

仮にだが、日本国内で100人が亡くなったとすると、それは人口比では100万分の1以下である。統計的には誤差の範囲である。もちろん人一人の命はそれぞれかけがえのないものであることは分かっているが、その数値のインパクトをどう捉えるかは冷静になった方がいい。

下記のグラフの元は、札幌医科大学が公表している人口あたりの新型コロナウイルス死亡者数の国別の推移を示したグラフである。https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html


縦軸に対数を取り、その変化がとても分かりやすく見て取れる。イタリア、フランス、英国が圧倒的に死亡者比率が多い。イタリアは国民3,300人に1人がこのウイルスで亡くなっている。日本は15万人に1人だから、その差の大きさに驚く。

また注目したいのは、その伸びの変化率である。ヨーロッパ諸国を中心にその伸びは大きく、また似通っている。 そうした中で、日本と韓国だけが相対的に緩やかになっている。

もう一つ特筆すべきなのは中国だ。世界で最も早く新型コロナウイルスによる死者を出してきたが、3月5日時点でイタリアがその死亡者数を抜いた。中国のそれはというと、それ以降ほとんど数値はフラットのまま。これをどう考えるかだが、個人的にはあの国らしく正直に数字を公表していないのが理由だと考えている。

日本においても注意を怠ることなく、少しでも早く終息の方向に持っていく必要があるのは言を俟たない。しかし、毎年インフルエンザだけで3,000人以上が亡くっていることを考え合わせれば、いまの騒ぎというか、国民の不安の度合いは度を超していると言えなくはないか。

2020年4月4日

C.D.Cが一転、マスクを推奨

全ての米国人が人前ではマスクを着用することを推奨するとC.D.Cが発表した。これまで感染予防の効果がほとんどないと言っていたが、宗旨替えのようだ。

わざわざ cloth masks(布マスク)とうたっているところを見ると、どんなマスクでもいいからしたほうがいい、という感染が急拡大する切羽詰まった米国内での状況がうかがい知れる。

2020年4月1日

一律自粛は思考停止である

新型コロナウイルスの影響で、各種の行事やイベントが中止になるだけでなく、美術館や博物館は閉館になっている。レストランや居酒屋での集まりもあまり見られなくなった。

そうしたことをよしとして、「きちんと守る」のがまるで知性のある大人の振る舞いのように語れているが、そうだろうか。ただ正体のないものに過剰におびえ、合理的な判断を放棄して周りの意見に流されているだけはないだろうか。

もちろん感染の拡大は防がなくてはならない。しかしそのことは、まるで無人島に一人で暮らすことがそのための理想的な方法であるというような発想とは異なる。無駄なこと、過剰な対応をしても無意味だからだ。

感染を怖れてマスクやトイレットペーパーを大量に買い込んだ人たちがいるが、思考停止の典型だろう。WHOや米国CDCは、マスクは感染予防にほとんど無意味だと発表している。そりゃそうだろう、一般のドラッグストアで売っているガーゼのマスクでウイルスが防げるかどうかは、見ればわかるはず。

自分が感染者の場合、他に飛沫を撒き散らすのを防ぐには役立つ。マスクを大量に買い占めた人たちは、自分が感染したときに他人にうつさないようにするのに備えてか。見上げた根性だが、もし感染したらマスクして出歩かないで入院治療してくれ。

熱のある人は出歩かない、熱のある人には近づかない、手洗いやうがいは励行する、あとは万一の時に備えて免疫力が落ちないように食生活や睡眠に気を付ける。持病や重篤な疾患を抱えてる人は別として、そのうえでなるべく普段の生活を取り戻すようにすることが大切だと思う。

昨夕、市内の映画館に出かけた。電車はがらがら。それでもいちおう人が少ない車両を選んで乗車して。

2011年の東電福島第1原子力発電所事故を描いた「Fukushima(フクシマ)50」を上映するシネマコンプレックスの一劇場、131席のところ、観客は最初から最後まで僕ひとりだった。これなら感染しようもない。

2020年3月31日

複業を始めるチャンスだ

社会人学生らに今の働き方を訊ねたら、その多くがテレワークに移行してることが分かった。

なかには入館証を電子的にロックされて、出社したくても事前に上司の許可を取らないと会社に入れないケースも。

ひょんなことから始まった本格的な働き方改革である。世の中が一変したように見える。人の働き方だけじゃない。電車も新幹線も空いている。レストランも映画館もデパートも空いている。一方、宅配便の仕事をしている人は忙しくて大変そうだ。

テレワークを始めた人は、この機会に複業を考えてみるといい。これまで毎日費やしていた往復の通勤時間や無駄な会議に奪われていた時間が自分に戻って来たのだから。

それを有効に使って新しいことにチャレンジすることを本気で考えてみてはどうだろう。

2020年3月27日

君はRBGを知っているか

日本国憲法を前文から103条まで、通しで読んでみた。

憲法の前文は崇高で、国民の一人として自信と誇りを感じさせる。が、と同時に、今の政治家や官僚が明らかに憲法に反した多くのことを行っていることに気づく。憲法が平気でないがしろにされている日本は、不思議な国だ。

急に日本国憲法を読もうと思い立ったきっかけは、ルース・ベイダー・ギンズバーグを描いたドキュメンタリー「RGB 最強の85才」を観たから。彼女は米国の法律の専門家として70年代から性差別にかかわる数々の訴訟にかかわり、米国という国を平等な社会に向けて変えてきた一人だ。

RBGと頭文字で呼ばれて若者たちから愛され、いまやロックスターなみのアイコンになってる85歳のおばあちゃん。カッコいいね。 



2020年3月26日

横のものを縦にする

ご多分にもれず、新型コロナウイルス感染の騒ぎから自宅で過ごす時間がこのところ増えている。

それはそれで読みたかった本を読んだり、なかなか手が付かなかった片付けに取りかかる余裕ができたりでよいのだけど、そこで気になってきたのが家の中の本の平積み、積み重ねられたいくつもの本の山である。

本は背表紙さえ見えていればデッドストックにはならないはずとの考えがあった。しかし実際はそうでもない。

10冊や15冊の山なら、その一番下に置かれた本だって必要があれば抜き出して手に取る。だが、30冊、40冊と積まれた本の山を前に、その下の方に置かれた一冊の本を取り出すとなると、まずは深呼吸の一つも必要となる。

狙いをさだめて、山が崩れないように両手両足を使って押さえながら、タイミングよく目的の一冊を一気に引き抜く。うまくいけばいいが、バランスが崩れれば、山全体が崩れ落ちることになる。

それがどうした、また積めばいいじゃないかと思われるかもしれない。いや、その通り。だが、そうやって何度も本の山を崩れ落とした経験が重なると、次第にそこから手が遠のいていく。気持も遠のいていく。触らぬ神に何とかではないが、トラウマとなって家の廊下や壁際に積まれた本の山はアンタッチャブルなものと化す。

そのままでは意味がないと思い直し、書棚以外でヨコになっている本をタテにする一人プロジェクトを始めることにした。

本を立てることが目的ではなく、ヨコ積みの本の山をなくすことが目的だから、最初にやることはできる限りの本の処分。今日、そこから取り組み始めた。 

2020年3月23日

一年遅れで考える

複数年連用の日記帳を使っている。良いところは、昨年の同じ日、あるいは一昨年の同じ日に自分が何をし、どんなことを考えていたかを知ることができること。

あんなことがあったな〜、あれはその後どうしたんだっけ、などとその日のことを書く際に自分の1年前や2年前の記憶が自然に呼び戻される。

当時の世の中のことを思い起こして、あんなに大騒ぎしたことが今では全く何もなかったのように扱われているなど、1年、2年という年月の間での時間の流れの早さを痛感することがある。

そんなとき、僕たちはその日その日に追われ、目の前に現れては消えていくことをにしか眼差しを向けず、あたふたと生きているんだなぁと痛感しないわけにはいかない。たいていの事は、少し時間が経ってみればなんてことないことばかりだということがわかる。

目は半眼に閉じ、聞こえてくるものは右から左に流してしまい、その中で自分の心の奥底に引っかかったものだけを取り入れて過ごしていったほうがいいんじゃないかと思ったりする。

複数年連用の日記帳には、そんなことを考えさせてくれる効用がある。

2020年3月22日

山中先生による新型コロナウイルス情報の発信サイト

iPS細胞研究所長の山中先生が、新型コロナウイルスについての情報発信サイトを個人でオープンした。

https://www.covid19-yamanaka.com/

書かれていることはとても分かりやすく、世の中に流布している情報をエビデンスがあるものか、そうでないものかに分けて説明してくれている。

例えば、「暖かくなると終息する」という話はエビデンスのない情報、つまり単なる与太話ってこと。テレビの番組で感染の専門家と紹介されていた研究者がそう話していたけど、信じるに足るものじゃなかったのが分かっただけでもよかった。

少なくとも賀来満夫というトンデモナイ「日本の感染症対策の第一人者」の話が、さも専門家の分析として国中に流れている現状を修正してくれそうだ。
https://tatsukimura.blogspot.com/search?q=%E8%BF%B7%E6%83%91%E5%8D%83%E4%B8%87

まだワクチンは開発されてなく、効果の証明された治療薬も見つかっておらず、山中先生は今回のことを1年は続く可能性のある長いマラソンと語っている。

心してかかる必要がありそうだ。

三島と東大全共闘

今週の金曜日から、映画「三島由紀夫 VS 東大全共闘」が東宝系を中心に劇場公開されている。

1969年、東大のキャンパスで行われた両者の討論会を収録したドキュメンタリーといえる作品だ。映像は、TBSが撮影したものが局の倉庫に眠っていたのが、1年前に見つかったものという。

そうであれば、TBSはどうしてその映像を自社で番組にせず、劇場版の作品にしたのだろう。放送局でありながら、劇場でかかる映画の方がテレビ番組より格上だと思っているからか。

東海テレビのような地方局が、テレビ番組として制作したものをもとに劇場用映画として配給したものは確かにある。若い女性を中心に多くの観客を集めた「人生フルーツ」などがそうだ。

地方局制作の番組は、基本的にはその地域でのオンエアしか見られない。だから局のプロデューサーが、テレビでの放映後に内容を劇場版に仕立て上げて日本中に流すという手を考えるのは分かる。だが、TBSはキー局で全国にネットを持っているじゃないか。

さてその映画だが、僕はたぶん劇場へはそのためには足を運ばないかな。三島も東大全共闘もいまそれほど興味を感じないから。

映画のポスターやチラシには「衝撃のドキュメンタリー!!」の文字が躍る。映画評論家さんたちの評は、どれもポジティブだ。それもとても。「凄い!」「見逃せない」「必見」と絶賛だ。本当にそうか?

50年以上前の当時の事を理解し覚えているとしたら、70歳以上だろう。何も知らず、また学んでもない若い映画ライターらが、ただ「今とはあまりに違う」ことに驚き、気圧されて<こりゃ参った>といってるだけじゃないのかね。

2020年3月14日

映画と経営学修士

今年30作目の作品が今日から公開される映画監督の神山征二郎さんが、新聞の「ひと」欄で取り上げられていた。78歳になる彼の映画との関わりは60年間におよぶ。

彼は長年の監督業を振り返りつつ、今回の作品が最後になるかもしれないと語る。また韓国映画の「パラサイト」が話題になっているなか、日本の映画界では若い才能が実写で力を発揮する場が少ないことを嘆く。

日本で映画は斜陽産業と言われてきたが、今は産業とさえ呼べず、韓国映画に水を開けられたとその心残りを語っている。
私は若い世代のために何をしたらよかったのだろう。経営学修士を取り、資本主義の勉強したら、産業となりえたのだろうか。
彼は、自分が映画人としてそうした勉強をしたかったわけではないし、また映画監督としてそうしたことが必要だったとは考えていない。むしろ逆だろう。

作り手である自分たちだけでは産業としての映画を残し発展させていくことはできないことを経験的に感じていて、日本映画を産業として成長させるためにはそのためのプロの経営者が不可欠であること、そして今の日本の映画界にはそれが決定的に欠けていることを示唆している。

映画制作の能力で負けているのではなく、産業のマネジメント能力の欠如が敗因であると。これはなにも映画に限ったことではないに違いない。

2020年3月12日

宵の明星

3月12日午後6時半過ぎ、西の空にひときわ明るく輝く金星。

金星が見えるかな?

2020年3月11日

桜の開花

3月11日、横浜市内某所。桜がすでに開花していた。





2020年3月9日

主人公との同化

映画『1917  命を賭けた伝令』。監督のサム・メンデスが、かつて祖父から聞かされた第一次大戦中の体験談をもとに脚本を書き、制作した。


舞台は1917年(ソビエト連邦の成立につながるロシア革命が起きた年だ)、ドイツ軍と英国軍が戦闘を繰り広げていたフランス。そこで重要な伝令を託された英国軍の2人の若者が、防衛線を越えて敵の占領地に分け入り、罠にかけられようとしている味方軍にその事実を届けるというもの。

スーパーマンでも何でもない普通の兵士2人が、まさに命を賭けて(というか、戦場そのものがそうした場所なのだが)敵陣をくぐり抜けていくというサバイバルゲームを見ている感覚。

2人は走る、走る。それを長回しのカメラが、いい距離感で追っていく。まるで自分が主人公の一人になって戦場の中を命がけで駆けている気にさせられる。

近代兵器が生まれることで一気に闘いが凄惨なものとなった第一次大戦の悲惨さが伝わってくる。徹底して敵であるドイツ人は、薄汚いイヤな奴らとして(しっかり)描かれている。ドイツではこの映画、あまり流行らないかもしれない。

それにしても、観るものを主人公に同一化させる映画手法はすばらしい。カメラや美術のテクニックが抜きんでているのはもちろん、観るものの五感に訴えるように計算された細かい演出が心憎い。

主人公の近くで爆裂し、耳をつんざく砲弾の音。ドッグファイトで撃墜された敵の飛行機が主人公たちに迫ってくる息を呑む迫力の映像。そうした典型的な映画的体験だけではない。

ポケットから取り出して2人で分けて食べる固いパンはその食感を観客に伝え、喉が渇いた彼らが農場の跡で見つけた牛乳は、その甘い匂いを漂わせていた。

そして何よりも感覚を共有させられたのが、主人公が自陣を離れ、鉄条網を抜けながら敵陣に入って行くときに手の平に刺さったその鉄の棘の痛さ。立ち止まることができないなか、泥の中を進みながら血が流れる手の平にもう片手で包帯を無造作に巻きつける。

観客が主人公と同化するこうした仕組みがうまく盛り込まれている。だから、主人公は特殊な能力を持つスーパー戦士ではなく、たまたま上官によって指名された普通の兵士がふさわしい。