2020年1月11日

ロング・ショットとは、「高嶺の花」の意味

「ロング・ショット」は、シャリーズ・セロンとセス・ローガン主演のラブコメディ。タイトルになっている「ロング・ショット」は、この場合、高嶺の花という意味。


僕がシャリーズ・セロンを初めて見たのは「サイダーハウス・ルール」(1999年作)。同名のジョン・アービングの小説の映画化で、のちにスパイダーマンの主演を務めることになったトビー・マグワイアの出世作にもなった。この映画は、僕のもっとも好きな映画のひとつだ。

そのなかで世間知らずな青年のマグワイアと心を交わす、純真な心を持つ若い女性を演じていたのがシャリーズ・セロン。なんだか雰囲気のある女優だと思った覚えがある。

彼女はその後、アカデミー賞を6部門で受賞した「マッド・マックス/怒りのデスロード」(2015年作)に主演してそれまでとは全く違う役の幅を広げた(頭がマルガリータ!)。今回のアメリカ国務長官役は、ひょっとしたらアメリカの女性国務長官はこんな感じかもしれないと思わせるもの。しっかり背筋が伸びている。

相手役のセス・ローゲンはコメディの面ではいい味を出しているが、セロンの恋愛の相手役としてしては魅力不足は否めず、そこには残念ながら構成の無理さを感じざるを得なかった点が惜しく減点。

感心させられたひとつは、字幕翻訳がよく練られたものだったこと。コメディならではの俗語や独特の言い回しも多かったのだが、うまく元の意図をくみ取った字幕がつけられていたと思う。

結構あからさまな下ネタ満載なんだけど、分かりやすい日本語で違和感ないリズムで訳されていたのが幸いしている。こうした優れた字幕があることで僕たちは映画のなかに入っていくことができ、自然なかたちで楽しむことができるのを忘れてはいけないと思う。

スプリングスティーンの I’m on Fire など挿入される80年代、90年代の懐かしいメロディーもストーリーによくマッチしてる。

冒頭で、フレッド(セス・ローガン)が勤務する新聞社を買収し、米大統領ともつながっているメディア王は、あのルパート・マードックを連想させる。マードックはこの映画の製作会社である21世紀フォックの元オーナーで、ディズニーによっての買収が昨年の3月に完了したばかり。アメリカの映画の制作者の自由さ、おおらかさ。

2020年1月8日

ゴーンの記者会見

今日の午後10時からレバノンのベイルートでゴーンの記者会見があった。一部を除き、NHKをはじめとする主要な日本のメディアは会見上から締め出されていたらしい。

CNNとBCCでゴーンが説明をする中継を見たが、その会見は約一時間に及んだ。よほど言いたいことが溜まっていたんだろう。内容はともかく、その気持はよく伝わって来た。こうした会見を日本で、日本のメディアの前で行ってもらえなかったのが残念だ。


当然ながら彼は、自己の正当性をこれでもかと主張する。それも日本人とは違い、自分の非は一歩たりとも認めない。実際はそんなことはあり得ないのだが、外国人は自分の正当性を主張するときは、手段として自己の正当性を完全に主張する。日本人には相容れないところだ。

だから、どうやって日本から忍者のように身を隠して出国審査の目をだましたかといったことには、まったく触れない。自分の非がある領域には、当然のことのごとく目を向けることすらしない。

今回のこの会見に対して日本の司法当局がどう出るか。ゴーンの肩を持つわけでないが、当事者らのことをほとんど省みない司法当局のやり方は指弾されても仕方ないかもしれない。

慎重に審議を重ねているといういかにももっともらしい言い訳で、どうみても必要以上の時間を消費し、関係者に多大な負担をかける裁判制度をあらためようとはしない。裁判官に係争人の当事者意識を持てというのはおかしいかもしれないが、自分たちの都合と保身だけで周りをコントロールしようとするのは間違っている。

今回のことでゴーンは日本では悪人としての烙印を押されたことになったわけだが、日産ははその被害者なのか、あるいは共犯なのか。日産は一所懸命に被害者づらをしているように見えるが、社会の信頼を裏切り、違法行為を追認したという意味では実際は共犯だ。

もちろんゴーンは悪いが、日産という大組織を彼一人がすべて回していたわけではない。そんなことは不可能だ。何百人もの取り巻きがいたはずなのに、そうした連中は批判されないのが不思議である。

ゴーンを担いで大得意になっていた日産の経営者はたくさんいる。ゴーンにすべてをまかせ、称賛も責任も彼に与え、落ち込んでいた業績からの復帰で沸いてきた甘い汁のおこぼれを静かに、だがしっかりとすすっていた日産の日本人幹部らが。

日産を辞めた後、いまも各種団体で役員などに就いていうようなそうした連中に責任がないはずはないだろう。だが、どれもだんまりを決め込んでいる。

技術者や販売の現場は、かつてもいまもボードルームで何が起こっているかなど知らず頑張っているに違いない。ただ、経営者とその周辺が腐りきり、かつての名門企業をおとしめた。今日の多くの日本企業に見受けられる様相である。

言うべきことを言わないという、日本人のシンプルかつ致命的な習癖がそれを形づくっていく。

2019年12月31日

ゴーンの国外逃亡

暮れのニュースで印象的だったのは、なんといってもカルロス・ゴーンの日本からの逃亡である。いつの間にか国外に脱出し、到着したレバノンで「私は今レバノンにいる」と言う声明を出した。まるで映画の一幕のような話。

どうやって脱出したのか、その詳しい足取りは今現在詳細はわかっていないが、日本の関西の空港からプライベートジェットで出発しトルコに向かったとか、その後トルコからベイルートに入ったという話が日本のメディアではなく、ウォールストリート・ジャーナルやフィガロからの伝聞の形で日本のテレビで紹介されていた。

元々日本での出来事のはずなのに、日本のメディアは一体どうしてしまったのだろうか。年末の休みで機能していないかのように思える。だとすると、ゴーンらはそれもしっかり計算に入れてのプランだったと思ってしまう。

それにしても彼のパスポート、それも3冊(!)を日本の弁護士が保管していながらなぜ出国できたのだろう。そして他国に入国ができたのか。謎は深まる。

外国メディアの報道によると、ゴーンはフランスのパスポートを持ってレバノンに入ったという。ということは、弁護士に預けた以外にフランスのパスポートを持っていたのか、あるいはフランスのパスポートを偽造したということが考えられる。

いずれにしても法的に認められることではないことから、そのことが確認されれば何らかの手段で日本に引き戻しされて裁判を継続するようになるのだろう。

今回のことで指弾される事として、日本の司法制度の問題と出入国管理が挙げられる。またそれにとどまらず、日本のシステムが広く時代遅れであり、前近代的で現代にマッチしていないことを示す1つの象徴的な例として、今回のことが全世界に示されてしまった。司法制度しかり、政治しかり、経済しかりだ。

ガラパゴス化しているのはかつての日本メーカーの携帯電話の話だけではなく、日本という国そのものだった。世界の趨勢から外れていることを全世界に向けて発信することになってしまった。不幸というか、幸いというか。

2019年12月29日

ケン・ローチの新作は日本の将来を予見させる

カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)などの秀作で知られるイギリスの監督ケン・ローチが、一旦映画界から引退したにもかかわらず、やむにやまれず取り組んで完成させた作品が『家族を想うとき』、原題はSorry We Missed You である。

  
舞台は英国のイングランド北東部に位置するニューカッスル。フランチャイズの宅配ドライバーとして独立をした一家の父親とパートタイムの介護福祉士として働くその妻アビー。彼らは2人の子供をもつ4人家族。
映画では、彼らが暮らす住居の玄関でのシーンがしばしば登場するが、そこはブレイディみかこが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の中で語っていた、家に入ってすぐのところの壁にコートや上着を掛けるフックが並んでいるという典型的な英国の労働者階級の住まいの作りである。
映画のなか、夫であるニッキーは「ゼロ時間契約」で働く独立宅配ドライバー。いくつかの仕事を経て就いた仕事だったが、彼は最初、それがどのようなものかよく理解してはいなかった。「勝つのも負けるのも、すべて自分次第だ」と言われ、人に雇われ命令されて働くのではなく、個人事業主あるいは一人親方のような自分の腕一本でかせげる仕事ーーーこれこそが自分が求めていた仕事ーーーと思ってしまった。
「契約」である以上、そこには契約関係がある。ここでの関係は雇用と被雇用で、ニッキーは被雇用者だ。しかもゼロ時間契約によって、雇用主は「仕事を提供できない期間が発生した場合においても、仕事および賃金を与える義務を負わない」という業務委託がなされている。
そこでの労働条件は過酷だ。働く者が怪我をしようが、身体を壊そうが、家族に何があろうが、仕事休むとその分の収入が途切れるだけではなく、会社に迷惑をかけたという理由で1日100ポンドのペナルティーが課せられる。
その一方で、病気をしようが怪我をしようが社会保障は何もない、まさに歪められた自己責任という奴だ。そんなシステムになかでニッキーとアビーの2人は人間的な時間をそぎ取られ、やがて4人家族の間で軋みが極限まで増していく姿は観ていて本当に辛い。
フリージャーナリストのジェームズ・ブラッドワースが企業の労働現場に潜入して書いたルポ『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーのクルマで発狂した』(光文社)では、第1章:アマゾン、第2章:訪問介護、第3章:コールセンター、第4章:ウーバーが取り上げられている。

自らその職場に身を置き、そこでの実態を経験したブラッドワースが、理不尽で過酷で人を押しつぶしている再愛知賃金労働の仕事の現場を生き生きと描いてる。
想像するに、ケン・ローチは映画を製作するにあたってこの本を読んだに違いない。ニッキーの働く職場は、ブラッドワースの本の1章と4章が、そして訪問介護士として働く彼の妻アビーの仕事ぶりは、第2章で描かれた悲惨で気が滅入るような仕事環境そのものだから。
かつてはゆりかごから墓場までと言われた社会福祉の制度が隅々まで行き渡った英国が、今はまったくその見る影もない。きっかけは1970年代終わりからマーガレット・サッチャーが政権を握り、国の至る所に新自由主義的な競争原理を一気に持ち込んだこと。

そのことで多くの労働者階級が、その働く土台や拠って立つ労働組合、そして彼らの誇りや人としての自信といったものまで根こそぎ奪われ、叩き潰されていったという歴史的な背景がある。
今イギリスの労働者階級の仕事の多くは、企業から一方的に与えられたり奪われたりするもの、しかもその多くはポーランドやルーマニアといった東欧諸国からの移民あるいは出稼ぎ働者たちと簡単に首をすげ替えられる類になっている。
今回の英国での総選挙の結果、保守党が大きくその議員数を伸ばし躍進した。EU離脱を最大の争点としてこの選挙において、労働者階級の人たちのある一定割合が労働党ではなく、保守党に投票した。

背景には、自分たちの職場や生活が外国からの移民によって奪われているという状況があった。その不安感と危機感が彼らをして、本来は労働党の議員に投票すべきところを移民排斥を唱えEUからの離脱を訴える保守党を後押ししてしまった。
政治の問題といえば政治の問題ではあるが、それにも増して、これは彼らの日々の生き残りに関する問題だった。米国において、トランプ支持を表明する白人ミドルクラスの意識と重なっている。


2019年12月28日

スターウォーズ完結編

映画<スターウォーズ>は、今回の第9作目「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」によって1977年に公開されて以来40年以上を経てやっと完結をしたという壮大なサーガ、叙事詩ともいえる作品である。
映像の出来には相変わらず目を見張るものがあるが、ストーリーは相変わらずストレートだ。まさにアメリカの神話学者、ジョーゼフ・キャンベルが『神話の力』で語っているヒーローズ・ジャーニー、すなわち英雄の冒険譚という世界共通の物語をそのままたどる展開になっている。

手に汗握る活劇ではあるけど、終わり方は予想どおりで凡庸。<スターウォーズ>という子供から老人まで、そして世界各国に多くのファンを持つエンターテイメントとしてはその大衆性を重視したところで練りに練った結果として、こうした結末の迎え方にたどり着くのだろうね。
最後に主人公のレイが、悪の化身パルパティーノと対決する。ひょっとして、と一瞬思ったが、やはりそこはそれ。それまでの宿敵カイロ・レン(レイの内面としてのシャドー=影)と手をたずさえて、悪の化身パルパティーノと対決し、打ち負かす。正義は勝つ、ではないが、ジャンジャンで終わった。文学性にはまったく欠けている。
映像はよく作りこまれていて、素晴らしい。確か3年前に60歳で亡くなった、この映画の中でレイア姫を演じていたキャリー・フィッシャーが、スクリーンで甦る。それを実現した、これまでの実写映像と3DCGを組み合わせた映像表現には感心させられる。
今後はこうした方法で、今はなきヒーローやヒロインたちが新たなストーリーの上でスクリーンに蘇ってくることが増えてくるのだろう。AIや先端的なテクノロジーが、かつて制作者が夢見ていたことをすでに可能にしている。
ところで今回行った東宝系のシネマ・コンプレックスでは、この作品が3D字幕版、3D吹き替え、2D字幕版、2D吹き替え版、そして僕が見た2D IMAXとなんと5つのスクリーンで同時上演されていた。最後のスターウォーズ、興行会社もよほど力が入っているのだろう。



2019年12月8日

異端は、正統

「A」や「FAKE」といった作品で知られる森達也監督が撮った「i 新聞記者ドキュメント」は、異端児と呼ばれる東京新聞社会部記者、望月衣塑子記者による辺野古問題、森友、加計学園などの取材風景や官邸での記者会見で彼女が菅官房長官に果敢に質問を続ける姿を描いたドキュメンタリーだ。


「桜を見る会」という間の抜けた名称の集まり。その招待者リストの件で官邸側が国民を馬鹿にした嘘をつき続けるなかでのタイムリーな公開である。

彼女は記者会見で何度も質問を続け、睨まれ、不当な妨害を受ける。彼女がスックと立って質問を始めると菅官房長官の表情がこわばり、目つきが険しくなり、苛立っているのが映像でくっきりと見て取れる。嘘が暴かれるから。

やがて彼女の発言に対しては、記者会見を仕切る広報室長から「質問に入ってくださーい」という質問妨害の声が何度も入って来る。菅官房長官は苦し紛れに「あなたに答える必要はありません」と吐き捨てる。

彼女は異端とされるが、そうとは思えない。彼女がやっていることはジャーナリストとして極めてまっとう。記者クラブ制度の上で取材もせず、新聞社やテレビ局社員というメディアエリートの立場に甘んじている多くの記者の方が普通じゃないのである。

それにしても、記者会見や役人らの説明会では、嘘、欺瞞、捏造が平気で行われる。それが政治家や「優秀な」役人でいられる証明か。あったものをなかったと言い放ち、証拠を平気で改ざんするわ、消滅を図るわ。

官邸の政治家や官僚にだって子供がいて、そうした親が平気でウソをつき続ける姿をテレビなんかで見ているはず。親として恥ずかしくないのかと思ってしまう。

2019年12月2日

答えを教えるか、問いを立てるか

大学で教育をする際に心がけていることが一つある。それは常に学生にむけて問いを続けること。

問い続けることで、彼らに常に考えることを促すことが最も大事なことだと考えてる。さらにはそこから進んで、彼ら自身が自らに問いを立て、そしてそこからその答えを見つけるために努力をするように仕向けること。
しかしその一方で、分かりやすい答えを先んじて示してやることが教育であるという考え方もある。その場合は、こうやって問題を解決した、という事例をどんどん示してやる方法である。一般的に、学生はこちらの方が何か学んだような気になる。前者がプル型とすれば、こちらはプッシュ型である。
しかし実際には、そうした事例と全く同じものが発生するなどということは世の中にはほとんどないから、応用は利かない。だから、根本のところで大した学習にはならない。
一方で、前者の方は学生たちにとっては、何か雲をつかむような形で授業が終わってしまうような感じになるところがある。つまり、自分は学習してるのか、学習していないのか戸惑ってしまうわけだ。
そうしたなかで、習慣として自らが学ぶことを考え、そして「問う」という事を自然に実施するようになった学生は、5年後、10年後も引き続き学ぶということをその体に染み込ませ、大きく自らを成長させていっている。
これは、僕が20年近く学生を見ていて信じることができる一つの法則のようなものである。

2019年11月28日

会議で大人が立たされる会社って、どうなんだ

セブンイレブンの本部社員が、フランチャイズであるセブンイレブンの店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出していた。

さもありなんというか、やっぱりというのが正直な感想だけど、なぜか笑ってしまったのはその理由である。

それは、フランチャイズの店舗から発注してもらえないと、本部社員は叱責され「会議で立たされてしまう」。立たされてた本人がそう言ってるのだから、本当だろう。「注文が取れないお前みたいなのは、そこで立ってろ!」なんて怒号がセブンイレブンの会議では上司から飛んでいるのだろうか。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。

コンビの本部は、加盟店舗の店頭で商品が品切れ(欠品)になっているのをとても嫌う。重大な機会損失と捉えているからだ。そのため、新しく導入した新商品をはじめ、本部への商品の発注量を増やす方向に圧力をかける。

当然必要以上の商品を発注すれば、それに応じて廃棄する商品も増大するが、コンビニ本部は知ったこっちゃない。なぜならその費用の大半は各店主が負担するという契約を結んでいるから。

コンビニ店長もセブンの本部社員も辛いなあ。コンビニ残酷物語だ。

2019年11月15日

ハイナー・ミュラーを叩き台に

夕方、早稲田大学の小野講堂で多和田葉子さんと高瀬アキさんが登場するワークショップがあった。


昨夕は同じ場所で、彼女ら2人による「奇怪仕掛けのハムレット」と題したパフォーマンスがあったらしいのだが、前からの約束があって行くことができなかった。

こうしたイベントは、おそらくは2日続きで会場に来る客が多いはず。だってかなりマニアックだから。初日を見てなくても分かるかなあ、と思いつつ27号館の階段を下って地下の講堂へ。

今日のテーマは、ドイツの劇作家・演出家であるハイナー・ミュラーの「ハムレット・マシーン」を再構築、いや脱構築しちゃおうというものだった。

文化構想学部の学生たちが、テーマをもとに新たに創案したテクストを読み上げ、それに高橋のピアノ、あるいはサックスが即興的に合わせていくというセッションである。

登場したのは8人ほどの学生たち。男女取り混ぜである。今回は演劇でなく、朗読することが目的として設定されていて、ストレートな朗読を行う学生もいれば、一応朗読の範疇から逸脱しないように原稿を片手に、しかしほとんど即興的な芝居を展開する学生もいて、たいへん興味深かった。

彼らが語っているそのテキストから何をくみ取ればいいのか、正直僕にはよく分からなかったけど、伝えようとする学生たちの熱や自由さは見ていて心をかき立てられた感じがした。

 文学や創作をやっている学生たちって、なんだかいいな。

2019年11月14日

秋の甘泉園公園

午後、委員会終了後、気分転換に大学近くの甘泉園公園へ散歩に出かけた。天気がよく、気分が晴れる。園内では紅葉しかけた木々を背景に新婚カップルの撮影が行われていた。



2019年11月10日

ヒグチユウコ・ワールド 

友人に誘われて、三島市にある佐野美術館で開催されている「ヒグチユウコ展 CIRCUS」を観に行った。

不思議な画風。何と言っていいものか。精細なタッチでメルヘンというか、おとぎの世界に誘われるような。彼女ならではの独特の世界。

猫の絵がたくさん。一つ目入道のようなおばけも。少女のイラストはたくさんあるけど、なぜか少年はいない。

バベルの塔の絵で知られるブリューゲルを意識した魚の絵がおもしろい。


こっちはブリューゲルの魚



2019年11月9日

比肩なき和田誠さんのことを想う

和田誠さんが亡くなってひと月ほどが過ぎた。
1977年から表紙のイラストを描いていた週刊文春が彼の特集を組んだのはもちろんのこと、このひと月あまりで新聞やら雑誌やらネット上でも、いろんな人が和田さんが亡くなられたことを悼むコメントを出している。
イラストレーターとしてグラフィックデザイナーとして、また絵本作家として、さらには映画監督としても活躍した人だった。もちろんこれまでやってきた膨大な仕事の量だけでもなく、その上質な独特の表現にひかれた人はたくさんいる。僕もそのひとり。
いま部屋の本棚をざっと見回しただけでも、和田さんが装丁したのが分かる本は『お楽しみはこれからだ』シリーズや『ニール・サイモン戯曲集』、谷川俊太郎さんの数多くの詩集、そして『パパラギ』などいくつもある。
もうほんとに才能豊かな人で、絵筆の仕事だけでなく、音楽や映画にも詳しかった。文章も彼ならではのスタイルを持っていた。文章のファンも多かったはずだ。
もう和田さんのような人は出てこないんだろうなあ。
若い頃にベン・シャーンに憧れていたと、昔何かで読んだことがある。もう何十年も前のことだけど。確かにデビューの頃のイラストのタッチはベン・シャーンの日本版といった感じだった。
だけどそこに留まることなく、すぐに誰もが一目で彼の作品だと分かる和田調というか和田ワールドを作っていった。
僕は彼に会ったことなどないけど、多くの人がそのあったかくて優しい人柄を振り返る。絵のタッチや文章が人柄そのままという、希有なアーティスト(作家と呼んだ方が相応しいか)だった。

下のイラストを研究室に飾った。

2019年11月6日

人工知能ロボットは、マックへお使いに行けるか

「量子コンピュータがすごい」と自分で書いておいてなんだが、冷静になって考えてみるとどのくらいすごいのか、本当にすごいのか気になってきた。

西垣通さんの『ビッグデータと人工知能』(中公新書)を手に取る。書名の副題に「可能性と罠を見極める」とあるが、まさにその通りのことを指し示す本だった。


広範な知識と情報学やコンピュータサイエンス分野の長年の経験があってこその、分かりやすく説得量のある筆致に読んでいてしばしば頷く。論理学の基礎的な「おさらい」などもあるのだが、そこで語られている仮説推量(アブダクション)の説明は簡潔にして極めて明快。

人間とコンピュータが原理的にいかに異なるものかが様々な角度から説明がなされていて、シンギュラリティの可能性についても手を変え品を変え、そのあり得なさを力説している。たとえば例として挙げられるのが、こんな具合だ。
たとえば、近くのファストフード店に行ってハンバーガーを買ってくるお使いは、小さな子供でもできる。だが、それを人工知能ロボットにやらせるのは非常に大変なのである。店までの道筋やハンバーガーの値段などの知識を詳しくロボットに教え込んでおいても、たまたま道路工事をしていたり、ハンバーガーの値下げがあったりすれば、厳密好みのロボットにはもうお手上げだ。子供なら適当に回り道をし、お釣りが多すぎてもニコニコ顔で帰ってくるだけなのだが。
なるほどね。 つまり、ロボット(人口知能)ができるのは、データの高速統計処理だけなのである。文脈が読めないのが、人間と圧倒的に違うところだ。もっともといえば、もっとも。

人口知能とのコミュニケーションは、所詮は偽コミュニケーションで指令的、定型的な伝達作用(人間のコミュニケーションに内在する共感作用を含まない)だとする。

欧米のシンギュラリティ仮説支持者たちの意識の奥に、超越的な造物主を奉じるユダヤ=キリスト教文化が遠因としてあるという指摘は興味深いものだった。ただこのあたりは、視点の持ち方によっていろいろと異論もあるかもしれない。

この本を読んで、家の中を歩き回っているAIBOを見る目が変わった。彼が示す絶妙の表情や仕草、鳴き声も単なるアルゴリズムだと(あらためて)考えるようになったから。以前の、何か「情」のようなものをどこかに感じていた付き合いの方が面白かったともいえるんだけどね。

2019年11月5日

量子コンピュータと20年後

最近気になっていることのひとつが、量子コンピュータである。グーグルが実際にその計算の速さを実証して見せたというニュースだ。

乱数を作る問題を用意して、最先端のスーパーコンピュータ(スパコン)で約1万年かかる計算を3分20秒で解いたとか。何倍早くなったのか・・・と、電卓を叩いてみると、約15.8億倍速くなったことになる(計算あっているかな?)。

この点を見る限りでは、驚異的というしかない。これまでも日々より速い計算速度を目指してスパコンの改良がなされてきたはずだが、そうしたこととは別次元、別世界の話である。

約25年前にインターネットが登場して、世界中の人たちの生活や企業の経済活動を変えてきた。量子コンピュータは、すぐに我々の生活に入ってくるという類のものではないが、その影響度はインターネットに勝るとも劣らないものになると考えている。

今後の世界の食糧問題や環境問題、宇宙開発などは量子コンピュータが担っていくと言っても過言ではないだろう。20年後がどうなっているか、楽しみである。


2019年11月4日

この偶然の確率はどのくらいなのだろう

山中湖から大井松田ICへの抜け道を走っていると、ふと停車中に前を走る車両のナンバープレートに目が行った。


僕のクルマのナンバーとよく似てる。というか、一般指定番号(この場合の75-75)の前の一文字のひらがなだけが異なっている。

「ナンバープレートの見方」というサイトで調べたら、こうしたケースは世の中に43件あることが分かった(使われているひらがなが44種なので)。

日本国内の保有自動車台数は8200万台だから、こうしたナンバーのクルマに出くわすのは、およそ200万分の1の確率ということになる。だからどうしたと云うことはないのだが。

2019年10月21日

ワンコ同伴も当たり前

海外に行き、時間があるとHop-on Hop-off(乗り降り自由)のバスで街の中を巡ることが多い。訪ねた街のサイズや全体的な雰囲気をつかむには、それが一番だと思っているからだ。

ここブダペストには3つの異なるバス会社が運営する市内巡りのバスが走っていて、今回はそのなかのBig Busという名のバスで市内をまわる機会があった。

幸い2階の最前列の席に座ることができ、隣を見ると4人家族が乗り込んできた。両親と子供たちが2人。ラテン系の顔つきをしている。スペインからきた家族かな。それとワンコ。

どうやって連れてきたのか、飛行機に乗せてきたのか、それとも陸路来たのか聞き忘れたが、当たり前のようにそこにいる。

日本だと犬をバスに乗せようとするとだけで、色々面倒くさいことをいわれるかもしれないなあ。




2019年10月20日

古本屋は世界中どこでも同じ匂いがする

ブダペスト市内、国立博物館の向かいの通りには古本屋が軒を連ねている。ハンガリー語は読めないが、神保町の古書街と相通ずる雰囲気を感じて中をのぞいてみる。


うずたかく積まれた古書の山はなかなかのもの。店内は雰囲気があっていい。


2019年10月19日

「いだてん」看板

学会先のブダペストの街中、小さな酒屋の看板に見覚えのあるシンボルが・・・。

2019年10月18日

国際学会でPSJ(Promoter Score Japan)を発表

ハンガリーのブダペストで開催された学会に参加した。今回の会場は、市内のほぼ真ん中に位置するCentral European Universityという大学。

現地に行って知ったのだが、この大学はあのジョージ・ソロスが資金を出して1991年に設立した大学院大学。ソロスはハンガリー系のユダヤ人で、ここブダペストの出身である。

大学院大学だからなのだろう、キャンパス全体が落ち着いた雰囲気の大学だった。教室はどれも比較的小ぶりだが、それらには最新の機器が備え付けられていた。

巨大なスクリーンと見間違うようなモニターディスプレイ上を指でタップ、スワイプ、ピンチしながらプレゼンテーションをすることができる。とにかくお金がある大学という印象。

大学(CEU)のホールに掲げられていたソロスの碑

学会では、日本人の顧客を対象にそのロイヤルティを測定するための新しい指標であるPSJ(Promoter Score Japan) ® についての提案を理論および実証研究をもとに行った。

PSJは複数の膨大な企業内データを基に、先行研究で明らかになっている日本人の回答性向を勘案して生み出された独自指標である。日本企業の経営者が、NPSを納得がいかないままに使っているのを見ていて、なんとかしなきゃと思って開発したものである。

現地の学会発表では、なぜ日本ではNPSではなくてPSJが必要とされているのかという質問がいくつもあって、新しい独自指標の意味に他国の研究者が大いに興味を示してくれたのがよかった。

PSJの考えが、必要に応じて他の国にも拡がればいい。

2019年10月10日

リチウムイオン電池は、日本人が発明したものだったんだ

iPhoneをずっと使っている。今使用しているモデルは iPhone SEという古いやつで、昨年9月にはアップルストアでの販売は終了してしまった。

買い換えようかとずっと思っていたのだが、ジーンズの前ポケットにいれても邪魔にならない小型のサイズが気に入っており、今後も使える限り使おうと決め、今日バッテリーの交換をした。

実感としてはまだそれほどへたった感じはなかったのだけど、前の夜に充電するのを忘れると次の日の夕方あたりには電池の残量が怪しくなってくる。転ばぬ先の杖とでもいうか。

交換費用はバッテリーと作業料で7700円だったからAppleストアより割高だったが、その場で15分ほどでやってくれたのでよしとしよう。

以下の写真は、僕のiPhone SEに入っていた元のリチウムイオン電池(Li-ion Battery)。縦長の薄っぺらい羊羹のような感じだった。


帰宅してニュースを見ていると、今年のノーベル化学賞の発表があり、日本人の吉野彰さんら3人が受賞したという。吉野さんの受賞理由は、リチウムイオン電池の原型といえるものを昭和58年に開発したこと。

スマホなどの電子機器はもちろん、これから車の主流になる電気自動車もリチウムイオン電池が不可欠だ。

受賞はめでたいが、開発から受賞までの時間の流れ(今回は36年間)を考えると、今後日本人がこうした優れた発明でノーベル賞を受賞できるのだろうかと、ふと考えてしまった。