2019年1月21日
そろそろポイントカードからおさらばした方がよさそうだ
6700万人とは圧倒的な数。日本全国民の半分以上にのぼる。 ただしこの数字はのべ数で、実際には使われていないものも多いだろうから、実数は2000万人くらいだろう。ただ、それだってすごい数といえる。
今回明らかになったのは、利用者の名前や住所、電話番号だけでなく、商品購入履歴も警察に流れていたということ。映画のDVDなどをレンタルしている場合は、そのレンタル記録(レンタル日、店舗名、レンタルした商品名)まで提供されていた。これは、その人の趣味や嗜好性が丸裸にされることを意味する。
報道によれば、「Tポイントの会員規約」には当局への情報提供は明記されていなかった、としている。しかしいずれにせよ、ポイントカードの会員規約など一般の人はほとんど読まない。
つまり、今回は規約になかったのに・・・ということで問題視されることになったが、規約にそうしたことが記されていたとしたら、運営会社のCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)は利用者に対して何を憚ることなく、会員情報を提供していたのだろう。
何も知らない、気づかないのはポイントカード利用者本人だけということになる。
世の中にポイントカードがあふれている。良くて1%、あるいは 0.5% 相当のポイントを貯めるために個人情報を売り渡し、財布をカードで膨らませ続けるのは、いい加減やめにした方が良さそうだ。
企業はこうしたデータが消費者行動理解につなげられると想定してるのだろうが、この程度のものでどんなインサイトが得られるというのか大いに疑問だ。
2019年1月14日
「恐怖の報酬」
「恐怖の報酬」はウィリアム・フリードキンが1977年に監督した作品。1953年に製作された作品のリメイクである。現在、都内では1館だけ(新宿シネマート)で上映されている。
当時公開されたのは、30分ほど配給会社の手によってカットされた<短縮版>だったそうで、今回、<オリジナル完全版>を謳う作品が日本を含むいくつかの国でリバイバル上映されている。
ストーリーはシンプルと言えば、シンプル。見どころは戦慄的な状況のなかで生き抜く4人の非情な男たちの生と死といったところなのだろうが、僕にとっては美術デザインと音楽である。
この映画を世界に知らしめた最も印象的なシーンは、ニトログリセリンを運ぶトラックが密林の中の吊り橋を渡るところだろう。よくもまだこんなオンボロトラックが走っていると感心させられるのだが、それにも増して、そのフロントグリル周りがまるで怪物の顔なのである。
その怪物が唸りを上げ、ときに咆哮しながら奥地の道なき道を這い進んでいくシーンに引き込まれる。
クルマがこれほど怪物に見えたのは、スピルバーグの監督としての出世作といわれる「激突!」で執拗に主人公の車を追い詰める大型トレーラー以来だ。
音楽は、タンジェリン・ドリーム。ドイツ出身の当時プログレッシブ・ロックといわれたバンドの一つである。今聞けば、プログレッシブどころか妙な懐かしさを感じさせる電子音楽なのだが、それが画面のおどろおどろしさと相まって心に残る。
2019年1月3日
セルジオ&セルゲイ
主人公の一人セルジオは、ロシアの大学院でマルクス主義哲学を専攻して学位を得て、いまは母国の大学で教鞭を執っているエリート共産主義者。だが時は1991年。ベルリンの壁が崩れ、社会主義陣営の崩壊の波の中で深刻な経済危機に見舞われているキューバでの暮らしは困難を極めている。
そんな彼の趣味はアマチュア無線である。ニューヨークに住む無線仲間から、本国では報道されない政府にとっての不都合な情報を得ては、将来の行く末を案じている。番組冒頭では、モールス信号で通信をしていた! その後、NYの無線仲間から機器をプレゼントしてもらって、やっと声で通信ができるようになった。
もう一人の主人公であるセルゲイは、母国の宇宙ステーションに滞在中にソ連が崩壊したため、帰還が無期限で延長されてしまったソ連の宇宙飛行士。地球から何百キロと離れた宇宙でひとり、どうしようもなく日々の決まり切った活動を続ける彼は、ある種腹立ち紛れに無線で地球に語りかける。
そこでこのふたりが電波の上で出会って、交信をするというわけだ。その後、このふたりがそれぞれ置かれた悲惨な状況をどう生き抜いているかは映画を観てのことだが、どんな時も投げやりにならず、ユーモアを忘れない考え方はすてきだ。
かつてロシアに留学し、マルクス主義哲学で学位を取ったエリート大学教授が、社会主義の崩壊の波のなかで一気に傍流に押し流されていく様子。宇宙にいる間に母国のソ連が崩壊し、帰るに帰れなくなった宇宙飛行士。そのふたりが、実にローテクなアマチュア無線でつながるというアイデア。皮肉と諧謔が込められていて、どれも気に入った。
セルゲイにはモデルがいる。実際に帰還無期限延長を命じられたのロシアの宇宙飛行士である。ただ名前はセルゲイではない。映画では、典型的なソ連人(ロシア人)の名前としてセルゲイと呼ばれ、同様にセルジオは典型的なキューバ人の名前だ。
スピルバーグが監督し、トム・ハンクスが主演した「ターミナル」という映画があった。確かクラコウジアという架空の国だが、その国からアメリカにやって来た男の物語だった。故国が突然政変で消滅し、パスポートが無効になったために到着した空港(ニューヨークのJ・F・ケネディ空港)から外へ出られなくなった彼とそのターミナル内で働く従業員たちの交流を描いていた。
こちらも自分の意思に関係なく、政治の大きな流れの中で翻弄される個人の不幸と悲哀テーマにしながら、それでも国籍や民族にとらわれず個人と個人が意思を通じさせることで生まれる交流を温かく描いていた。
モチーフは似ているが、どちらもその目の付け所がいい。
2019年1月2日
今年の年始は奈良で
2018年12月31日
落成した興福寺中金堂
中央の釈迦如来像は別として、コンクリートの台の上に無造作(にしか見えない)に配置された何体かの菩薩像。展示の仕方とライティングのお粗末さが相まって、キッチュな感じしかしなかったのが残念。取り合えず落成しました、といったところか。
一方、その後で訪ねた新薬師寺はさすが。小さな寺ではあるが、本堂内部の雰囲気といい、ぐるりと輪を描いて配置された十二神将といい、見事だった。
こちらはデビューして55年
神奈川県内では、そこと川崎市アートセンターアルテリオ映像館の2館でしか上映していない。もっとも、都内でも有楽町、渋谷、池袋でそれぞれ1館で上映されているだけだ。
映画館の最寄りの地下鉄駅を降り、改札を出たところにある駅周辺地図の前に行くと70歳くらいの中年男性が3人ほど立っていたのでどいてくれるように頼んだら、「ジャック&ベティですか?」と聞かれた。なんでそこに行こうとしているのが分かったんだ? 自分たちも仲間が到着したらこれから行くのだとか。
クラプトンについては、ウィキペディアでは以下のような紹介がされている。
イングランド出身のミュージシャン、シンガーソングライター。 「スローハンド」と呼ばれるギターの名手として知られ、ソングライティングも優れた世界的なアーティスト。ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと並ぶ世界3大ロック・ギタリストの一人とされている。 『ロックの殿堂』を3度受賞。現在73歳。デビューして55年になる。
実の母親から捨てられ、孤独で屈折した少年時代にブルースに出会い、衝撃を受ける。その大きなきっかけは、B.B. キングの音楽だった。映画の冒頭で、クラプトンがカメラに向かって「もしまだブルースのことをよく知らなければ、私自身の出発点となったこのアルバムを探して聴いてほしい」と語りかける。2015年に亡くなったB.B.キングの死を悼む言葉である。そして映画は、ステージ上のB.B.キングが、そのステージの袖に立っているクラプトンへ向けて敬愛の言葉を語るシーンで終わる。
しかし、なぜブルースがまだ少年だったクラプトンの心を捉えたのか。彼はその理由を語らない。ただ見るものには、複雑な少年時代の家庭環境や学校での鬱屈した日々が背景にあったのだろうと想像させる。
1991年、彼は当時4歳だった愛息を亡くす。ニューヨークの53階のアパートの窓からの転落死である。失意の底にたたき落とされた彼だが、音楽がその痛みを和らげた。
映画の最後のナレーションだったと思うが、少年時代にブルースに出会い、ブルースに心奪われてギタリストの道に進まなかったら、彼は労働者階級の一人として祖父と同じレンガ職人か、父親と同じタイル職人になっていたかもしれないと語られていた。
ブルースに出会わなかったらどうなっていたかなんて誰にもわからない。ただ、心に強く響いたものを自らに引きつけ、成功するかどうかなんて考えずに没頭することしか偉大になる道はないことは確かだ。
そういえば今月は、音楽に関係のある映画として他に「アリー スター誕生」と「ボヘミアン・ラプソディー」を観たが、いずれも上出来の作品だった。
こちらはフィクションではあるが、愛する者の死を経験し、それを乗り越えることでアーティストとして成長していくというのは、レディ・ガガが主演して製作された4度目のリメイク版「スター誕生」の重要なモチーフでもある。
また死といえば、「ボヘミアン・ラプソディー」は、エイズが原因で1991年に亡くなったフレディ・マーキュリーと彼のバンド、クイーンの物語。
フレディを演じた主演のラミ・マレックが、好演している。入念に施されたメイクもあるのだろうが、フレディがそこにいるような感覚になった。最後、ライブエイドのステージングには興奮した。
2018年12月20日
岡林信康50周年コンサート
観客は60代以上の男性がほとんどだ。白髪、白髭、禿頭のオンパレードである。笑っちゃうよ、まったく。連れの女性に体を支えられて、何とかかんとか歩いているかつてのロッカーもちらほら。
コンサートは、岡林がステージに現れ、「どうも、沢田研二です。今日は満員じゃないけど、心を入れかえて歌います」と言ってまず一曲。いやはや、関西人である。
途中の休憩時間には、男性用のトイレからあふれた男たちの列がホールにもずらっと続いていて。初めて見た珍しい風景。
ゲストの予定だった山下洋輔がケガのため出演できなくなったのは残念だったけど、岡林がギター一本で歌う姿は懐かしく、中学生時代の自分がふっと頭に浮かんできて不思議な感覚だった。
2018年12月15日
日本は本当に出遅れたのか
また、現金で買い物した時におつりがよく間違っていたり、またごまかされたりするという。偽札が頻繁に出回っているため、おつりをもらった時には高額紙幣の場合それを光に透かして本物かどうか確認したりする必要もあるらしい。さらには、日本と比べて古い紙幣が中央銀行によって交換されないまま流通しているために、異常に汚れ、ヨレヨレで触るのも憚れるようなものが一般的にまだ用いられているという状況だ。
2018年12月14日
NHKもキャラクター商売
知らなかったが、この地下にNHKキャラクターショップなるものがあり、そこへ向かう行列だった。
http://www.nhk-character.com/chara/chico/images/chico_catalogue.pdf
並んでいたのは、いい年をした(失礼!)おじさんとおばさんがほとんどなのが、ちょっと意外。
チコちゃんとは、着ぐるみで顔の表情をCG加工したあの「ボーと生きてんじゃねーよ」と大人を叱咤する少女のキャラクターである。ボイスエクスチェンジャーで変換した独特の声が耳に残っている。
僕と同年代の男女が列をなしてキャラクターグッズの発売を待つほど人気とは知らなかった。
2018年12月13日
ソーセージパテは、オクラホマから
台車に積まれた段ボールが所在なげにおかれていて、それにふと目をやると、ソーセージパティ Manufacutured By Lopez Foods Inc. Oklahoma City と書いてあった。
マックは、食材をわざわざ北米から輸入してる。冷凍輸送しても、その方が安価なんだ。
2018年12月12日
横文字経営
EGSは環境、社会、ガバナンスのそれぞれの頭文字。SDGsは「持続可能な開発目標」と説明があり、CSVはCreatng Shared Value=共通価値の創造のことである。
今さらながらだが、書き手も読者もこうしたアルファベットを並べた文書を読んでどれほどの理解をしているのか疑問に感じる。
環境を考え、社会的にきちんと適応し、ガバナンスに沿った経営が求められていることは常識のレベルだ。
SDGsは、2015年の国連サミットで設定された17のゴール(目標)のこと。
大切なのは、そこで掲げられている個別の目標であり、その実現のための活動や施策だ。SDGsという<標語>ではなく。
Creating Shared Valueは、米国の有名な経営学者が唱えたことで日本企業の経営者の口にものぼることになった考えだが、これとて近江商人が持っていた「三方よし」の理念と本質的にどれだけ違うのか。
自らの足下すらよく見ず、舶来ものの考え方を即物的に有り難がる傾向は明治時代以来変わらぬの日本の伝統か。こうした言葉を軽々に振り回す人たちほど、何かというとイノベーション、イノベーションと五月蠅い。
2018年12月11日
没後50年の藤田嗣治展
今回は没後50年ということでの大回顧展とうたっており、100点以上の作品が展示されていた。
おかっぱ髪に丸眼鏡、ちょび髭の藤田は、その独特の風貌と画家として活躍したフランスでレオナール・フジタと呼ばれていたといったことから、繊細で女性的なパーソナリティだと勝手に思っていたのだが、今回の回顧展で知った藤田は明治半ばに生まれた極めて日本的で男性的な人物だと思った。
画家としては大変精力的で、フランスを中心にヨーロッパ、日本やアメリカ(ニューヨーク)、南米各国を旅しながら数多くの作品を制作していて、それらの土地の空気やそのときの時代性がキャンバスに描かれている。
藤田といえば女性の肖像と自画像というイメージがあったが、僕は彼が南米のペルーやボリビアで描いた現地の人たち、つまりインディオと呼ばれている人たちを描いたものがひときわ印象に残った。
2018年12月9日
2018年11月26日
Ghosn(ゴーン)has gone.
2018年11月25日
何十年ぶりかに聞いた「四当五落」
この記事を書いたのは、推測だけど、かなり年配で、かなり不勉強な日本人記者だろうね。今では誰も口にしないような言葉を(英文紙の読者だから分からないだろうとたがを括って)さも現代の日本人たちが使っているように書いているのは、われわれ日本人にもFTの読者にも失礼なこと。
僕の経験則からだけだけど、英国のメディアはこうした日本人のエキセントリックさを紹介する記事が大好きだ。それこそ、そんな日本人ってどこにいるの? そんなのいても10万人に一人いるかどうかといった、かなり奇妙で外れた日本人をもってしてあたかも今の日本人の一般像のように見せかけて表現することをやる。
読者がそうしたものを好むから、というのが最大の理由なのだろうけど。いまだに「日本人というのは奇妙でおかしな連中」と思いたがる英国人読者性向がその背景にある。そして、そうしたものが結果として国のイメージを形成していくのだ。いやはや。
2018年11月12日
秘密は秘密じゃない
2018年11月9日
2018年11月8日
前提が示されなければ、意味をなさない
しばしばニュースで「○○すれば、○○○億円の経済効果が期待できる」とか「○○する人は、全国に○○万人いるといわれる」といった記述を目にする。
その度、「ホントか?」と思う。そこに書かれていることが事実かどうか、あるいは推定上の数字だとしたら、その算定根拠をメディアは示してほしい。
例えば、2020年の東京五輪の経済効果は、報道によれば7〜32兆円となっている。また、2019年開催予定のラグビーワールドカップ東京大会の経済効果は4400億円と試算されている。
当然ながら、数字はいくらでも作ることが可能なので、大切なのはどういった前提が据えられているかを我々が知ること。そうでないと、それらを信頼することはできない。
問題なのは、根拠のわからない数字をそのまま記事に使っていたり、そもそも書き手が疑問に思っていないことーー。役所から配られた文章は正しいもの(あるいは文責は自分たちにはない)と考え、確かめることなく記事に載せる。
今年ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑先生は「教科書を信じるな」と記者会見で訴えていたが、今われわれに必要なのは裏付けのない数字や主張を容易に受け入れることなく、疑問を習慣的に持つ態度である。
メディアには数字の裏付けを取り、根拠を国民に示すことを求めたい。それができなければ、いずれれは戦中の「大本営発表」がそうだったように国民を欺き大きな過ちを招くことにもつながりかねない。
紙の新聞の場合、これまで紙幅の都合でデータの詳細や調査手法などを詳しく説明することはできなかったが、いまはネットで補足すればよい。紙の新聞の該当部分に<注番号>をふり、それをもとに読者がウェブ上で注釈として読めるようにすればいい。難しいことは何もない。
新聞社にとっては、そうすることで読者にウェブを訪ねてもらうよいきっかけにもなるし、読者のリテラシーも確実に向上する。
ぜひ実現して欲しい。主要紙のどこかがやり始めれば、他紙もそれに倣うようになるはずだから。
2018年11月7日
『華氏119』と中間選挙
ドキュメンタリー監督、マイケル・ムーアの最新作。11/9は、トランプが米国の大統領に選ばれた大統領選で勝利宣言をした2016年11月9日を指している。
なぜトランプが大統領選に出馬することになったか、どうしてほとんどの人がその時まで信じて疑わなかったヒラリー大統領が実現しなかったのか、民主党がどうやって変節を遂げるに至ったか、オバマが我々が知っているだけの姿ではないことなど、他国のことというのもあるが、いままで知らなかった米国政治の状況を知ることができた。
一言で言えば、共和党だけでなく、民主党も腐っているということ。民主党は、実は先の大統領選で負けるべくして負けたことが分かった。その間違いの源は、大御所と言われる古株の民主党の有力議員たちだった。
既得権を持った彼らには、イデオロギーよりも自らの利益誘導と保身が最優先されたからだ。これって、米国の話だけじゃないよな。
ただこの映画の中で詳細に、かつしつこい位に描かれているのは米国の若者、それも大学生ではなく高校生たち!の賢く勇気ある行動の数々。この点では彼我の違いにため息がでる。アメリカが凄いな、と思わされるのはこうした若者たちの姿を見るときだ。
明日には選挙結果の趨勢は決していることだろう。さて、どうなるか。とりわけ映画に出ていたNY州の候補、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスとミシガン州の候補、ラシダ・トリーブの結果が気になる。
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後記(11月7日)
コルテスさんもトリーブさんも当選したね。
http://www.afpbb.com/articles/-/3185455
https://www.mashupreporter.com/alexandria-ocasio-cortez-ny-primary/
2018年11月6日
失われた8年を取り戻せるか
昨日、早稲田大学の第17代総長に田中愛治教授が就任し、彼から「教職員のみなさんへ」と題する一斉メールが送られてきた。
当然ではあるが、やる気満々の様子で今後に期待している。彼は早稲田出身だが、早稲田で教授になる前に複数の他大学で働いてきた経歴を持っている。それがどうしたと言われそうだが、これまでの総長はいずれも早稲田大学の「純粋培養」だった。
つまり、早稲田大学で学部の課程を終え、そのまま同大学院の修士課程、博士課程へと進学し、その後覚えめでたく助手として採用されれば、あとは歳を経ることで専任講師、助教授(現准教授)、教授となってきた人たち。
18歳で大学に入学したとしたら、同じ組織のなかだけで(途中で留学とかしなければ)半世紀近く生きてきた人たちということになる。それってどうなんだろう・・・? 他所のメシを食ったことがなければ、自分が食べているメシの味を相対化することは難しい。
そうしたなか、彼は他のいくつか大学での研究と教育の経験を経て早稲田に戻ってきた人物だけに、これまでの総長とは違う判断ができることを期待している。
前総長の8年間は、まるで時間が止まっていたようだった。20年後を想定して「Waseda Vision 150」とやらを学内の多くの資源を投入して策定させたが、それだけのように思える。
詳細な長期計画を作るのはいいが、企業でもコンサル会社に大金払って気の利いた長期計画書を作成してもらい、それで何か将来の業績が約束されたかのような気分になっている経営者が多いのを思い出す。
組織として守り信じる基本的理念を徹底しさえすれば、あとは環境に柔軟かつ先行的に適応することの方が、定型的な長期計画をシコシコ作って満足するよりよほど大切だと思う。
失った8年を彼がどうやって取り戻すかが、大学のこれからの明暗を分ける。