2018年12月12日

横文字経営

ある新聞社系ビジネス雑誌の記事。その最初のページに、EGS、SDGs、CSVという文字が躍っていた。サステナブル経営がその記事のテーマだ。

EGSは環境、社会、ガバナンスのそれぞれの頭文字。SDGsは「持続可能な開発目標」と説明があり、CSVはCreatng Shared Value=共通価値の創造のことである。

今さらながらだが、書き手も読者もこうしたアルファベットを並べた文書を読んでどれほどの理解をしているのか疑問に感じる。

環境を考え、社会的にきちんと適応し、ガバナンスに沿った経営が求められていることは常識のレベルだ。

SDGsは、2015年の国連サミットで設定された17のゴール(目標)のこと。


大切なのは、そこで掲げられている個別の目標であり、その実現のための活動や施策だ。SDGsという<標語>ではなく。

Creating Shared Valueは、米国の有名な経営学者が唱えたことで日本企業の経営者の口にものぼることになった考えだが、これとて近江商人が持っていた「三方よし」の理念と本質的にどれだけ違うのか。

自らの足下すらよく見ず、舶来ものの考え方を即物的に有り難がる傾向は明治時代以来変わらぬの日本の伝統か。こうした言葉を軽々に振り回す人たちほど、何かというとイノベーション、イノベーションと五月蠅い。

2018年12月11日

没後50年の藤田嗣治展

この夏に東京(東京都美術館)で見逃した藤田嗣治展を、やっと京都(京都国立近代美術館)で見てきた。こちらも来週末で終わりだ。


今回は没後50年ということでの大回顧展とうたっており、100点以上の作品が展示されていた。

おかっぱ髪に丸眼鏡、ちょび髭の藤田は、その独特の風貌と画家として活躍したフランスでレオナール・フジタと呼ばれていたといったことから、繊細で女性的なパーソナリティだと勝手に思っていたのだが、今回の回顧展で知った藤田は明治半ばに生まれた極めて日本的で男性的な人物だと思った。

画家としては大変精力的で、フランスを中心にヨーロッパ、日本やアメリカ(ニューヨーク)、南米各国を旅しながら数多くの作品を制作していて、それらの土地の空気やそのときの時代性がキャンバスに描かれている。

藤田といえば女性の肖像と自画像というイメージがあったが、僕は彼が南米のペルーやボリビアで描いた現地の人たち、つまりインディオと呼ばれている人たちを描いたものがひときわ印象に残った。


2018年12月9日

嵯峨野の紅葉

京都にはまだ紅葉が残っていると聞いて、週末の嵯峨野へ。嵐山駅から北へ散策し祇王寺を訪れた。



2018年11月26日

Ghosn(ゴーン)has gone.

これまでの在任中に好き勝手放題、し放題で私腹を肥やし、社会と社内を欺き通してきた日産自動車の会長だったカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)が解任された。ゴーンがついに行っちゃったわけだ。

経営学者やビジネススクールはゴーンが好きだ。苦境に陥っていた世界的な自動車会社・日産を立て直した経営者として名が知られているからという理由。コストカッターと呼ばれてもひるまず、工場を畳み、社員を解雇し、取引先を大胆に整理していった。

企業における優れた改革の実例としてこれまでも頻繁に語られ、多くのビジネスケースにもなっている。企業人を対象にしたセミナーでも、彼がスピーカーとして登壇するとなると集客効果も絶大だ。

それまでの日産の日本人経営者たちには頭では必要性が分かっていてもできなかったことを彼がやった功績は大きい。非日本人のゴーンだったからこそ、日産という企業に情緒的な繋がりを感じることなく、目的合理性だけで意思決定ができた。また彼は、仏ルノーから送り込まれていた立て直し屋だから、日産内でどう思われようが関係なく、ルノー内で「よくやっている」との評価が得られればよいとの割り切りもあったはず。

ハロー効果というのがある。ハローというのは後光の意味であり、その光に目がくらみ実態を見失わせてしまうことを表す。彼はどこどこ大学を出ているから、、、彼女のお父さんは誰々さんだから、、、あの人はどこそこの企業の部長さんをやっていたから、、、だから立派なひとに違いない、と勝手にある特定の状況や視点から全体を光り輝くものと勘違いし、本質を見間違えてしまう。

早稲田大学は2005年、彼に対して「日本企業の経営者に勇気を与え、日本経済の復活に大きな貢献をした」として名誉博士号を授与した。これまでに名誉博士号を授与したのは、アジア初のノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センら142人。そのなかで逮捕者がでたのは、今回が初めてだ。大学は今後、学位を剥奪するのだろうか。

2018年11月25日

何十年ぶりかに聞いた「四当五落」

今朝のファイナンシャルタイムズ(FT)の記事。冒頭で、日本の生徒たちは入学試験の準備のために伝統的に「四当五落」の信条(credo)に沿って生きるように諭されている、としている。


yontougoraku と綴られ、"sleep four hours , pass; sleep five hours, fail" と説明が付いている。いつの話をしてるのだろう。

今の受験生や親たちが、いまだにそんなこと考えてるとは思えない。僕が受験生だった頃(大昔)にはそうした話も聞いたことがあるけど。受験地獄なんて言葉がマスコミにまだ踊ってた頃だと記憶している。だが今では死語。まともな受験生や親は、そんな非科学的な信条(credo)など信じない。

この記事を書いたのは、推測だけど、かなり年配で、かなり不勉強な日本人記者だろうね。今では誰も口にしないような言葉を(英文紙の読者だから分からないだろうとたがを括って)さも現代の日本人たちが使っているように書いているのは、われわれ日本人にもFTの読者にも失礼なこと。

僕の経験則からだけだけど、英国のメディアはこうした日本人のエキセントリックさを紹介する記事が大好きだ。それこそ、そんな日本人ってどこにいるの? そんなのいても10万人に一人いるかどうかといった、かなり奇妙で外れた日本人をもってしてあたかも今の日本人の一般像のように見せかけて表現することをやる。

読者がそうしたものを好むから、というのが最大の理由なのだろうけど。いまだに「日本人というのは奇妙でおかしな連中」と思いたがる英国人読者性向がその背景にある。そして、そうしたものが結果として国のイメージを形成していくのだ。いやはや。

2018年11月12日

秘密は秘密じゃない

仕事柄、企業の人から事業の内容について話をうかがうことが多い。話していて熱がこもってくると、彼らの口から「ここだけの話ですけどね・・・」といった話が時折飛び出してくる。
それらには色々と面白い話があったりするが、そのうち「今のことは他に話さないでくださいね、会社の秘密ですから」というところに落ち着くことが多い。
もちろんそうしたときは「大丈夫ですよ、口外はしませんから」と申し上げる。これは気休めでもなんでもなく、相手が話して欲しくないことを他に話すことはしないのは当然のこと。
だが、彼らと別れた後でふと思うことに、彼らが言った秘密情報というのは本当に秘密にすべきことなのか考えさせられることがある。本人たちにとっては、外には決して漏れてはいけない大事な情報なのかもしれないが、社会常識からすれば取り立てて大騒ぎするほどの情報というわけでもない。
むしろ、そうした話をオープンにしてそこから何か話を他者につなげていくことで新たなビジネスチャンスを見つけたり、新規顧客に出会える可能性を手にすることができる。
そうした考え方をした方がいいと思うのだけれども、とかく日本の企業は僕から見れば大して秘密でもないことも「これは秘密だから決して外に漏らしていけない」とあまりにも厳密に考えすぎるきらいがあるような気がする。
どの企業にも機密情報はあるし、外に漏らしてはいけない話があるのは承知してるが、あまりにも何でもかんでも秘密にするがために発想が縮こまり、オープンなイノベーションを阻害している場合も多い。

境界線の見極めが微妙なところはあるけど、オープンにしていい情報はむしろ早く、そして広くオープンにすることで、いろんな新しい展開を生むきっかけになるはず。

日本の企業に欠けているのは、そうした判断力と思い切りの良さと軽やかな精神じゃないだろうか。

2018年11月9日

のら一匹

西早稲田2丁目、教龍寺近くでみかけた路地裏の野良猫。このあたりは表通りからちょっと離れ、人通りもそれほど多くなく、地域の猫ボランティアが交替で餌をやっているみたいだ。

2018年11月8日

前提が示されなければ、意味をなさない

先日の新聞に「副業、兼業を含めた広義のフリーランスは日本に1,119万人いるといわれ、労働力人口の17%にあたる」とあった。

しばしばニュースで「○○すれば、○○○億円の経済効果が期待できる」とか「○○する人は、全国に○○万人いるといわれる」といった記述を目にする。

その度、「ホントか?」と思う。そこに書かれていることが事実かどうか、あるいは推定上の数字だとしたら、その算定根拠をメディアは示してほしい。

例えば、2020年の東京五輪の経済効果は、報道によれば7〜32兆円となっている。また、2019年開催予定のラグビーワールドカップ東京大会の経済効果は4400億円と試算されている。

当然ながら、数字はいくらでも作ることが可能なので、大切なのはどういった前提が据えられているかを我々が知ること。そうでないと、それらを信頼することはできない。

問題なのは、根拠のわからない数字をそのまま記事に使っていたり、そもそも書き手が疑問に思っていないことーー。役所から配られた文章は正しいもの(あるいは文責は自分たちにはない)と考え、確かめることなく記事に載せる。
 
記者として何か書かなきゃいけないから、取りあえず使えそうな数字を引用して仕上げて・・・ということかもしれない。

今年ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑先生は「教科書を信じるな」と記者会見で訴えていたが、今われわれに必要なのは裏付けのない数字や主張を容易に受け入れることなく、疑問を習慣的に持つ態度である。

メディアには数字の裏付けを取り、根拠を国民に示すことを求めたい。それができなければ、いずれれは戦中の「大本営発表」がそうだったように国民を欺き大きな過ちを招くことにもつながりかねない。

紙の新聞の場合、これまで紙幅の都合でデータの詳細や調査手法などを詳しく説明することはできなかったが、いまはネットで補足すればよい。紙の新聞の該当部分に<注番号>をふり、それをもとに読者がウェブ上で注釈として読めるようにすればいい。難しいことは何もない。

新聞社にとっては、そうすることで読者にウェブを訪ねてもらうよいきっかけにもなるし、読者のリテラシーも確実に向上する。

ぜひ実現して欲しい。主要紙のどこかがやり始めれば、他紙もそれに倣うようになるはずだから。

2018年11月7日

『華氏119』と中間選挙

11月の第1火曜日だから、きょう米国では中間選挙の投票が行われているはず。どうなるか結果を気にしていてもしかたないので、レイトショーで映画『華氏119』を観に行った。


ドキュメンタリー監督、マイケル・ムーアの最新作。11/9は、トランプが米国の大統領に選ばれた大統領選で勝利宣言をした2016年11月9日を指している。

なぜトランプが大統領選に出馬することになったか、どうしてほとんどの人がその時まで信じて疑わなかったヒラリー大統領が実現しなかったのか、民主党がどうやって変節を遂げるに至ったか、オバマが我々が知っているだけの姿ではないことなど、他国のことというのもあるが、いままで知らなかった米国政治の状況を知ることができた。

一言で言えば、共和党だけでなく、民主党も腐っているということ。民主党は、実は先の大統領選で負けるべくして負けたことが分かった。その間違いの源は、大御所と言われる古株の民主党の有力議員たちだった。

既得権を持った彼らには、イデオロギーよりも自らの利益誘導と保身が最優先されたからだ。これって、米国の話だけじゃないよな。

ただこの映画の中で詳細に、かつしつこい位に描かれているのは米国の若者、それも大学生ではなく高校生たち!の賢く勇気ある行動の数々。この点では彼我の違いにため息がでる。アメリカが凄いな、と思わされるのはこうした若者たちの姿を見るときだ。

明日には選挙結果の趨勢は決していることだろう。さて、どうなるか。とりわけ映画に出ていたNY州の候補、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスとミシガン州の候補、ラシダ・トリーブの結果が気になる。

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後記(11月7日)

コルテスさんもトリーブさんも当選したね。
http://www.afpbb.com/articles/-/3185455
https://www.mashupreporter.com/alexandria-ocasio-cortez-ny-primary/

2018年11月6日

失われた8年を取り戻せるか

昨日、早稲田大学の第17代総長に田中愛治教授が就任し、彼から「教職員のみなさんへ」と題する一斉メールが送られてきた。

当然ではあるが、やる気満々の様子で今後に期待している。彼は早稲田出身だが、早稲田で教授になる前に複数の他大学で働いてきた経歴を持っている。それがどうしたと言われそうだが、これまでの総長はいずれも早稲田大学の「純粋培養」だった。

つまり、早稲田大学で学部の課程を終え、そのまま同大学院の修士課程、博士課程へと進学し、その後覚えめでたく助手として採用されれば、あとは歳を経ることで専任講師、助教授(現准教授)、教授となってきた人たち。

18歳で大学に入学したとしたら、同じ組織のなかだけで(途中で留学とかしなければ)半世紀近く生きてきた人たちということになる。それってどうなんだろう・・・? 他所のメシを食ったことがなければ、自分が食べているメシの味を相対化することは難しい。

そうしたなか、彼は他のいくつか大学での研究と教育の経験を経て早稲田に戻ってきた人物だけに、これまでの総長とは違う判断ができることを期待している。

前総長の8年間は、まるで時間が止まっていたようだった。20年後を想定して「Waseda Vision 150」とやらを学内の多くの資源を投入して策定させたが、それだけのように思える。

詳細な長期計画を作るのはいいが、企業でもコンサル会社に大金払って気の利いた長期計画書を作成してもらい、それで何か将来の業績が約束されたかのような気分になっている経営者が多いのを思い出す。

組織として守り信じる基本的理念を徹底しさえすれば、あとは環境に柔軟かつ先行的に適応することの方が、定型的な長期計画をシコシコ作って満足するよりよほど大切だと思う。

失った8年を彼がどうやって取り戻すかが、大学のこれからの明暗を分ける。

2018年11月5日

村上春樹の記者会見

11月4日、作家の村上春樹が早稲田大学での記者会見に出席して、自分の原稿や蔵書、世界各国で翻訳された著作や2万点近いレコードコレクションなどの資料を大学に寄贈すると発表した。
彼が国内で記者会見するのは37年ぶりらしい。大学は資料を活用して国際的な研究センター「村上ライブラリー」の設置を検討しているという。 
大学の本部キャンパスにある演劇博物館に近くにそのセンターは造られるらしい。村上が自分の学生時代を振り返り、授業にはあまり出なかったが、演劇博物館で古いシナリオを夢中で読んでいたと語っていたのが印象に残る。
演劇博物館は研究室から近いこともあり、気が向いたときにぶらっと立ち寄ったりするが、イベントなんかがないときは実に閑散としている。早稲田大学が誇る、数少ない貴重な場所なのに。これを機に、若い人たちがこちらにももっと足を運ぶようになるといい。
ところで、報道で公開された写真で村上と早大総長の鎌田教授が並ぶ写真が写っていたが、現総長は4日で退任する。翌日の5日からは新しい総長がその任に着く。そのギリギリのタイミングで大学が村上春樹の記者会見を早稲田大学で開いたというのはなんともニクイというか、無理矢理という感じ。
なんだか彼(村上)もすっかり歳をとった感じだなあ

2018年11月4日

思考の芸術

上野の東京国立博物館で「マルセル・デュシャンと日本美術」と題した展覧会が開催されている。デュシャンは20世紀の美術に多大な営業を与えたフランス出身の美術家。



男性用小便器を「泉」と題した芸術作品と定義したことで有名だが、この作品の原題 Fountain は日本語では泉より噴水とした方がイメージがわくと個人的には思うのだが、どうだろう。


僕は大学のマーケティング授業のなかでポジショニングについて学生に説明するとき、実体を変えずにそのものの位置づけや意味を変えた一つの例として彼のこの作品を紹介することがある。

デュシャンはそこに描かれた表現よりも、それが帯びている意味や思考、解釈を芸術の根幹と捉え、すこぶる自由にアーティストとしての活動を行った。

やがては絵画制作を放棄し、大量生産品から彼が選んだものを「レディメイド」という名で作品化するにいたるーーただし、今回の展覧会には彼の初期の絵画作品も十数点飾られていたが、それらはどれも技巧的に優れたものだった。

キャンベル・スープの缶のデザインをモチーフとして取り上げたアンディ・ウォーホルは、デュシャンの価値の転換を換骨奪胎したことに気づく。

2018年11月3日

夜明けまえ

タイムラプスで月を撮ってみた。
夜明け前の空の色がきれいだ。


2018年11月2日

地上350メートルからの眺め

今日は大学が学園祭で全校休業ということもあり、 秋らしい晴れ渡った青空に誘われて浅草までやって来た。


スカイツリーを今日初めて訪れた。2012年春のオープンだから、もう6年以上が過ぎている。いつでも行ける、はいつまでたっても行かない、の典型的な例だ。

展望デッキは地上350メートル。そこへ昇るエレベータの速度と、それを感じさせない制御技術は素晴らしい。東芝製のエレベータだった。

平日にもかかわらず賑わう展望デッキ
荒川に向かって伸びるスカイツリーとイーストタワーの影を展望デッキから撮影

帰りは吾妻橋近くの神谷バーに寄ったあと浅草鷲神社の酉の市へ向かう。凄い人混みである。


2018年10月28日

更待月

きょうの月は、月齢19.43。この頃の月を更待月(ふけまちづき)と呼ぶ。月が出てくるのが遅く、夜も更けて出てくるところからそう名づけられている。こうした月の呼び名には風情を感じる。


2018年10月25日

十五夜の月

空を見上げると見事な満月が。ふとその写真を撮りたくなり、急いで駅前のカメラ屋へ走り一眼レフを買ってきた。

最初に撮った一枚が次の写真だ。2420万画素あれば、月面のクレーターの凸凹もこれだけ写る。

満月の月は神秘的で本当にきれいだ。これまでも数えられないほど見ているにもかかわらず、眺めていて飽きない。


2018年10月24日

カメラに映った映像は美しかった

3年に一度、大腸の内視鏡検査を受けている。今年はその年で、今日がその日だった。

昨日から朝・昼・晩と前もって病院から送られた検査食で済ませ、今朝は水を一杯飲んで病院へ向かった。

朝8時15分に受付を済ませ、検査着に着替え、看護師から説明を受ける。渡されたのは下剤を溶かした2リットルの水を1時間半ほどかけて飲み、大腸の中を空っぽにする。マズイ。何かもう少し味を付けてくれると助かるのだが、製造している製薬会社も利用している医師もそんなことはお構いなしのようであう。

結局2時間ほど病院の待合室で例の検査薬を飲みながらウロウロして、やっと内視鏡検査の段になった。

ここから先は検査状況の詳細の説明は省略するが、検査で用いられた内視鏡は素晴らしいものだった。水を出す管と水を吸引する管が一本のカメラスコープに埋め込まれている。そのお陰で、カメラがなめらかに腸内を進み、しかも余分な水を即時に取り除くことができる。

その内視鏡は日本のオリンパス製だ。「高いんですよ、これ。だから大切に扱っているんです」と看護師の方が教えてくれた。

確かに検査台に横になって、自分の腸内をカメラが次々とモニターに映し出す映像を見ることができるのだが、その映像の鮮やかなことに驚く。人体の美しさに感動すらする。

検査をしたのは妙齢の女医だった。手慣れたもので、思い切りもいい。じゃないと、務まらない仕事だ。

検査の後その結果を聞くとき、やはりしなきゃと思った質問は、今年イグノーベル賞を取った日本人医師のアイデアについてだ。

長野県駒ヶ根市にある昭和伊南総合病院で内科診療部長をつとめる堀内朗氏が「座位で行う大腸内視鏡検査―自ら試して分かった教訓」という研究で「イグノーベル医学教育賞」を受賞したニュースだ。


上記の映像の45分あたりで堀内氏の受賞風景がある。生真面目な医師・研究者としての側面がうかがえて微笑ましく、かつ笑える。

大腸の検査してくれた女医さんに興味半分で「あれって、将来的にはありですかね?」と聞いてみたら、「いやあ、あの先生は変わっているだけだから・・・」と笑ってかわされた。


2018年10月21日

劇場ひとりじめ

日曜日の夜、レイトショーで映画「イコライザー2」を観た。デンゼル・ワシントン主演のサスペンス・アクションである。先月、学会からの帰りの帰国便でたまたま第1弾の「イコライザー」を見て面白かったこともあり、劇場に足を運んだ。

Equalizerを辞書で引いてみると「すべての人を平等にする人(もの)」と言う意味と「銃や武器のくだけた表現」と書いてある。ダブル・ミーニングであり、この映画をよく示している。

見終わって頭に浮かんだのは、緒形拳が藤枝梅安を演じた「必殺仕掛人」。舞台を現代のアメリカに置き換えるとこうなるという感じだ。

日曜日の夜ということもあるのか、劇場が7つ収められたシネマ・コンプレックスのなかで客席数が337席のもっとも大きな劇場での上映にもかかわらず、劇場にいた観客はぼくひとり。こんなに面白い映画なのに。


2018年10月16日

原因と結果との因果関係をしっかり辿るのが先だ

今朝の新聞一面の見出しに「レジ袋、コンビニも有料に 環境省が義務化方針」とする記事があった。

「環境省は小売店で配布されるレジ袋について有料化を義務付ける方針を固めた」で始まる記事によると、対象はスーパとコンビニでレジ袋1枚につき数円の支払いを店頭で消費者に義務づけるらしい。

肝心の目的に関しては、記事は次のように紹介している。「海に流出した廃プラスチックの環境問題が深刻になるなか、レジ袋を減らし汚染防止につなげる」と。

つまり、「レジ袋の有料化 → 使用量の減少 → 海への流出の減少」という図式が環境省のあたまにある。

目的がプラスチックによる海洋汚染の防止ならば、もっと集中的に力を入れるポイントは別にあるはず。海洋投棄をどう防ぐかがカギであって、コンビニやスーパーの店頭でレジ袋で金をとるかどうかはどう考えても副次的な話だ。

海岸や河川などからゴミとしてビニール袋が海に流れ出てしまうのは、個人のマナーの問題である。またゴミ箱を必要に応じて設置しない、それをきちんと管理しない行政の責任も大きい。 それ以外にも流れ出る「ルート」があるかもしれないが、それが何なのかまずはトラッキングしてみる必要がある。

いずれにせよ、店頭で金を取るにしても、それは店が判断すること。役所が義務化することではない。企業はそうした押しつけに対しては、業界で反発すればいい。

国の狙いは、例えば2円のレジ袋ならそのうち1円を海洋汚染対策税かなにかの名目で召し上げようと考えているのでは。

ところで記事では、国内で消費されるレジ袋は450億枚程度と推定されるとしている。いつのことか、またその期間が書かれていない。1年間なら人口一人当たり360枚になるが・・・。 

疑問に思い、ここで新聞社に電話。交換台から読者センターに回され、問い合わせの内容を伝えたところ担当の男性がしばらくネットで検索している雰囲気が伝わってきたのち「分かりません。書かれている以上のことは知りません」と回答。ビックリ! 

記事のなかに期間が記載されていないので問い合わせているのだと伝えたら「環境省に聞いてください」って言うし、環境省のリリースをもとに書かれた記事なんですねと尋ねると、「それを書き写して何が悪いんですか」と喧嘩を売られた。挙げ句の果てに電話を一方的に切られた。日経新聞東京本社。

ここまで常軌を逸した対応も珍しい。もう一度題字下に書かれている代表番号に電話し、記事について問い合わせしたら分からないと言われ電話を切られた旨を伝えた。読者センターの別の担当者(今度もまた年配の男性)が恐縮して電話口に出てきた。先ほどの対応時の状況を伝えたら、なにやら受話器の向こうで不穏な雰囲気が流れているのが分かった。常習者がいるのだろう。結局、「申し訳ありませんでした。よく指導しておきますので」と言われ会話を終えた。

もとは記者か何かだったのが、今は肩書きを外され読者センターに回され腐ってしまった一例にあたったようだ。

2018年9月23日

大学院生は、まず学ぶことを学んで欲しい

まもなく後期の授業が始まる。それに先だって、大学から前期授業の学生アンケートの結果が送られてきた。

今回もだが、僕の授業への学生の評価は双耳峰形だ。つまりピークが2つある。気に入ってくれる集団がいる一方で、気に入らなかったというもう一つの集団のコブがある。

マーケティングのような分野は、すでに仕事で担当者として携わっている人たちにとっては馴染みがある一方で、例えばビジネススクールのファイナンス専攻に入学してきたような学生たちにとっては馴染みもなければ、さほど関心のない領域である。また、知識や経験と同じくらいセンス(ビジネスマンとしての、また消費者としてのセンス)に左右される特徴もある。

クラスの全員を満遍なく満足させる授業という芸当ははなから無理と考えているので、ターゲティングが必要になる。僕の授業クラス内でのターゲットのイメージは、横軸にマーケティングの知識や習熟度、縦軸にその人数をとったときに描かれるだろう正規分布のカーブの右半分である。それがパレート的に最適だと考えているから。

毎回のクラスは、ケースメソッドによる討議型授業を中心にしている。最初の授業でマーケティングの概要について説明した後は、指定教科書は自分で読み進めるように毎回の授業テーマとそれに対応する教科書の章をリーディングリストとして渡しておく。

マーケティングのテキストには難しい数式があるわけでもなく、哲学書のような難度の高い論理展開があるわけでもない。普通の社会人なら読めば書かれている理屈は分かるはずだとの前提に立っている。

もちろん読んで分からないところがあれば遠慮なく質問するように伝えてあるが、教科書の内容に関して質問を受けたことは一度もない。

ところが授業後のアンケートを読むと、例年自由回答欄には教科書に沿ってマーケティング理論の説明をしっかりして欲しかった、というのが何通もある。だいたいどういった学生(大学院生)かその年のクラスの顔ぶれで分かるのだが、大学1年生ではないのだから自分がどう勉強するかは自分で学ばないとね。


社会人大学生がお客さん気分いっぱいで、何でもすぐ消化できるようにかみ砕いて教えてくれなきゃイヤ、とばかりにぐずっているようにすら感じる時がある。一流のビジネスマンは、自らが学ぶことを学ぶ、いわばメタ・ラーニングができることが必須である。

燧ヶ岳双耳峰