2016年6月6日

政治家の奇妙なバイオリズムについて

前経済再生大臣の甘利氏が政治活動を再開した。

現金授受問題で閣僚を辞任して、その直後から睡眠障害を理由にして国会を4ヵ月以上にわたって欠席していた。病気療養が理由である。

そして、あっせん利得罪の疑いで告発されていたのが5月31日に不起訴処分(嫌疑不十分)になったと思ったら、今回の突然の復帰だ。

主治医がどう言ったとかこう言ったとか、僕は知らないし、その健康状態の真偽の程についても語るべきものはない。

ただ、彼の発言を信じるとしても、政治的状況と健康状態がシンクロしてしまうようなひ弱な人物に、われわれは国の進路を任せる訳にはいかないと思うのだ。

2016年6月4日

英語とこれからどう付き合うか

先週と今週の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)のゲストは、『本物の英語力』(講談社現代新書)の著者、鳥飼玖美子さん。


「英語格差」という言葉をめぐる話から始まって、ではそうしたことをどうやって解消するかという話へ。鳥飼さんの問題解決へのアドバイスは明快だ。それは、「英語を勉強すればいいのです」と。

結局は勉強することで乗り越えるしかないというのが、彼女の考え。多くの英語嫌いの人にとっては、ある種身も蓋もないアドバイスではあるが、真実である。

だが、彼女が主張する英語勉強は、決して英語ネイティブ同様のレベルを目指すものでない。自分の目的に沿った力をつけること、発音はハチャメチャと完璧の間を狙うなど実践的なアドバイスも数々うかがうことができた。

また彼女の長年の経験から、人に耳を傾けてもらえる英語とは、決して英語が流暢にしゃべれるというものではなく、むしろたどたどしくても中身が豊かなものであるという指摘にも頷かされた。

ちょっと意外だったのは、日本人は外国の地で一人だとけっこう頑張って英語でコミュニケーションを取ろうとするし、それなりにやっているという話。

ところが、周りに日本人がいるとそのために萎縮してしまい話ができなくなるとのこと。日本人同士で牽制したり、足の引っ張り合いをするらしい。

英語コミュニケーションの能力というより、日本人特有のマインドセットの問題という気がした。


先週と今週の選曲は、それぞれブレッド「Make It with You」とジャーニー「Open Arms」でした。

5月28日放送分選曲

6月4日放送分選曲

ラジオ番組はこちらから
https://youtu.be/xyqaA8D4seE
https://youtu.be/zkU3lUsYPOM

2016年6月2日

最新の聴取率調査から

最新の聴取率調査(在京の12局対象、ビデオリサーチ調べ)で、「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)がまたまたM1F1層(20〜34歳男女)で第1位になった。M2F2層(35〜49歳男女)では、第2位。とりわけ、30歳台の男性層では 他局を寄せつけない断トツ1位のレーティングだった。

週末の朝の番組にしては結構かたい内容なのだけど、狙った(聞いて欲しい)人たちが聴いてくれているようでひと安心。

2016年5月21日

交換日記で新入社員を育てる

今日のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、ダイヤ精機(株)社長の諏訪貴子さん。12年前に同社の創業者であるお父さんが急逝され、その後社業を引っ張っている若き肝っ玉かあさんだ。


 先週、今週と彼女が書かれた『ザ・町工場』をもとにお話をうかがった。


町工場が、自分たちが期待する若い社員を獲得するのは大変だ。そして入社してきた彼らを育てるのと同様に、彼らの先輩社員がしっかりそうした若手に目をむけて育ててくれるようにするのも容易なことではない。

諏訪さんが考えたひとつの方策が、交換日記。入社してからひと月ほど、毎日その日のことを日記に書かせる。その日記は、教育役の先輩社員だけでなく、副工場長と社長の諏訪さんも目を通し、必要に応じてコメントを書き足す。

いまどき実にアナログな手法であるが、手書きの文字からは書かれた内容だけでなく、その字の乱れなどから若い社員が悩んでいる様子を感じて手遅れになる前に手をうつこともあるという。また、書き方、ノートの使い方、文字の大きさから彼らのコミュニケーション能力なども知ることができる。なんだか小学生時代に、作文に赤ペンを入れて返してくれた先生がいたのを思い出したりした。

今週と先週の選曲は、オーリアンズの「Dance with Me」とジャクソン5「I'll Be There」でした。



2016年5月12日

数字が僕を歩かせる

出かける時には、ズボンのポケットに fitbit One という運動量計を入れることが習慣になっている。歩行数、階段の昇降数、歩行距離、消費カロリーなどが記録される。

ただ、時々うっかり持って出るのを忘れる。住んでるマンションの建物を出るとき、ポケットの中を確認する。ちゃんと入っていれば、左へ。最寄り駅のひとつ先の駅に向かう方向だ。だけど、ポケットに入れ忘れたときは、右へ。最寄り駅へ自然と、自然でもないが、足が進む。

違うのは、その日の歩行記録が取れるかどうかだけ。それが励みになる。数字が後押ししている。



2016年5月11日

パナマ文書の日本人

パナマ文書の情報が公開された。21カ国・地域のタックスヘイブン(租税回避地)に設立されたペーパーカンパニーに、どこから金が向かっていたかという実態を示したものだ。

そうしたペーパーカンパニーの中には、日本の個人や法人も含まれている。金持ち国日本だから、別に不思議じゃない。

だけど、頭をひねってしまうのは、パナマ文書で名前が出た人物がメディアのインタビューに答えて、「租税回避が目的ではない」と回答していること。租税回避が目的でなくて、何のためにタックスヘイブンに会社を設立したのか。

あり得ない話だが、もし僕が数十億円の資産を持っていたとしたら、どうやってタックスヘイブンに資産を移せるか知ろうとするだろう。

喩えが卑小だが、ストリップ劇場に入ってる客が、「女の裸を見るのが目的ではない」と言い放っているようなもの。

(後日追記)
使ったことがないので(当たり前か)よく知らなかったが、タックスヘイブンの使用目的としては租税回避だけでなく、身元を隠して法人を設置できる特性を利用するものがある。例えば、財産の隠匿や資金洗浄(マネーロンダリング)だそうだ。

2016年5月8日

猫を助ける仕事

先週と今週末の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5) は、NPO法人東京キャットガーディアン代表の山本葉子さんをゲストにお招きし、『猫を助ける仕事』(光文社新書)をもとにお話をうかがった。

猫にまつわる彼女の仕事は多彩だ。ベースは、保護猫を預かり新しい飼い主を見つけるための保護猫カフェ。その発想を展開して実現させた猫付きマンション、猫付きシェアハウスなど。

賃貸マンションに入居しようと思ったら、先に猫がいるとは傑作である。それらの猫はもとはといえば保護された猫たちで、いわばレンタルである。だが、一緒に暮らせば情が移るというもの。やがて預かっていた住人たちがそのニャンコらを引き取ってくれるケースも多いという。

猫付きシェアハウスは、猫がいわば備品としてそこに備わっている感じのシェアハウスだ。猫好きにはたまらないだろう。

傾向としては減少しているものの、日本では今も多くの猫や犬が捕らえられ、行政によって殺処分されている。もちろん行政もそうした役割はまったく不本意に違いない。特に保健所のその担当者については、とても気の毒としか言いようがない。

環境省が発表している数値だが、猫の殺処分数は2011年が13万匹、12年12万匹、13年11万匹、14年8万匹となっている。同統計で犬は、2011年が4万匹、12年4万匹、13年3万匹、14年2万匹と示されている。早くこれらがゼロになって欲しい。


番組内でかけた曲は、カーペンターズ「動物と子どもたちの詩」とトッド・ラングレンの「 I Saw the Light」でした。



2016年5月2日

慣れと関心

以前は裁判所の傍聴席でメモを取ることが禁止されていたことを、朝刊の一面コラムを読んで知った。「メモを取れば公正で静かであるべき裁判の進行の妨げとなる」というのが、長年にわたる裁判所の理屈であるというから驚く。

傍聴席で手帳やノートにメモを取るのがなぜ裁判の妨げになるのか・・・。紙にペンを滑らす音が裁判の妨げになる騒音を生むのか・・・。禁止できることは何でも禁止しておこうという「役人根性」である。

それに異を唱え、国を訴えたのはアメリカ人弁護士だった。傍聴席でメモを取ることをゆるされなかったことから裁判を起こしたのである。その裁判の結果、最高裁は1989年に「メモは原則自由」との判決を出した。しかし、またここで驚くのは、その最高裁に行くまで一審、二審とも敗訴したことである。

それにしても、なぜアメリカ人弁護士だったのか。日本人の法曹関係者はなぜ行動を起こさなかったのか。「変だ」となぜ思わなかったのか。もしそう思ったことがあるとしたら、なぜ放置したのか。

先日観た映画「スポットライト 世紀のスクープ」は、アメリカ東部の新聞、ボストングローブ紙の取材チームが教会権力の腐敗を2001年夏から2002年1月まで追ったストーリーだった。

同紙の特集記事欄「スポットライト」担当の4名の記者が地元ボストンの数十人もの神父による児童への性的虐待の実態と、カトリック教会の組織ぐるみの長年にわたる隠蔽工作を紙面で暴いた実話が元になっている。 

「スポットライト 世紀のスクープ」(2015)

ボストン・グローブでのスクープ記事がきっかけで全米にその波は拡がり、1年後の2003年1月11日にはニューヨーク・タイムズ紙が、過去60年間に全米のカトリック教会の聖職者1,200人が4,000人の子どもに性的虐待を行ったことを調べ上げた。

そんな大規模の悪弊(犯罪)に誰も気がつかなかったのか。そんなこと考えにくい。間違ったことが行われていると知っていながら、誰もそれを表だって指摘しなかっただけである。日本の裁判所の「傍聴席でメモ」とは違って、教会内、そして信者のあいだには様々な直接的利害があったことは容易に想像できる。

ただ、メディア側にも問題があった。このプロジェクトを指揮したのは、外からやってきて新たに編集局長に赴任した人物だった。同紙には、数年前に被害者支援する弁護士から児童虐待を続ける神父たちに関する情報提供があったが、担当の記者(ボストン生まれ、ボストン育ちの今回のチームのデスク)は、その情報を「スルー」していた。巨大な権力であるカトリック教会、そして読者の半分以上がカトリック教徒であるという理由からだったのだろう。

インターネットに押されている新聞の危機的な状況の打開策といった理由もあったに違いないが、よそ者でユダヤ教徒の新任編集局長には地域とのしがらみがなかったのが功を奏した。

「内部」に長く留まっていると、人は選択的関心しか持てなくなる。自分が見たいものにしか意識が向かなくなるのだ。

同映画は、アカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した。


2016年4月22日

プリンスが亡くなった

プリンスが亡くなったことは、ジョン・カビラがナビゲータを務める今朝のラジオ番組で知った。朝6時から11時半までの番組の内容が急遽変更され、全編プリンスへのトリビュート番組となっていた。

プリンスは非常に個性的、というかキワモノぽかったが、その音楽性は極めて高かった。グラミー賞も7回受賞していた。

先週のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」の中でかけたシネイド・オコナーのNothing Compares 2 U は、もともとはプリンスが1985年に発表したアルバムの中の一曲だ。

死因は、一部ではドラッグの過剰摂取などと言われているようだが、まだはっきりしない。それにしても、という感じだ。

僕と同じ歳だった。

2016年4月20日

地震にいいタイミングも悪いタイミングもあるか

今も九州で断続的に地震が続いている。現地の方はさぞ不安な日々を送っているに違いない。

そんな折、毎日新聞の下記の記事を読んだ。
 おおさか維新の会の片山虎之助共同代表は19日、国会内での党の会合で、熊本地震に関して「大変、タイミングのいい地震だ」と発言し、直後に撤回した。 片山氏は「ダブル(衆参同日選)になるのかならないのか、消費税を上げるのか上げないのか、政局の動向に影響を与えることは確かだ」と語った。

 片山氏はコメントを発表。「政局的な節目に重なったという趣旨で発言した。言葉の使い方が不適切だった」と陳謝したが、被災者の感情を逆なでする発言として反発が出る可能性がある。
http://mainichi.jp/articles/20160420/k00/00m/040/069000c

熊本でどのようなことが起こっているかという想像力もなく、ただ「政局」にしか興味のない「政治屋」のうすら寒い精神構造が浮き出ている。腹が立つ。

2016年4月17日

メンタルコーチという仕事

昨日のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」は、ゲストに『ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」』(講談社)を書かれた、前ラグビー日本代表メンタルコーチの荒木香織さんをお招きした。



彼女は3年間、4シーズンにわたってラグビー日本代表チームにかかわってきた。その役割を一言でいうならば、メンタル(精神)面から選手を強くし、勝てるチームにすること。当時のヘッド・コーチだったエディ・ジョーンズさんから直々に乞われてコーチに就任した。

いまでも忘れられないのが、昨年の9月20日の南アフリカ戦。世界最強ともいわれる南アフリカチームを破り、世界中に「ラグビー史上最大の番狂わせ」を見せつけた一戦である。

それまで日本ラグビー代表は1991年のジンバブエ戦で勝っただけで、それ以外で勝った経験が全くなかった。日本代表選手に選抜されれば、さぞ選手たちにとっては誇らしいことなのだろうと考えるのは素人考えで、実際は選手たちは「どうせ勝てないこんなチームになぜ選ばれちゃったのか」との迷いを多くの選手が持っていた。やっても負けてばかりなんだから、当たり前かもしれない。

チームのマインドセットを変えてくれ、とジョーンズ・ヘッドコーチから呼ばれた荒木さん。一人ひとりの個性などを見極めながら、適確に一人ひとりを、そしてチーム全体を変えていった。

今日、うかがった話の中で印象的だったのは、「平常心では勝てない」ということ。ある程度の興奮状態の方が判断能力に優れ、身体の切れもいいという。それをどうコントロールするか。

五郎丸選手のルーティン、正しくはプレ・パフォーマンス・ルーティンと呼ぶあのお祈りに似た仕草も、単なる験担ぎなどでなく、合理的な目的達成のために構築された所作なのだと知らされた。

番組内でかけた曲は、シネイド・オコナーの Nothing compares 2 U。


2016年4月16日

市場規模とは

今朝の日経新聞に「『タラレバ娘』独身の女心」という記事が掲載されていた。そこでの主旨は、婚活とやらを断念する、あるいは積極的に諦める女性が増えているというもの。
 
霞ヶ関の官庁で働く32歳の女性や都内の会社員、35歳の遠藤さん(仮名)が紹介されていて、そこから一人で生きていく決心をしている女性が増えていると記事は紹介する。

その手の話がどこまで本当なのかは知らないが、ひとつ気になったのは「『街コン』サイトの運営サイトを手がけるリンクバルによると婚活市場は年3,000億円」という記述だ。婚活市場とは何なのか定義もなければ説明もない。リンクバルという会社がどうやって推定したのかも分からない。記事を書いた新聞記者は、こうした数字に疑問を抱かないのだろうか。

3,000億円の市場規模というと、例えば一昨年の国内の音楽産業の市場規模に匹敵する(オーディオ売上1,864億円、音楽ソフト677億円、有料音楽配信437億円、合計2,979億円)。本当にこれと同規模の市場があるのなら、簡単でもいいから内訳を示すべき。

記事を書いた日経新聞の記者は、一応その数字の出典元を示している。読者から何か言われたときは、3,000億円はそのリンクバル社によるデータであって、自分には詳細は分からないとする言い訳のためだろう。

まったく信頼性に欠けている。新聞記事は面白そうであればそれでいいというものではなかろう。

2016年4月9日

誰かのために仕事をするということ

先週に引き続き、「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)にNPO法人マラリア・ノーモア・ジャパンの水野達男さんに来てもらった。


水野さんのかつての仕事、それは化学会社の社員として自社が開発した防虫蚊帳をアフリカの国々で売ること。事業部長として、生産計画を立て、原価のコントロールを行い、販路を拡大し、どう売上を伸ばすかをいつも考えていた。

積み上がった在庫の山と格闘しながらも、日々どう売って行こうかと思い悩む日が続いていたという。そんなとき、53歳の時のこと、突然腰が抜けてまったく動くことも何をすることもできなくなった。医者から言われ、40日間の休暇を取ることになって考えた。このままでいいのだろうかと。

アフリカでは今も毎年2億人がマラリアに感染し、50万人が亡くなっている。原因となるのは、ハマダラ蚊という蚊である。日中は動かない。夜になってからだけ活動を開始する蚊だ。だから、蚊帳がとても効率的な予防対策になる。その蚊帳の繊維には特殊な薬剤が染み込ませてあるためそれに触れた蚊を退治することができる。

しかし、アフリカの現地では、マラリアの原因が蚊であることをまだ知らない人たちがたくさんいる。蚊が多く発生するのは、雨の季節。だから、雨がたくさん降ったらマラリアになると信じていたり、その季節には植物が盛んに生い茂ることから、パパイヤをたくさん食べたらマラリアになると信じている人たちもまだたくさんいる。そうした人たちにどうやって蚊帳を使ってもらうか。

 水野さんは横になっていた40日間にいろんなことを考えた。頭に浮かんできたのは、セネガルの病院での一コマ。1歳半の子どもをマラリアで亡くした母親が、悲しみにうちひしがれている姿。そうした現状をなんとかしたいと考え始めた。

そしていまは、マラリア・ノーモアという世界的なNPO組織の日本代表として忙しく活躍されている。彼がアフリカで知り、学んだモットーが「焦らず、諦めず、放っておかない」という考え。その精神で、水野さんは今日も頑張っている。


番組中で流したのは、CCRの「雨を見たかい」。


2016年3月29日

30歳台、40歳台男性リスナー対象で1位

ラジオ局のプロデューサーから「木村達也 ビジネスの森」の聴取率について連絡があった。ラジオの場合、聴取率調査は2ヵ月に一度、ビデオリサーチによって実施されている。

その結果だが、今回もなかなかよかった。男性層30歳台、40歳台でナンバー1。特に男性層30歳台では、第2位の局にダブルスコア以上の差を付けた聴取率だった。

僕たちが狙っている、意欲に溢れた中堅ビジネスマンが熱心に聞いてくれている様子がうかがえる。意欲に溢れているかどうかなんて分からないだろうって? 分かるんだよ。そうじゃなきゃ、土曜日の朝から面倒くさい話をラジオで聴こうなんて思わないから。

2016年3月27日

インドは日本に学び、日本はインドに学ぼう

昨日朝の「木村達也 ビジネスの森」は、先週に引き続き、池袋三省堂書店本店イベントスペースで先月末に開催した番組の公開収録をもとにお送りした。


ゲストは、『インドと日本は最強コンビ』(講談社)の著者、インド人のサンジーヴ・スィンハさん。彼には1年少々前にも番組にゲストとして来てもらったことがあり、今回は2回目だ。


インドの人口は12億5千万人、かたや日本は1億2千7百万人。10倍だ。国民の平均年齢は20代、しかも急速に人口は伸び続けている。市場として膨大な可能性がある。しかし、資金も技術も足りない。日本がいよいよ本気でそれらを投資すべき時だろう。

インド本国以外にいるインド系の人の数、3000万人とか。お喋りで、自己主張が強く、活力のある彼らに「成熟の国」日本は大いに学んでいく必要があるじゃないだろうか。

ところで、彼の本のなかに「孤独を感じられる日本人の幸せ」という言葉があった。僕はインドに行ったことはないのだが、たぶん家族はもちろん、それ以外の関係でも人と人の結びつきがすごく強く、言葉に出しての主張がはっきりしているお国柄だからだろう。

孤独について考えるインドの方が一般的かというと、おそらく彼は特殊な部類に入っていると思う。なぜなら、日本での生活が長く、日本人との付き合いも多いから。それはそうとして、「孤独を感じられる幸せ」という幸せを我々はどれだけ感じているだろう。

むしろ、SNSなどで始終つながっていることに安心感を感じ、それが快適な状況になってはいないか。だが、それが本来の状態なのかというと、僕には決してそうは思えない。

サンジーヴさんが指摘しているように「孤独」を味わうことができる方が、よほど幸せな状態だとあらためて思うのだけど。

2016年3月20日

機を見るに敏

昨日朝の「木村達也 ビジネスの森」は、先週に引き続いてゲストに元ソニーCEOの出井伸之さんをお招きし、彼の『変わり続ける 〜人生のリポジショニング戦略〜』(ダイヤモンド社)をもとに話をうかがった。



スマートな出井さんの「変わり続ける」は、言い換えると「機を見るに敏」かな。だとすると、不器用な僕の「変わり続ける」は、さしずめ「Like a rolling stone(転がり続ける石)」だ。

今回番組中で挿入した曲は、ボウイのChanges とサム・クックの A Change Is Gonna Come。



2016年3月9日

志の輔落語


落語家の立川志の輔が「志の輔らくご in PARCO」を始めて20年になるという。毎年1月から約1ヵ月間にわたる「ロングラン」である。場所が場所なら、そのやり方も落語というより「芝居」である。

僕は1、2回しか観たことないから偉そうなことは言えないが、まさに芝居を観ているような気軽な感覚で楽しめることができ、サービス精神満点で笑わせてくれる舞台だ。

志の輔ら立川流は、1983年に落語協会を脱退してから、原則として寄席定席(東京には新宿末広亭など4つある)には出ない。そこで彼が目を付けたのが、芝居小屋であるパルコ劇場だとか。

ところがだ。1974年、当時大学生だった志の輔が、東京で初めて観た芝居が当時の西武劇場、現在のパルコ劇場でのものだった。その時、彼は「自分はいつかこの舞台に何かの形で立つなって思った」という。

これなんだよなと、膝を打った。彼のその時の思い、そこには何の根拠もない。けれど本人にはそのことが確固とした未来として脳裏に写ったに違いない。

そうした「思い」は気持ちの奥底に深く深く沈み込み、普段は本人も気付くことないけど、そのための「計画」は静かに進行しているものなのだ。こうした予言めいたものが実現するかどうかは、志の輔が初めてパルコ劇場(西武劇場)に行った際に思った「感じ」をどれだけ持てるかどうかである。

2016年2月27日

生地(せいち)は何を語るか

新聞に作家二人の対談が掲載されていた。その一人の写真の下に彼女のプロフィールが記されており、イラン・テヘラン生まれ、エジプト・カイロ、大阪育ちとある。

彼女の写真をながめつつ、「テヘラン生まれか」そう言われれば・・・などと思ったりもする。だが、彼女自身が生地としてイランを選んだわけではないので、「彼女の父親は何をしていた人だろう・・・」という思いにすぐかき消されてしまう。

あるテレビ局の元アナウンサーで現在はタレント稼業をしているある人物は、自分のプロフィールを紹介するとき、なぜかオーストラリア・シドニー生まれ、というところから始める。

そういえば、ニューヨークにいた時に知り合ったある留学生夫婦は、子どもを「ニューヨーク生まれ」にするため、現地で綿密な妊娠出産の計画を立ててがんばっていた。

生地がどこかという情報は、他人に何を語ろうとしているのだろうか。

その人物が何年生まれかというのは、読み手にとって意味があると思う。性別も同様だ。つまり、そこに書かれている内容を言っているのがどの世代に属する人なのか、男なのか女なのかは、参考となる情報になり得る。例えば、20代の女性が言っていれば奇異に聞こえることも、それが60代の男性の考えだと分かれば理解できるといったことがある。

性別と年齢だけで類型的にその人物を判断できるわけではないけど、現実的にはそうした人口統計学的な要素が示してくれることも情報として役に立つことが多い。

一方、生地はどうだろうか。ニューヨークでめでたく産声を上げた赤ちゃんは、父親の大学院留学とともに生後数ヶ月で帰国しているはずである。「ニューヨーク生まれ」が彼(女)の人格に影響するものがあるとしたら、それは何か。あるような、ないような。

誰かと話していて、話のネタとして自分はどこそこ生まれだと話すことはよくあること。しかし力士でもないのに、マスメディアで自分が生まれた場所をプロフィールとして書くのはどういう意図なのだろう。

2016年2月25日

上は「未来」

友人と新横浜にある「ラーメン博物館」をたずねた。20数年ぶりだ。

出店しているラーメン屋はその時々で変わっているのだろうが、町、いや博物館の雰囲気はあれから変わっていない。相変わらずのレトロならではの懐かしさと得も言われぬ可笑しさがある。


イベントというのかアトラクションと言っていいのか分からないが、途中で自転車に乗った紙芝居屋が出てきて、ひとしきり黄金バットなどの紙芝居を太鼓を叩きながら演じるのも楽しい。のほほん気分満載だ。


でラーメンを食べ、ビールを飲み、エスプレッソ・コーヒーをすすり、そうここはとにかく食べたり飲んだりして遊ぶ博物館である。

地下の「博物館」から地上に戻ろうと前を見たら、階段のところに矢印と共に「未来」とあった。


2016年2月9日

映画はタイトルだ

先日のスリランカ出張時、帰りのフライトの中で観ていた映画が目的地(成田空港)に間もなく到着するからと言うアナウンスとともに、途中で打ち切られてしまった。

やっと続きを劇場で観た。映画「オデッセイ」は、不幸なアクシデントで火星にひとり取り残されてしまった宇宙飛行士の話だ。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモンである。

火星では夏になると極地の氷が溶けて上昇気流が起きて、時には風速100メートルを超える砂嵐が起こる。それに巻き込まれて吹き飛ばされ、気がついたら一人だけ火星に取り残されていた、というのが話の始まり。

水、食糧の確保が当然、生きていくために必至になる。とりわけ、食糧をどうするかなのだが、植物学者である主人公は、火星上の飛行士たちの生活居住施設でジャガイモをそだて食料にする。

主人公の専門が植物学であるところは、考えてみれば都合が良すぎるが、まあいい。彼は、施設内に火星の土を敷き詰め、他の乗組員たちが残していった排泄物のバクテリアを利用して植物を育てる。赤い火星の土から初めて小さな緑の芽が出てくるのはちょっと感動的である。

思いもしなかったサバイバルが描かれているが、この映画の中心的なテーマは人間の持つユーモアと楽観主義への賛歌のように思う。(サバイバル術なら、行きのフライトの中で読んだ加村一馬さんの『洞窟オジさん』の方が格段にスゴイ)
 
地球から2億キロ以上離れた場所に一人で取り残された男が、途方もない孤独のなかで生きて行けたのは、食料となる植物を育てることができたり水を作ることのできる科学的な知識だけでなく、自分の置かれた状況を笑うことのできるユーモアの感覚。

その後ろには逞しい精神力があるわけだが、もうひとつ。彼は、日々の活動や思ったことを施設内の録画カメラに向かってログとして残していったわけだが、ひょっとしたら自分が死んだ後に見つけられ再生されるだろう映像を残すなかでジョークめいたことも言ったりする。人間、思っているだけではなくて、言葉に出して言わなければならないのだ。

いくらユーモアやジョークのセンスがあったとしても、口に出さなければ何にもならない。言葉にして初めて(人に伝えて初めて)精神性と結びつく。その当たり前のことをリアリティをもって教えてくれる。

このあたりは、「やっぱりアメリカンだなあ」と思わせる。もちろんすべてのアメリカ人が前向きで合理的だったり、楽観主義のやってやろう精神を持っているわけではないが、悩む前に考える、落ち込む前に行動する、悲嘆に暮れるのではなく笑い飛ばす、といったことは僕ら日本人よりずっと得意にみえる。

宇宙開発のような究極のパイオニア精神を必要とするものに限らず、新しいことを生み出す彼らの力の基盤を感じる。

ところで、この映画の原作はもともと無名の新人作家がウェブ上で発表し、その後ベストセラーになったもので、小説の原題は The Martian。映画の元のタイトルも同じだ。

小説の日本での翻訳は、早川書房から『火星の人』で出ている。原題をそのまま訳せば「火星人」だが、これではちょっと違うので、火星に取り残された人物と云うことで「火星の人」になっている。



一方、映画の邦題は『オデッセイ』。これはホメロスが残したとされるあの大長編叙事詩である。このタイトルはうまい。

オデッセイ(オデッセウス)には、主人公であるオデッセイアが神の呪いを受けて長旅に出たまま故郷に戻れず長年にわたって漂白し、やがて帰還するはなしが描かれている。

そのため、英語のOdysseyには、長年にわたる放浪の旅の意味がある。まさにこの映画主人公を象徴的に表している。映画のタイトルが小説同様「火星の人」では宇宙観にも欠け、リドリー・スコットらしい映像イメージも観客に思い浮かばなかっただろう。

1968年に公開されたアーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックの 「2001: A Space Odyssey (2001年 宇宙の旅)」へのオマージュも込められているに違いない。

映画の終わり近くに流れてきたのは、デイヴィッド・ボウイの「スターマン」だった。なんだか、じんときたよ。