2015-02-28

知的天国・ニッポン

今朝の「木村達也 ビジネスの森」は、先週に引き続きフリーライターの永江朗さんをゲストにお招きした。


彼の『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)によれば、決して日本人は本離れをしているわけではなさそうだ。新刊書の刊行点数はむしろ増えている。ただし、新刊書の売上自体は長年にわたって減少傾向にある。

これは取りもなおさず、新刊書一点あたりの販売部数が減っているということを示している。書籍の一般消費財化だ。あえてはっきり言うが、今の時代、コンテンツの良し悪しを別に語るならば、パッケージ商品としての「本」は実に簡単に作って出せる。

コンビニやスーパーの店頭の清涼飲料やお菓子となんら変わらない。いや、そう言ってしまうと飲料メーカーや菓子メーカーに失礼になる。それらとも比較にならないほど粗製濫造がはびこっているのが、書籍ビジネスの現場。ヒットした本が出ると、あからさまにその二番煎じ、三番煎じを狙った本が平然と店頭に並ぶのもそのひとつだ。

人類の遺産とも言えるような限りなく貴重な価値を持つ本と、まったくそれとかけ離れた駄本が店頭で同じ「本」という存在でもって併存している。

だから、何を読むかが問われる。当たり前だけどね。

日本の本は、諸外国と比較するとずいぶん値段が安い(と僕は思っている)。しかも最近では、ネット上の青空文庫などを利用すれば、著作権が切れた本を無料で読むことができる。 永江さんは、そうした日本の国内状況を「知的天国」状態と呼ぶ。

それはありがたいことだ。だけど、「知」がいつでもタダで手に入ると考えるのはいいことではない。読みたい本が読みたい時に読めるようになった分、書き手に対しての「応援」を忘れてはいけない気がする。

つまり気に入った本は、お金を払って買うということが大切。もし最初図書館で借りて読んだとしても、それが本当にいい本だと思ったら、自分で買って友人にプレゼントするとかね。

ちょっと大げさかもしれないけど「知」の創作者に対する敬意を忘れてはいけないと思っている。それは思いや気持を持つことだけではなく、やっぱり行為として対価を払うことにつながっていなければいけないのではないか。


今朝の一曲は、ゾンビーズで Time of the Season。


2015-02-11

コロンボの街で

JICAの仕事でスリランカへ。スリランカ航空の直行便で成田空港からコロンボ空港まで9時間あまり。時差は、3時間半。

僕にとっては、スリランカで連想するのは紅茶とアーサー・C・クラークくらい。 キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」の原作者として知られるクラークは、1956年から亡くなる2008年まで50年以上をスリランカで暮らした(彼が移住した当時、この国はセイロンと呼ばれていた)。

そのクラークが、なぜそれほどスリランカ(コロンボ)に惹かれたのかを考えながらこの街で過ごしている。

ほんの数日の滞在で「この国は・・・」などというのはおこがましいが、あえて印象を言えば、アジアにしては、またインドのすぐお隣にしては(勝手に想像していたよりはるかに)インパクトがない。それを退屈ととるか平穏ととるかは、その人次第である。

ここ連日、夕方になるとシャワーのような雨が降る。初日、ペターという市場や屋台のような商店が連なる雑踏のエリアを歩いていたとき、突然ザザザッと来た。その時は雨具はなく、その辺の商店の軒先を借り、雲が流れていくのをながめながらしばらくじっと雨宿りをするしかなかった。アジアの気候である。

ペタ−(Pettah)の人混み

街中のバス・ターミナル

インド洋に沿って走る鉄道路線
埋め立て開発が進むコロンボ市内フォートエリア
オランダ植民地時代に建てられた病院跡。現在はショッピングエリアになっている。

2015-02-07

合理的なのに愚か、それとも合理的だから愚か?

今週の「木村達也 ビジネスの森」は、ゲストとしてルディー和子さんに来ていただいた。取り上げた本は、『合理的なのに愚かな戦略』。


彼女が指摘するところの「合理的」というのは、本来なかなか曲者である。学歴も高く、知識も経験も豊富で優秀なはずの大企業の経営者が、なぜ間違った戦略を実行し失敗してしまうのか。

それは一言で言えば、これまで経てきた成功経験やプライドを守るために、無意識のうちに種々の認知バイアスの罠にはまっているからだ。

加えて、多様性の欠けた環境の中で仕事を長年続けていることで、思考パターンが硬直化していること。顧客のことを「アタマ」で理解しているつもりでも「ハラ」で分かっていないこと。(とりわけ大企業の場合は)予想されるリスクを過剰に評価し、現状維持を好むこと(損失回避性)などが要因としてあげられる。

失敗を犯してしまうのは、人の常・・・。分かってはいても、なかなか一筋縄ではいかないから厄介だ。

イギリス経験論を代表する思想家であるヒュームは、理性と感情の関係を考察し「理性は感情の奴隷である」という有名な言葉を残した。理性に基づく合理的な意思決定と思われるものも、実はそのもとには感情による行動の決定があるというのだ。行動経済学の嚆矢ともいえる。

人がものごとを決定する根本は理性か感情のどちらかではなく、多くの場合、実際のところは感情が決定する。そして、理性はその後付けの理由を組み立てているのではないか。つまり理性が先行するのではなく、理性の役割は「後始末」なんじゃないかというのが僕の考えだ。今日のルディーさんとの話から、そんなことを思った。


今日の一曲は、スウィング・アウト・シスターの Here and Now を選んだ。