ニューヨークで生活を始めたばかりだ。日々の些細な事ではあるが、いろんな経験をしていてその都度考えることが多い。
昨日まで僕の部屋にはヤカンがなかったので、中華鍋でお湯を沸かしてお茶を飲んでいた。illyのコーヒー豆とメリタのペーパーフィルタは近くの食料品店で買って来ているものの、フィルターサーバー(こちらではコーンと呼ぶ)は随分探したがどこの店にも売っていない(不思議)。
そこで、そのコーンも含め、大手の生活日用雑貨店のサイトで買いそろえることにした。Bed, Bath & Beyond という品揃えのよい店である。食器のセットとヤカン、ヘアドライヤーなどを注文する。代金は68ドルほど。配送料はExpedited shipping(急送)を選択したので26ドル! それでも実際に届くまで5日もかかった。
ところが、一緒に注文したはずのヘアドライヤーが届いた箱に入っていない。ネットでカスタマーサービスの連絡先を探して電話し、彼女が倉庫の在庫を確認する間ずっと電話口で待たされ、週末までには別の商品が届くはずだから待っててねと言われて「分かった。それまで頭洗わずに待ってるからね!」と言って電話を切る(こちらの配送業者の仕事ぶりは経験済みで、週末に届かないことはもう直感的に分かるのでなかば諦めている)。
日本のヤマト運輸や佐川急便のサービス品質のすばらしさを痛感する。どちらも間違いなく世界一だ。
日本では数年前から、サービス生産性の向上が経済産業省によって唱えられている。製造業に比べてサービス業の生産性が低いのを問題とし、解決すべきだという考えである。ある種の統計データを眺めれば、残念ながらサービスセクターの生産性は低い。だが、だからいって単純に製造業と比べて「劣っている」というふうに考えていいものだろうか。
サービスサイエンスを唱えている研究者らしき人たちがいて、彼らはサービスの現場を効率化するためにそこに製造業のシステム、ノウハウを導入すべきと主張する。例えば、日本旅館で仲居さんやスタッフが板場から宴会場へお膳を運んでいたのを、レール上を動く機械に載せて自働で運ぼうといった発想だ。それはそれでいい。ものを決まったある場所から別の場所に運ぶのは機械で構わない。だが、そうした工夫を「サービスサイエンス」と呼ぶのは大げさだろう。
アメリカでは、サービスに対しての対価が高い。タクシーに乗ってもレストランで食事してもチップを払う。当然ながら、これはメニューには載っていない。結局、結構どこでも金を払うことになる。
ケーブル会社にテレビと電話の開通を頼んだ時は、部屋に埋め込まれている同軸端子に業者が持って来たチューナーをケーブルでつなくだけ、そして壁の電話端子に前もってこちらが用意しておいた電話機をつなぎケーブル会社の電話センターにつながるかどうかの確認の電話を一本入れただけで、それぞれ機器設置代と電話開通料が後日請求書に載って届いた。 両方で45ドル+税金である。
家具の配送を頼んだ時は、基本の配送料が270ドル。さらに土曜日だということで週末の追加料金が別に200ドルかかった。それにチップだ。日本はなんて安くて、早くて、正確で、しかも全体的なサービス品質が高いことか。
「サービス」というものをどう定義するかで、その意味と経済性の評価は異なってくる。それらをしっかり考えずに、表面的な数値の比較で日本のサービスは生産性が低いからダメだと決めつけるのはいかがなものか。国ごとのサービスの中身と、それらの受け手の期待品質をもっと多角的に分析する必要がある。