2020年5月31日

グローバルと言うほど、グローバルから遠ざかる

昔からおかしいなと思う言葉が、2つある。グローバルとイノベーションだ。

そうした用語自体が間違っているわけではない。それらをよく使う人たちが、大抵はヘンなのだ。

経験的に言えば、これからはグローバルな視点でビジネスを考えていかなければいけない、などという連中にかぎってグローバルのグの字もその経験にも頭にもない連中が圧倒的に多い。

同様に、イノベーションという言葉を金科玉条のごとく振りかざす経営者や経営学者に限って、まったく創造性のかけらもない。これだけは断言できる。

えっ、なに? あなたの所属している部署の名称が今度「グローバル・イノベーション推進部」に変更されたって? 困ったね。

2020年5月30日

来た、アベノマスク

夕方、散歩から戻って来て郵便受けをのぞくとマスクが届いていた。例のあれだ。

ありがたいような、どうでもいいような。たまたまエレベータで一緒になった犬の散歩帰りのご近所さんと、お互いが手にしたアベノマスクを見て苦笑いである。

このマスク、ガーゼに厚みがあってしっかりしているが、なぜかすごく小さい。これじゃ飛沫がもれもれだろうに。

誰かが、テレビに映る安倍晋三のマスク姿を見て「小学校の給食当番みたいだ」と言ってたが、確かにサイズや形がその通りだなと納得する。


2020年5月29日

思考の積み重ねと展開性

年初から始めた私的な研究会で、今日は神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)をもとに2時間ほど議論した。新型コロナウイルス感染防止ためというのがあって大学では開催できず、Zoomを使って行う。

本を読み、それについて語ることは、その人のものの考え方、生き方、人との関わり方が実に反映されると思う。

どういった理解の仕方や感じ方が正しいとか正しくないとか、そうしたものはなく、捉えるべきものはそれが自分が考え、思い当たったものとどれだけ違うかだけ。そしてそれはなぜかと思いを巡らせ、互いに質問し、議論する。

他者の考えを聞いていて、それまでの己の思考が裏切られ、新しい光が差してくる。そしてまた、自分の思考が新たな展開とともに深まっていく。

とりわけ、これまで研究会で取り上げてきたニーチェやスピノザ、パスカルなどとの関連が語られると、はっとさせられる。

2020年5月27日

企業に所属するか、参加するか

JR東日本の元社長だった松田昌士氏が亡くなった。84歳。彼は1993年から2000年まで7年間、同社の社長だった。

報道によると、同氏のお別れの会の連絡先はJR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)の総務部・法務戦略部となっている。

社長を辞めて20年が経っている。故人の業績を称えてということだろうが、どうも違和感が強い。

日本人の就職は「所属」だ。それは就社と言い換えられる。一方、欧米では所属するのではなく「参加」であると言われる。組織とのより対等で柔軟な関係である。だから、組織のために命を捧げるなどまずあり得ない(あるとすると軍隊くらいだ)。

冷静に考えれば、そうした対等な関係が当たり前だとわかるはず。だとすると、20年前に社長だった人物のお別れの会を元いた会社が執り行うのは奇妙と云わざるを得ない。そこにあるのは、伝統的な日本の大企業の組織と人に染みついた「会社社会・日本」の姿だろう。

誰が「ニップン」に入社したいだろうか

日本製粉という120年以上の歴史を持つ日本の伝統企業がある。

その会社が、製粉事業以外にも事業を拡大し、総合食品会社を目指すことを目的に社名を4月1日から変更するという。その新社名は、ニップン。日本製粉からとったニップン(日粉)である。

これからその名前で、どうやって新入社員を集めるつもりだろうか。自分が新卒大学生だったら「ニップン」という名と響きの会社には入りたくないナ。

社名変更という大切な意思決定をする前に、調査のひとつもやったのだろうか。たいして金も時間もかかりはしない。

2020年5月26日

匿名でものを言うのは、カッコ悪いぞ

木村花さんという女子プロレスラーが亡くなったことを、数日前CNNを見ていたときに知った。ある番組の途中、画面の下に流れている時事ネタのテロップでたまたま目にした。

それは、22歳の日本人の女子プロレスラーがなくなったという一行のニュースだった。 

彼女については、まったく知らなかった。フジテレビがやっているリアリティ番組に出ていて、最近その視聴者からたいへんな中傷や誹謗を受けていたらしい。

その番組は見たことはないし、SNSへの書き込みがどういったものだったのかもしらないが、一人の人を死に追いやるほどのものだったんだろうと推測するしかない。

ほんとに厭な気分になるよ。たかがテレビ番組に対して、本気であるいは遊び気分かもしれないが、相手を死に追いやるかもしれないような言葉を匿名で投げかける、その頭の悪さと品性のなさと、どうしようもないほどの人としてのなさけなさ。

時の権力に対して意見を言うとき、人は匿名で主張することがある。それは、もしもの時のことを考え身を守るためのものだと思う。中国ほどあからさまでなくても、日本の公安だってどういった形で情報を集めているかわからないからね。

そうした一般の個人が普通では一人で立ち向かえない巨大な相手を対象とする時以外、匿名で人を批判するのは御法度だ。

2020年5月22日

これを犬と思う感覚が分からない

シンガポールの公園では、ボストン・ダイナミクス社が開発した4本足歩行のロボットがパトロールしている。


新型コロナウイルスの感染拡大防止のために人々が適切な距離を保っているかをチェックするためらしい。

それはいいが、これが犬だろうか!? ロボット犬と言われているようだが、犬好きとしてはどうしても犬には見えない。

4本足で移動し、大きさが大型犬程度だからか? 不気味だ。

2020年5月17日

放送大学はどこへいく

僕が教えている研究科は、4月20日からリモート授業を開始した。それから4週間が過ぎた。

最初はどうなるかと思ったところもあったが、何とかなってる。確かに相手が社会人大学院生だから、というのはある。

学部の1年生(18歳)の授業を担当している先生などは、いろいろ苦労が多いという話を聞く。授業の中身をどう伝えるかという以前に、学生によってはネット環境が整っていなくて遠隔のクラスになかなか参加できないとか。

教員もほとんどが自宅からだから、相手の状況を手に取るように分かるわけではなく、そうした授業以前の問題の解決に時間と労力を取られている。

セキュリティの問題が取り沙汰されたりはしたが、Zoomがほぼ一般的なツールとして利用されているようだ。懸念はメンバー以外が紛れ込むことことで情報が漏洩するリスクがあるというのだったが、もともと所詮は大学の授業だ。秘密などない。まあ、あるとすれば、学生の個人情報(誰々は勉強ができない、とか)くらい。

遠隔教育といえば、日本では放送大学がすぐ頭に浮かぶ。それが設立されたのは1981年だから、40年の歴史がある。

しかし不思議なことに、今回日本中の大学教育機関がキャンパスを閉じ、遠隔授業の実施を迫られたとき、僕が知る限りではどこからも放送大学を手本にしようといった考えはみじんもなかった。

40年の遠隔教育の歴史があるのであれば、本来はそこが日本の司令塔として様々なノウハウを各機関に提供するのが道理なのだが。放送大学には実質的なノウハウや教育の技術は何もないのを皆が見て取っているということか。

2020年5月11日

9月入学が始まるかもしれない

人はすべてそうだが、なかでも日本人はこれまでやって来た流れを断ち切り、新たなシステムへ乗り換えるのが下手だ。下手というより、勇気がないのかもしれない。

その断ち切れない一例が、学校への4月入学、3月卒業、企業への一括採用による4月入社などだ。そこでは真の合理性はほとんど考慮されていない。

毎年、2月や3月になると、大雪の中を長靴を履き、顔一杯にマフラーを巻いた受験生が受験場である大学に向かう様子がニュースで流れる。電車などの交通機関の遅延で受験に間に合わなかった高校生の話なども。

またその時期は、例年インフルエンザの流行時期とも重なる。それまで一所懸命準備してきて、インフルエンザや風邪に罹患して目的の大学の入試が受けられなかった若者も多数発生する。

本当に時期が良くないとおもう。学期の始まりを9月にすることで、そのあたりは大いに改善できるはずだ。

9月入試の考えに対しては、全国の多くの教育委員会が反対している。混乱を招くとか、社会全体の仕組み中で考えるべきだとか、もっともらしい事をいっているようだが、要は変化を好んでいないだけだ。 変化に対応するのが億劫なのである。おじさん、おばさんらは。

9月入試に関して、ある新聞社が世論調査を行った記事を目にした。 9月への移行への賛成は56%、反対は32%。ただ、重要なのは若い人ほど賛成への意向が強かったということである。

18〜39歳では、賛成=66%、反対=28%
40〜59歳では、賛成=59%、反対=32%
60歳以上では、賛成=50%、反対=35%

それぞれのグループの標本数は分からないが、もしそれぞれの標本数が同数であるとしたら18〜59歳での賛成者率は63%、反対は30%でダブルスコア以上になる。

60歳以上の意見などは、ただ参考程度にするだけで十分だろう。

コロナ禍で生徒たちが学校に行けない特殊な状況下での調査結果であるが、9月へ入学時期を移行するメリット、デメリットを整理し、移行するなら早々に実行した方がよい。


2020年5月10日

配信解除からみる顧客志向度

自宅ですべての仕事をするようになって、パソコンの前にすわる時間が圧倒的に増えた。おそらく多くの人が同様の変化のなかにあるだろう。

授業はZoomでやっている。個人的なコミュニケーションはメールである。トラフィックが増え、種々のやり取りを整理しておいた方が良さそうに思い、これまで放置していた広告メールを処理することにした。

広告だけでなく、いろんな企業から勝手に届くメールも当然含めてのことである。一度会って名刺交換をしただけで、ずっと毎週個人のメールニュースを送ってくる自称コンサルタントも結構いる。

不要な受信メールを一気に減らそうと考え、迷惑メールのフィルタ強度を上げ、勝手にメールニュースを送付してくる企業のものはオプトアウトすることにした。今では日本企業のものでも、「配信解除」や「unsubscribe」のボタンを押すことでメールの配信を止めることができる。

ただ、なかにはそのために登録IDとパスワードでログインすることを求め、その後も面倒臭い手続きをわれわれに要求するところもある。そうすることで現受信者の解除手続きを減らす目的だろう。相手がメールを読もうが読むまいが関係なく、広告掲載料金のために送付先数をなんとか保っていたい企業だ。

そうした考えが、結局のところどんな感情を相手にもたらすのか、そしてどう彼らのビジネスに跳ね返ってくるかをどうして考えないのだろう。

2020年4月25日

パスカル『パンセ』から

今年1月から始めた私的研究会で、今月はパスカルの『パンセ』を読んだ。いつものように研究室に集まってというわけにはいかないので、Zoomを使っての研究会である。

多くの時間を家の中で過ごし、感染者拡大の数字の移り変わりを見聞きし、いつの間にかそうした目先の情報へ意識が振り回されていると感じているときに、こうした古典をじっくり読み、深く議論をするのは極めて良質な浄化であるように感じた。

『パンセ』は924(編纂によって異なる) の断章からなる一冊だが、そのなかにこうした一節があった。
われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方に置いた後、安心して絶壁の方へ向かって走っているのである。(断章183)
この本が出版されたのは17世紀のこと。 だがこれって、今の状況と変わらない。

恐怖と不安

コロナウイルス感染拡大に関しては、ふたつのストレスがある。

ひとつは、自分が感染者になってしまうのではという恐怖感。もう一つは、すでに自分がもう感染者になっていて、そのため知らず知らずに周りを感染させてしまうのではという不安感である。

前者は意識してコントロールできる。外出を最小限にひかえる、人との距離を確保しておくなど。だけど、後者は厄介だ。すでに感染しているかどうかは、熱が出るとか、嗅覚に問題があるとか何らかの身体的な症状が発症するまで分からない。

その不安感を払拭するのは検査して確認するより他ない。にもかかわらず、検査が容易に受けられない。この国では。

すでに機動的に大規模検査を実施済みの他国に比べて、医療行政の問題が大きいように思う。何かやる際に、やけに慎重なのだ。役人は、やったことがないことをやって何か問題が発生すると責任を問われちゃうと思い、すぐ自己保身のブレーキが働くから。

役人、あるいは「官」という人間たちにとっては、国民の命より責任回避の方がよっぽど大切。だからわれわれの命などはいつも置いてけぼり。3・11の対応も、先の大戦での終結までの過程もそうだった。

行政は国民の顔色をうかがいつつも、全身やけどした患者に一枚一枚バンドエイドでも貼るかような対応しかしていない。効果的ではないし、それらは「ありがたい国からの施し」に見えて、実はすべて国民がかかえなければならない負債(将来の税)として積み上がる。

2020年4月11日

人口単位あたりの新型コロナ死亡者数

毎日、いや毎時のニュースで感染者数が何人になったとか、死亡者数がどれだけ増えたといったニュースでの報道がある。

見ているうちに、多いのか少ないのか、分からなくなってきた。自分が住んでいる町内の話ではなく、国家レベルだったり、あるいは全世界でという話だからである。

仮にだが、日本国内で100人が亡くなったとすると、それは人口比では100万分の1以下である。統計的には誤差の範囲である。もちろん人一人の命はそれぞれかけがえのないものであることは分かっているが、その数値のインパクトをどう捉えるかは冷静になった方がいい。

下記のグラフの元は、札幌医科大学が公表している人口あたりの新型コロナウイルス死亡者数の国別の推移を示したグラフである。https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html


縦軸に対数を取り、その変化がとても分かりやすく見て取れる。イタリア、フランス、英国が圧倒的に死亡者比率が多い。イタリアは国民3,300人に1人がこのウイルスで亡くなっている。日本は15万人に1人だから、その差の大きさに驚く。

また注目したいのは、その伸びの変化率である。ヨーロッパ諸国を中心にその伸びは大きく、また似通っている。 そうした中で、日本と韓国だけが相対的に緩やかになっている。

もう一つ特筆すべきなのは中国だ。世界で最も早く新型コロナウイルスによる死者を出してきたが、3月5日時点でイタリアがその死亡者数を抜いた。中国のそれはというと、それ以降ほとんど数値はフラットのまま。これをどう考えるかだが、個人的にはあの国らしく正直に数字を公表していないのが理由だと考えている。

日本においても注意を怠ることなく、少しでも早く終息の方向に持っていく必要があるのは言を俟たない。しかし、毎年インフルエンザだけで3,000人以上が亡くっていることを考え合わせれば、いまの騒ぎというか、国民の不安の度合いは度を超していると言えなくはないか。

2020年4月4日

C.D.Cが一転、マスクを推奨

全ての米国人が人前ではマスクを着用することを推奨するとC.D.Cが発表した。これまで感染予防の効果がほとんどないと言っていたが、宗旨替えのようだ。

わざわざ cloth masks(布マスク)とうたっているところを見ると、どんなマスクでもいいからしたほうがいい、という感染が急拡大する切羽詰まった米国内での状況がうかがい知れる。

2020年4月1日

一律自粛は思考停止である

新型コロナウイルスの影響で、各種の行事やイベントが中止になるだけでなく、美術館や博物館は閉館になっている。レストランや居酒屋での集まりもあまり見られなくなった。

そうしたことをよしとして、「きちんと守る」のがまるで知性のある大人の振る舞いのように語れているが、そうだろうか。ただ正体のないものに過剰におびえ、合理的な判断を放棄して周りの意見に流されているだけはないだろうか。

もちろん感染の拡大は防がなくてはならない。しかしそのことは、まるで無人島に一人で暮らすことがそのための理想的な方法であるというような発想とは異なる。無駄なこと、過剰な対応をしても無意味だからだ。

感染を怖れてマスクやトイレットペーパーを大量に買い込んだ人たちがいるが、思考停止の典型だろう。WHOや米国CDCは、マスクは感染予防にほとんど無意味だと発表している。そりゃそうだろう、一般のドラッグストアで売っているガーゼのマスクでウイルスが防げるかどうかは、見ればわかるはず。

自分が感染者の場合、他に飛沫を撒き散らすのを防ぐには役立つ。マスクを大量に買い占めた人たちは、自分が感染したときに他人にうつさないようにするのに備えてか。見上げた根性だが、もし感染したらマスクして出歩かないで入院治療してくれ。

熱のある人は出歩かない、熱のある人には近づかない、手洗いやうがいは励行する、あとは万一の時に備えて免疫力が落ちないように食生活や睡眠に気を付ける。持病や重篤な疾患を抱えてる人は別として、そのうえでなるべく普段の生活を取り戻すようにすることが大切だと思う。

昨夕、市内の映画館に出かけた。電車はがらがら。それでもいちおう人が少ない車両を選んで乗車して。

2011年の東電福島第1原子力発電所事故を描いた「Fukushima(フクシマ)50」を上映するシネマコンプレックスの一劇場、131席のところ、観客は最初から最後まで僕ひとりだった。これなら感染しようもない。

2020年3月31日

複業を始めるチャンスだ

社会人学生らに今の働き方を訊ねたら、その多くがテレワークに移行してることが分かった。

なかには入館証を電子的にロックされて、出社したくても事前に上司の許可を取らないと会社に入れないケースも。

ひょんなことから始まった本格的な働き方改革である。世の中が一変したように見える。人の働き方だけじゃない。電車も新幹線も空いている。レストランも映画館もデパートも空いている。一方、宅配便の仕事をしている人は忙しくて大変そうだ。

テレワークを始めた人は、この機会に複業を考えてみるといい。これまで毎日費やしていた往復の通勤時間や無駄な会議に奪われていた時間が自分に戻って来たのだから。

それを有効に使って新しいことにチャレンジすることを本気で考えてみてはどうだろう。

2020年3月27日

君はRBGを知っているか

日本国憲法を前文から103条まで、通しで読んでみた。

憲法の前文は崇高で、国民の一人として自信と誇りを感じさせる。が、と同時に、今の政治家や官僚が明らかに憲法に反した多くのことを行っていることに気づく。憲法が平気でないがしろにされている日本は、不思議な国だ。

急に日本国憲法を読もうと思い立ったきっかけは、ルース・ベイダー・ギンズバーグを描いたドキュメンタリー「RGB 最強の85才」を観たから。彼女は米国の法律の専門家として70年代から性差別にかかわる数々の訴訟にかかわり、米国という国を平等な社会に向けて変えてきた一人だ。

RBGと頭文字で呼ばれて若者たちから愛され、いまやロックスターなみのアイコンになってる85歳のおばあちゃん。カッコいいね。 



2020年3月26日

横のものを縦にする

ご多分にもれず、新型コロナウイルス感染の騒ぎから自宅で過ごす時間がこのところ増えている。

それはそれで読みたかった本を読んだり、なかなか手が付かなかった片付けに取りかかる余裕ができたりでよいのだけど、そこで気になってきたのが家の中の本の平積み、積み重ねられたいくつもの本の山である。

本は背表紙さえ見えていればデッドストックにはならないはずとの考えがあった。しかし実際はそうでもない。

10冊や15冊の山なら、その一番下に置かれた本だって必要があれば抜き出して手に取る。だが、30冊、40冊と積まれた本の山を前に、その下の方に置かれた一冊の本を取り出すとなると、まずは深呼吸の一つも必要となる。

狙いをさだめて、山が崩れないように両手両足を使って押さえながら、タイミングよく目的の一冊を一気に引き抜く。うまくいけばいいが、バランスが崩れれば、山全体が崩れ落ちることになる。

それがどうした、また積めばいいじゃないかと思われるかもしれない。いや、その通り。だが、そうやって何度も本の山を崩れ落とした経験が重なると、次第にそこから手が遠のいていく。気持も遠のいていく。触らぬ神に何とかではないが、トラウマとなって家の廊下や壁際に積まれた本の山はアンタッチャブルなものと化す。

そのままでは意味がないと思い直し、書棚以外でヨコになっている本をタテにする一人プロジェクトを始めることにした。

本を立てることが目的ではなく、ヨコ積みの本の山をなくすことが目的だから、最初にやることはできる限りの本の処分。今日、そこから取り組み始めた。 

2020年3月23日

一年遅れで考える

複数年連用の日記帳を使っている。良いところは、昨年の同じ日、あるいは一昨年の同じ日に自分が何をし、どんなことを考えていたかを知ることができること。

あんなことがあったな〜、あれはその後どうしたんだっけ、などとその日のことを書く際に自分の1年前や2年前の記憶が自然に呼び戻される。

当時の世の中のことを思い起こして、あんなに大騒ぎしたことが今では全く何もなかったのように扱われているなど、1年、2年という年月の間での時間の流れの早さを痛感することがある。

そんなとき、僕たちはその日その日に追われ、目の前に現れては消えていくことをにしか眼差しを向けず、あたふたと生きているんだなぁと痛感しないわけにはいかない。たいていの事は、少し時間が経ってみればなんてことないことばかりだということがわかる。

目は半眼に閉じ、聞こえてくるものは右から左に流してしまい、その中で自分の心の奥底に引っかかったものだけを取り入れて過ごしていったほうがいいんじゃないかと思ったりする。

複数年連用の日記帳には、そんなことを考えさせてくれる効用がある。

2020年3月22日

山中先生による新型コロナウイルス情報の発信サイト

iPS細胞研究所長の山中先生が、新型コロナウイルスについての情報発信サイトを個人でオープンした。

https://www.covid19-yamanaka.com/

書かれていることはとても分かりやすく、世の中に流布している情報をエビデンスがある(科学的といえる)ものか、そうでないものかに分けて説明してくれている。

例えば、「暖かくなると終息する」という話はエビデンスのない情報、つまり単なる与太話ってこと。テレビの番組で感染の専門家と紹介されていた研究者がそう話していたけど、信じるに足るものじゃなかったのが分かっただけでもよかった。

まだワクチンは開発されてなく、効果の証明された治療薬も見つかっておらず、山中先生は今回のことを1年は続く可能性のある長いマラソンと語っている。

心してかかる必要がありそうだ。