2017年5月28日

いつだってフルスイング

今朝の「木村達也 ビジネスの森」は、「週刊文春」編集長の新谷学さんをゲストにお迎えし、新刊の『「週刊文春」編集長の仕事術』をもとにお話をうかがった。


もともとはテレビ局で大人向けのバラエティをつくりたかったという新谷さん。ひょんなことで(ま、ふつう新卒で入社するときはそうだけど)株式会社文藝春秋に入社、いくつかの部署を経て「週刊文春」の編集長になって6年目。

一番興味があるのは、人。その可笑しさや、情けなさや、胡散臭さや、そうしたものすべてを含めて人が好きだから続けられていると。

スクープにしても、大上段から社会正義で人を裁くようなまねはしたくなく、フラットな目線で取材し、掘り下げ、記事にしてい行くのが文春流のようである。しかし、スクープだけでなく記事を載せるときはいつだってフルスイングでいく。

いま話題になっている「週刊新潮」の中吊り広告の件などもダイレクトにお聞きしましたが、そこはオフレコということで放送できませんでした。来週も新谷さんをゲストにお招きします。

編集者は黒子、ということで顔写真なしの記念撮影でした

今朝の一曲に選んだのは、Christina Perri で A Thousand Years。


2017年5月21日

亀とジェット機

先週と今週、「木村達也 ビジネスの森」にゲストとして元エルピーダメモリ社長の坂本幸雄さんをお招きした。


エルピーダメモリは、1998年に日立とNECの半導体(DRAM)部門が統合してできた会社。設立後うまくいっていなかったその会社に、坂本さんが2002年に再建を託されて社長に就任し、その後10年間にわたり同社を率いてきた。

坂本さんの企業人の原点は、体育大学の卒業後に義理のお兄さんの紹介で入社した日本テキサスインスツルメンツ社。そこの倉庫番からスタートし、25歳で経営企画部の課長に。それまでの上司が部下になった瞬間だった。最初は双方ともやりづらい感じもあったが、両者ともすぐに慣れていったという。肩書きは、単なる「役割」なのである。

日本企業とアメリカ企業の経営の違い。多くの違いの中でも決定的なのがスピード感の違い。両企業をよく知っている坂本さんから見た場合、その差は亀とジェット機くらい違うと云う。

コングロマリットの事業形態がその根底にある。種々なビジネスに関して、トップがすべてを理解できるはずがなく、だからこそクイックな判断ができない。社長がビジネスに精通していなくて、なぜ適切な経営判断ができるのか。切り離すべきだというのが坂本さんの考え方だ。

スペシャリストとジェネラリストについてもお話をうかがった。日本企業は多くの社員がゼネラリストを目指しすぎるので、部長になったとたんに専門性を鍛えてこなかった人たちはリストラの対象になってしまう。

企業に必要なのは、一部のジェネラリスト。坂本さんが語るように、その以外の人たちはスペシャリストを目指すべきなのだ。

まずは専門性を磨くこと。その後、組織内のポジションと役割に応じて、ジェネラリストとしてのキャリアを磨いていって経営者になる人材が出てくる。多くの日本のサラリーマンは専門性のひとつも持たないで最初からジェネラリストを目指すケースが多いが、それでは仕事にならないのである。

今朝の一曲に選んだのは、スティングで「Shape of My Heart」。


2017年5月13日

「髪型変えた?」

大学時代のサークルの同期会があり、小雨の中を出かけた。会場になった大学近くの鮨屋に集まったのは9名。その内の8人とは、大学卒業以来の再会だ。

36年ぶりだが、みんな意外と変わってない。女性はみんな昔の雰囲気のままだし、男の方も頭がいくぶん涼しくなったり白くなったくらいで、昔の様子そのままなのにちょっとびっくり。

自分自身があの頃からたいして変わってないのに、他人だけ変わっているに違いないと思っていたのがそもそも間違い。

それにしても、「あれっ、木村君、髪の毛そんなに短かったっけ?」と言われ、何を問われているかよく分からず黙っていたら、「長髪だったよねえ・・・」と。

ああなるほど、自分が学生時代のある時期、髪を肩の辺りまで伸ばしていたことがあったのを思い出した。彼女はそれをまるで先週のことのように言う。

十年一昔とは言うが、そりゃあ36年経てば髪型も変わるよと心の中でつぶやきつつ、なんだかおかしくなった。

2017年5月7日

コンセンサスが取れたときには、もう手遅れ

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社)の著者、小林由美さん。大学院時代から数えて36年間をアメリカで過ごしている彼女が、ちょうど帰国しているというのでスタジオに来てもらった。


アメリカで現在発生している問題の1つは「集中」にある。生産財としての情報の集中、それを手にしている一部のアメリカのIT企業、そしてそれらを可能にしている最先端の技術。さらには、その技術を開発している一部の超エリートのエンジニアたち。それらはすべてアメリカにある。

われわれが意識しないうちに、SNSの情報はもちろん、Gメールの内容も、ネットでの買い物の内容やその過程もすべて丸裸で捕捉されている。それらは分析され、ターゲット広告や商品・サービス開発のために売買されているのが現状だ。

日々の個人の生活には具体的な影響は感じないし、システムの向こう側でやられていて見えないだけに普段は意識することすらない。確かに現状では個人的には実害を感じるというものはないので、いいじゃないかと思ってしまいがちだが、気がつくとメールはGメール、SNSはフェイスブック、買い物はアマゾン、と一部企業に大多数の消費者が頼ってしまっている。

それらは便利だが、彼女の本のタイトルにあるように、いつの間にか超一極(ごく一部)に情報(つまり金だ)が集中している社会に僕たちは生きている。

日本と米国の比較のなかでは、教育についても彼女からいくつもの指摘があった。学校教育のレベルは低すぎると斬って捨てる一方で、米国では自由で斬新な発想を生み、それを高く評価する土壌があるということも。

全体的にレベルがそこそこ高い日本社会に対して、米国はおそらくならすと全体のレベルは高くないが、一部のとんがった連中が自由にものを考え、言え、実行でき、評価される環境の中でそれまでなかった新しい仕組みやビジネスを作っていく。

さらにはスピード感も日米で大きく違うという。「コンセンサスが取れたときには、もうtoo lateなのよ」とさらっと言ってのけた彼女の言葉にドキリ。

今朝の一曲は、ドン・マクリーンの American Pie。