2015年7月25日

農的な生活に生きる

今朝のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『農的な生活がおもしろい』(さくら舎)を書かれた東京大学大学院教育学研究科教授の牧野篤さん。


牧野さんと教え子の方たちが愛知県豊田市で行った里山プロジェクトは、農村に外部から人を入れ、その人たちを通じて新しい生き方を創造するとともに、地域社会の方にも新しい発見の機会をあたえ元気にしようというもの。

お金が第一の基準となっている企業社会とはことなる、自給自足と助け合いによる日々の暮らし、そしてコミュニティをベースにした人間関係の構築の実験である。

農村に入る若者たちは、ハローワークで「農的な生活をたのしみませんか」との触れ込みで集めた。そうしたら募集10名のところに、50名の応募があった。書類で20人に絞り、最終的には地元のおじいちゃんとおばあちゃんに「この子ならいて欲しい子を選んで」ということにした。地元の老人たちとの相性がとても大切なのである。

選ばれた10名は、ある面、都会の世界の生活に疲れていた若者たちだったらしい。1人をのぞいて、これまで正規職についた経験のない若者たちである。

彼らはその村に入ってからは、町内会のいろんな雑用的な仕事を進んでやり、運動会に参加したり、子どもたちと友だちになることを通じて地元社会に溶け込んでいった。

その結果、ほぼ10名全員が地元に定着し、メンバー同士で結婚するメンバーがいたり、地元の男性と結婚した女性がいたり、そしてその村で25年ぶりの赤ん坊が生まれる。喜んだ地元のおばあちゃんらは毎日面倒を見に来てくれる。

その後、そうした試みが広く知られるようになって、次第に村に人が集まり始めた。田舎だから、住むところは空き屋を数千円程度で借りることができ、食事は基本的には農業をやっているので自給自足。あるいは野菜などを分けてもらう。つまり、お金の支出をほとんどすることなく過ごす日々の生活。おもしろいなあ。 

僕のように農的というよりノー天気に生活をしている身には、きょうの話はとても新鮮に思えた。


今朝の一曲に選んだのは、Mike & The Mechanics の The Living Years。



2015年7月14日

文科省はどこへ行く

今日の新聞に「大学はどこへ行く」と題したコラムが掲載されていた。短い文章ながら、大学の現在の状況をうまく描いている。

(クリックで拡大)

筆者がここで引いているJ・S・ミルの言葉を持ち出すまでもなく、「本質を見失っては小手先の目標や計画をいくらつくってみても、そこから良いものは生まれない」。

日本の教育行政は、このところずっと迷走としか言いようがない。しかもそれは、確信犯的に行われている。

コラムの筆者が取り上げている法科大学院がひとつの例だ。交付金をちらつかせて音頭を取って自分たちがつくっておきながら、受験者数や司法試験の合格者率が低い大学には「お前ら、なにやってんだ」とばかりの上から目線の無責任姿勢である。

「産業界の要請に応えて」だか何だか知らないが、彼らが「金にならない」と勝手に判断をくだす文系・教育系学部と大学院に関するリストラ要請など、担当官僚はどれだけ腹をくくってやろうとしているのか。責任は取れるのか。・・・取るわけないか。

官僚が自分の在任中に、次の出世のために何か目立った「功績」を残すがための行いとしか見えない。

同じ新聞紙上に「取締役 半数以上退任へ ー 東芝新体制、社外を過半数に」の見出しがついた記事がある。不適切会計問題を指摘された東芝が、現社長や現会長(前社長)を含む多くの経営陣を退任させるらしい。社外取締役を半数以上にするなど、ガバナンスの改革に着手する。

責任という概念は企業だけでなく、役所にも当然のごとくあってしかるべきだと思うのが、責任者がきちんと責任をとったという話はとんと聞かない。

2015年7月11日

本で床を抜いちゃいけない

今朝のFM NACK 5「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)の著者、ノンフィクション・ライターの西牟田靖さん。 

 
引っ越しをきっかけに、増殖し続ける本の始末に悩んだ西牟田さん。本の重量できしむ床や押し入れの写真をネットに載せた途端に、実際に床が抜けた現場の例がいくつも寄せられてきたらしい。

そうして、さまざまな「床が抜ける」実例を知った西牟田さんがとったひとつの方策は、書籍の電子化(自炊)。しかし、それですべてが順調に片づいた訳ではない。なくなった本への喪失感、自炊するための費用と時間。それらをどう解決していくか・・・。 

本をどう処分するかという問題は、簡単なようで簡単にはいかないから不思議だ。

まずは、番組のなかでも紹介したノンフィクション作家の内澤旬子さんの言葉を反芻してみる。
仮にあと4、5年しか生きないんだったら、いつか読めたらとか、書けたら書きたいなんて資料を持っているのがバカバカしくなってしまった。もっと身体が気持ちよくいた方がいいし、気持よくいきたい、と思ったんです。死ぬまで読めないかもしれない本に押しつぶされないようにして、せせこましい空間にいる意味がない。
これは本だけの話じゃなくて、すべてのものに当てはまることだよね。


今朝の一曲は、The Lovin' Spoonful の Daydream。 



2015年7月6日

過剰なブックカバーをやめよう

最寄り駅の中に有隣堂書店が入っている。時折、立ち寄る。これまで気づかなかったのだけど、今日、一番はしのレジで精算するとき、下記写真のパネルがカウンターにあるのを見つけた。


書店で付けるカバーの付け方を簡略化するという案内だ。最初、書店のカバーをつけるのをやめたのかと喜んだのだが、そうではないらしい。書店カバーはつけるが、元々の単行本に付いているカバー(ややこしい!)に巻き込むようにつけるのを省略するということ。

以前もこのブログで書いた覚えがあるが、そもそも出版社のカバーがついているのに、さらに書店のカバーなど必要ないというのが僕の考え。本は消耗品だ。もちろん無理に乱暴に扱うことはないが、後生大事にする類のものでもない。

以前、同じ店で体験したはなし。文庫本を2冊手にした僕は、電車の時間があったのでいささか急いでいた。レジに向かっている時、そこに見えたお客さんはひとりだけ。これならすぐ精算できるな、と並んだのはいいが、彼女の手元を見てイヤーな予感が。

当時、日本テレビで放送していた綾瀬はるか主演の「きょう会社休みます。」の原作コミック本を7冊(第1巻から第7巻)抱えている。

予感的中! 店員が(言わなくてもいいのに)「カバーをお付けしますか?」と聞いたものだから、それら一冊一冊について包装ビニールを剥ぎ、それらに書店のカバーを付け終わるのを待たされるはめに。

その時、頭に浮かんが考えは「あとでアマゾンで買おう」。思いついたらすぐに実行してしまうタチなので、本を買わないままさっさと店を出た。

本当は、できれば書店で本を買ってやりたい。だから、自分でも釈然としない気分だった。書店は、店頭で本を買ってくれるお客への「サービス」としてやっているのだろうが、優れたサービスになっていない。

この余計な(過剰な)サービスをするために、レジでは客が待たされるし、店にとってもコストがかかる。

そろそろ他の書店らと声を掛け合って、一斉にこうしたサービスの「有料化」へ進んだ方がいいんじゃないかな。

2015年7月5日

大学院生を子ども扱いしている

昨日は、この9月に大学院を修了する予定者の修士論文提出日だった。

僕が勤めている研究科は、3月と9月にそれぞれ修了式が行われる。9月に入学と修了が行われるコースは、全日制グローバルと呼ばれているプログラムなのだが、そこでは論文提出日に指導教授が学生の論文をとりまとめて大学の事務所に提出することになっている。

学生自らが修士論文を提出しようとしても、受け付けてくれないのだ。 なぜかそうした奇妙なルールがある。学生たちも不思議がっている。

知り合いの他大学の教授に話したら、ひとこと「甘やかせすぎ」と笑われた。確かにそうだろう。彼らは大学院生で、小学生ではないのだから。

対象となっている大学院生たちに失礼な気すらする。これまで何度か、なぜこうしたやり方を続けているのか担当に問うたが、これまでそうしてきたからという以上の説明はない。やれやれだ。