2026-02-13

前回、アメリカのICEがなぜあのような暴徒と何ら変わらぬ残虐行為を行うのかについて、顔を知られないで「やりたいようにやれる」からだと書いた。本性が露出されることへのためらいをなくすのがこうした匿名性だ。

SNS上などに飛び交う雑多な書き込みの多くは匿名であり、その根っこはそれとたいして変わらない。言いたいことをただ言うだけで、それが正確かどうかとか、理屈に合っているかどうか、根拠があるかどうかなんてことは、端から気にしない。

人は、面が割れず、自分が誰かを他人に知られない状況では別の人間になれるんだろう。いや、別の人間というより、ジキルとハイドのハイド性という方が相応しい。

そうした側面は理性に抑えられているのが通常なのだが、一旦人に顔を知られない匿名でとなると、一昨年行われた兵庫県知事選でも今回タカ市自民党が歴史的な対象を収めた衆院選でもそうだったように、SNS上では理性が瞬間の感情に追いやられる。

このことは社会にとってのある種の暴力だと定義づけられる。

一方、こうした無名性、匿名性もあるのだと今日の日経新聞「私の履歴書」を読んで感じた。写真家の大石芳野さんが2002年にアフガニスタンへ取材で入った時のことを書いていた。

米国で同時多発テロが発生した翌年のこと。アフガニスタンは、それ以前にソ連の軍事侵攻や内戦、米軍の爆撃など度重なる戦禍で街が破壊されていた。そしてタリバン政権のもとで、女性たちは教育を受けることもできず、まともに働くこともできなかった。

大石さんは「・・・この国では頼る人がいなければ(女性たちは)物乞いになるしかない。こちらが外国人と見ると寄ってきてチャドリ(全身を覆う衣服)の裾から手を出してくる女性が多くいた」そして「顔を隠しているからこんな屈辱に耐えられるのです」と書く。

顔を隠す衣服が屈辱に耐え、生きていくための悲惨なシェルターの一つにもなっているのである。

彼女たちは理不尽この上ない状況の中で自分を守るために、その時、屈辱に自分を殺されないために、自らの人格をその瞬間消し去るため、顔を隠さざるを得ないのだろう。 

もちろん、同じ「顔を隠す」ことでもこれらふたつは、まったく異なる行為である。 

2026-01-27

殺したいから殺す、殴りたいから殴る

米中西部のミネソタ州ミネアポリスで、また市民が当局の職員によって殺された。2人目の犠牲者だ。

殺されたのは、病院でICUの看護師をしていた37歳の男性。トランプ政権が送り込んだ移民・税関執行局(*)(ICE:Immigration and Customs Enforcement)の職員によって路上で射殺された。

当局は、「銃を持った人物が職員に近づき攻撃しようとしてきたから」と職員の発砲を正当化しているが、映像はそうは示していない。組織防衛のための明らかに嘘である。だから、誰もが怒っている。

殺された男性は6人の政府職員に押さえつけれて、10発の弾丸を撃ち込まれて死んだ。合点がいかないのは、いまだにその6人の名前が表に出てこないこと。メディアはそれを知ろうとしているはずだが、当局が明らかにしないのだろう。

市民を叩き潰した当局職員らは、自分の名前や身元が分からないようにしている。ヘルメットを被り、目出帽で顔を覆い、あるいはサングラスをかけて自分が誰か知られないようにしている。

ICEの職員たち


ネット上か路上かを問わず、匿名性が人から理性をいっそう剥ぎ取る。  

自分が誰なのか仲間以外には分からない状態で、銃などの武器を持たせるから愚か者はさらに暴力的になる。人は金槌を手にすると釘を探す、というやつだ。

攻撃用装備で身を固め、覆面で顔を隠し、当局職員という歪んだ安心感と間違った自負心を胸にした馬鹿たちは誰でもいいから殺したいから殺す、殴りたいから殴るという分かりやすい行動を衝動的にとった。 

その結果、まったく殺される理由のない一般市民が政府職員に撃ち殺されることになった。 

アメリカ市民も、これでさすがに堪忍袋の緒が切れつつあるようだ。 

(*) 日本のメディアは、ICEを米移民・税関捜査局と訳しているけど、ICEのやっていることはinvestigation(捜査)ではなく文字通りenforcement(執行) なんだから、捜査局と訳すのは明らかに間違い。日本の新聞社もテレビ局もなぜ気づかないのだろう。それとも意図的に言い換えているのか。

2026-01-25

35年間、社員が客に詐欺行為をしていた生保企業が「NPS」では第1位

プルデンシャル生命の社員による不正行為が明らかになった。

1991年からということで、35年前から行われ続けていたというから、なんともはやだ。詐欺手口によってこれまで31億円以上の金を社員たちは顧客からくすねていた。

もうひとつ驚くのは、米国のベイン&カンパニー社が作ったNPS(Net Promoter Score)を測定尺度として用いた推奨度調査(NTTコムオンラインによる業界別ランキング)で、そのプルデンシャル生命が生保部門で国内第1位の評価だったこと。

 
どういった調査がおこなわれていたのだろうかね。

データの収集法が間違っていたのか。そもそも日本人を対象とした測定法としてNPSには欠陥があることが、ただ露呈したかたちか。

2026-01-24

中古マンションに1億円払うなら

東京都内の中古マンションの平均価格が1億円を超えたという。23区では1億2千万円が平均相場らしい。 

確かに都内の生活は便利なんだろう。僕も独身時代は都内に住んでいた。地方から出てきて8年間で新宿区、中野区、港区、目黒区に移り住んだ。

その後、都内から神奈川県へ転居したが通勤が少し遠くなったくらいで、不満を感じたことはない。 

今日、ニューヨーク・タイムスの不動産欄にスコットランドの売り物件が出ていた。値段は57万ドル。150円で換算すると8,550万円。寝室が6つ、トイレが4つある。

こんな感じだ。







場所は入り江を見下ろす高台にある。


日本からはちょいと遠いが、静かに人間らしく暮らせそうな気がする。

2026-01-23

マグと花束

昨日で授業がすべて終わった。今後、教壇に立つ予定はない。

午後4時45分に最後の授業が終わったあと、学生から写真撮影の提案があってみんなで写真を撮った。

その際、学生たちから早稲田グッズのコーヒーマグをプレゼントされた。「先生はコーヒーがお好きなようでしたから」と。授業の合間に、ぼくがコーヒーをよく飲んでたのを見ていたみたい。

この3月でぼくが退職することや、その授業が最後のクラスだという話は一切したことがなかったのだけど、学生たちはなぜかそのことを知っていて驚いた。 

教室から研究室に戻り一息ついていたら、今度は前の学期の授業で教えた学生たちが何人かやって来て、お疲れさまでしたと花束を手渡してくれた。そこでもみんなで写真を撮った。

思いがけない訪問と贈りものの授業最終日だった。 

早稲田ベアのマグカップ

写真左のマグは、ぼくは大学グッズを自分用に買うことはないので唯一のものになった。

2026-01-22

司法の思考を問う

安倍元首相狙撃犯の裁判で判決がでた。

奈良地裁の田中伸一裁判長が述べた判決は、不思議に満ちている。判決内容の妥当性については今日は議論しないが、その判断の元となった理由には首を傾げる点が多々ある。

裁判長は「多数の聴衆がいる現場で、殺意を持って、複数の銃弾を発射した悪意性や危険性の高さは他の事件と比べても著しい」として検察の求刑通りに無期懲役を言い渡したが、多数の聴衆が居合わせたことが判決結果にどうして関係するのか。

安倍元首相は、聴衆のなかにいたのではない。聴衆とは離れて立ち、演説をしていたのだ。

また殺害のために一発でなく複数の銃弾を発射したことが、どうして判決結果に関係するのか分からない。

さらに、背後から銃撃したことをもって単純に「卑劣で極めて悪質だ」と言うが、前から撃てば判決結果は変わったわけか。

加えて、「実験結果などから被告が使った手製のパイプ銃の威力は拳銃と同程度だったと認定した」らしいが、被告が作った銃がモノとしての出来が良くなかったら判決結果にどう影響したというのか。あるいは銃(もどき)でなく、刃物や弓矢など他の道具を用いていれば判決は変わったのか。

仮の話だが、被告が安倍元首相が人気のない早朝ジョギングの最中かなにか、出来の良くない手製銃で、しかし一発で前から狙って撃ち殺していたら・・・・・・判決はどう変わっていたというのか。

裁判長は殺害という犯罪の結果事実にまして、その現場での状況や使用道具の出来不出来などを判決結果に採用した。その一方で、被告が旧統一教会による宗教的虐待の明らかな被害者であり、長年にわたり極めて過酷かつ不条理な状況に置かれていた事実を判断に用いなかったのはなぜか。

つまり、判決にいたる考察は殺害が当日「どのように」行われたかに終始してしまい、被告が「なぜ」そうした犯行に至ったのかという経緯がほとんど無視されている。

もう一つ。判決理由のなかには「殺害を正当化できるような落ち度が安倍氏には見当たらない」とあるが、殺害された方に落ち度があるかどうかが殺人事件の判決内容に関係するのか。そもそも「殺害を正当化できるような(被害者の)落ち度」というのは一体何なのか。

理解できないことばかりだ。

おれの頭が悪すぎるのか、この裁判長の思考経路が歪んでいるのか、どっちだ。 

2026-01-21

世代論あそび

日本人は人を類型化したり、そのラベルを貼るのが好きだ。

本来、人は一人ひとり異なっていて当然だが、類型化して示されるとなんだかそう見えてくるから不思議だ。

自分のアタマでその人となりを判断するより、単純化されたタイポロジーを当てはめると考えなくてするから楽なのである。

X世代、Y世代、Z世代まできて後がなくなったと思ったら、今度はα(アルファ)世代だとか。

日経新聞が特集を組み、その世代を取り上げている。同紙は記事でこうぶち上げる。「α(アルファ)世代とは2010年〜2024年頃に生まれた世代を指し、Z世代の次に続く「未来の世代」として注目されており、幼い頃からスマホやAIに触れるデジタルネイティブであり、タイムパフォーマンス(タイパ)や社会課題への関心が高いのが特徴です」と。

その集団の構成員の年齢は現在1歳から16歳。つまり、1歳の幼児から高校生までを一緒くたに語っているのだが、1歳児がSNSで何か発信しているというのだろうか。(そしてそれを記者たちは読んでいるのかね。)

さらに同紙は「 α(アルファ)世代は人工知能(AI)などテクノロジーを使いこなし、将来のイノベーション(革新)を起こす主役として期待されている」と書く。

そうだろうか。何度も言うが、1歳から16歳の幼児〜高校初年度生がAIをどう使いこなしているのか。「将来のイノベーション(革新)を起こす主役として期待されている」って、誰が期待しているのか。

気分と思い込みだけで、あまり勝手に筆を走らせちゃいけない。

そうした子どもたちはAIを使いこなすのではなく、残念ながらそのほとんどはAIに使われる運命にあると考えている。

現在すでにある年齢以上にあって、日々生成AIを仕事や研究、あるいはプライベートで使っている人たちは、それがいかに未完全なものかを分かっている。問いへの回答などは一見もっともらしいが、そこには間違いや偏った記述が散見されるのを実感しているからだ。

だから、われわれは「AIもまだまだだなあ〜」と知りつつ、一方でその日進月歩の進化に驚くことができている。

だが10年後、いや5年後には、AIは生身の人間と見分けがつかない洗練された知性を備えた存在として少年少女たちに対応するようになっている。それも圧倒的な知識を備えた存在だ。

人間の中学生が、彼らよりはるかに知能が優れたAIをどうして「使いこなせる」というのか。蒸気機関や電気、コンピュータ、インターネットといった分かりやすい道具的技術の延長上にAIを捉えてはいけない。

AIネイティブだからこそ、逆におよそほとんどの若年者は赤子の手を捻られるがごとくAIに「使いこなされて」しまうわけだ。 

堺屋太一は、月刊『現代』に1976年から連載した「団塊の世代」のなかで1947〜49年生まれの人々を一つの世代と考え、そこから日本の世代論は始まった。 

それは、年齢で云えば当時30歳前後の人たちだった。年間260万人を越える人口のボリュームゾーンだったこともあり、社会のそれぞれの分野である一定以上のプレゼンスを見せていた。

だから堺屋は、戦後間もなく生まれた「戦争を知らない」新しい世代の集団が社会に与えている影響力に着目したのである。

まだ自我も確立されていない幼児や少年少女を何とか世代などと括って、分かったような定義づけをしてはいけない。

単純化の罠の典型例だ。

2026-01-20

牛だって背中が痒けりゃ道具を使う

痒い背中を掻こうにも手も足も出ない。人間が掻いてくそうもない。とすると、自分でなんとかするしかないのである。それは牛だって同じ。


2026-01-16

トランプ化する世界

日本の報道番組で、いま見るべきものはTBS「報道特集」とNHK「国際報道」くらいしかないと思っている。以前は、といっても何十年も前になるが、平日夜のベルト番組でもチャンネルを合わせていたニュース番組があったが、いまそうしたものはない。

いきおい外国のニュース番組を求めるようになり、CNNとBBC World Newsを切替えながら見ることが多くなった。

だがどちらにチャンネルを合わせても、出てくるのは米国のトランプのニュースばかりだ。つくづくどうなっているのかと思ってしまう。世界の各地では、日々それ以外にもさまざまなできごとが起こっているはずなのに。

今の世界は、もうほぼ完全にトランプ化してしまったようだ。

あの『マクドナルド化する社会(原題 McDonaldizaion of Society)』をジョージ・リッツアが書いたのが1993年。

誰かが『トランプ化する世界(Trumpization of World)』を書くときだろう。 

2026-01-09

丹羽宇一郎さんとロマン・ロラン

伊藤忠商事社長、その後会長を経て駐中国大使を務めた丹羽宇一郎さんが亡くなった。

丹羽さんといえば、僕にとっては『ジャン・クリストフ』なのである。パーソナリティをつとめていたラジオ番組にゲストとして来ていただいた際、番組の中でこの本を読まない手はないと薦められた。50年ぶりに読み返した話を聞かせてくれたのだ。彼は、名古屋で本屋の息子として育った。 

「木村達也 ビジネスの森」2015年3月28日放送分から

歯切れがよく、正義感と向こうっ気の強い方だった。番組の最後、自分の心に忠実に生きる大切さを話してくれた。日本の大手企業の経営トップでこんな方、いまはもう見当たらない。

2026-01-03

本屋もコンビニも同じ、ってことか

駅の近くにあるK書店をのぞく。雑誌、文芸、旅行・紀行の各コーナーを中心に店内を見て回る。

いつもはもっと閑散としているのだけど、今日はどういうわけか家族連れがやたらと多い。それも家族全員で、といった感じの集団がいくつも店内にいて、子供が騒がしい。なかには3世代の家族もいる。

どの家族もこの本屋に書籍や雑誌を目当てに来たのではなく、ただ「外」に出たついでに寄っただけのようで何を探すというわけでなく、ひたすら店内で騒いでいる。これも今の日本の正月の一つの風景なのか。 

そうした集団を避けて本を何冊か選び、レジに向かう。カウンターの端の方で本の整理をしている馴染みの店員と目が合い、お互い軽く会釈をする。

レジの所には初めて見る学生らしい店員が「見習い」の札を胸につけて立っている。アルバイトなんだろう。

支払いを済ませた際、その若者が「レシートはいりますか?」と聞いてきた。?と瞬時、とまどう。

これまで書店でレシートがいるかどうかを尋ねられた経験が一度もなかったからだ。思わず「当たり前だろう」と憮然と答えてしまったが、それまで働いていたコンビニのレジでの習慣でやってるのだなと、後で思った。 

アルバイトでレジ打ちをしている男にとっては、古代ギリシャの哲人が著した書簡集もコンビニ弁当も変わらないってことなんだな、きっと。