2024年8月29日

生成AIの快感

各地の小中高校では夏休みが終わり、今週あたりから新学期が始まっている。

今年は読書感想文などの夏休みの宿題に、生成AIを用いたものが昨年にまして見受けられるとか。

ほとんどの子どもたちより生成AIの方が(少なくとも見かけの)出来映えが優った読書感想文を書くことができる。

しかも、それをAIで見抜くことは、現時点では極めて難しい。見抜けるのは、普段のその生徒のことをよく知っている担任の先生だけだという。つまり、チェックのためにシステムは使えないということだ。

利用されたのは、読書感想文だけではないだろう。それ以外の宿題や課題にも生成AIによって「解答」されたものが、いまごろ先生の手元に山と積まれているに違いない。

今後の学校教育はどうなっていくのか気になる。文部科学省は昨年の夏、小中高校での生成AIの活用に向けた指針を公表し、生成AIが小中高生の学習に役立つ面があることを強調している。

その上で、成果物に不正行為が含まれることがある点を注意するように教育現場に求めている。

これって、ありなのか。生成AIは生徒の学習に有益であると<気の利いてそうな> ことを言いつのりつつ、その運用の責任を現場の先生に丸投げした。

例えばだが、一旦、読書感想文を生成AIに代わりに作ってもらった生徒は、もう自分の手ではそれを書かなくなることは容易に想像できる。「とても便利だけど、使い方に注意するように」などと文科省が言おうが、一度その味を覚えたら手放せなくなるのが人間の常だ。

覚醒剤を渡しておいて、「使い方に注意するように」って言ったって、一度使って気持ちよくなっちまったらいくら頭で分かっていたってもう止められないだろう。それと同じ。注意して使うようにとか理屈を言っても無理なんだから。

一旦味をしめたら止められないのは、小中高生だけではないのも明らか。こうして人は「自分で考える」という行為を急速に手放していっている。