以前は裁判所の傍聴席でメモを取ることが禁止されていたことを、朝刊の一面コラムを読んで知った。「メモを取れば公正で静かであるべき裁判の進行の妨げとなる」というのが、長年にわたる裁判所の理屈であるというから驚く。
傍聴席で手帳やノートにメモを取るのがなぜ裁判の妨げになるのか・・・。紙にペンを滑らす音が裁判の妨げになる騒音を生むのか・・・。禁止できることは何でも禁止しておこうという「役人根性」である。
それに異を唱え、国を訴えたのはアメリカ人弁護士だった。傍聴席でメモを取ることをゆるされなかったことから裁判を起こしたのである。その裁判の結果、最高裁は1989年に「メモは原則自由」との判決を出した。しかし、またここで驚くのは、その最高裁に行くまで一審、二審とも敗訴したことである。
それにしても、なぜアメリカ人弁護士だったのか。日本人の法曹関係者はなぜ行動を起こさなかったのか。「変だ」となぜ思わなかったのか。もしそう思ったことがあるとしたら、なぜ放置したのか。
先日観た映画「スポットライト 世紀のスクープ」は、アメリカ東部の新聞、ボストングローブ紙の取材チームが教会権力の腐敗を2001年夏から2002年1月まで追ったストーリーだった。
同紙の特集記事欄「スポットライト」担当の4名の記者が地元ボストンの数十人もの神父による児童への性的虐待の実態と、カトリック教会の組織ぐるみの長年にわたる隠蔽工作を紙面で暴いた実話が元になっている。
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「スポットライト 世紀のスクープ」(2015)
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ボストン・グローブでのスクープ記事がきっかけで全米にその波は拡がり、1年後の2003年1月11日にはニューヨーク・タイムズ紙が、過去60年間に全米のカトリック教会の聖職者1,200人が4,000人の子どもに性的虐待を行ったことを調べ上げた。
そんな大規模の悪弊(犯罪)に誰も気がつかなかったのか。そんなこと考えにくい。間違ったことが行われていると知っていながら、誰もそれを表だって指摘しなかっただけである。日本の裁判所の「傍聴席でメモ」とは違って、教会内、そして信者のあいだには様々な直接的利害があったことは容易に想像できる。
ただ、メディア側にも問題があった。このプロジェクトを指揮したのは、外からやってきて新たに編集局長に赴任した人物だった。同紙には、数年前に被害者を支援する弁護士から児童虐待を続ける神父たちに関する情報提供があったが、担当の記者(ボストン生まれ、ボストン育ちの今回のチームのデスク)は、その情報を「スルー」していた。巨大な権力であるカトリック教会、そして読者の半分以上がカトリック教徒であるという理由からだったのだろう。
インターネットに押されている新聞の危機的な状況の打開策といった理由もあったに違いないが、よそ者でユダヤ教徒の新任編集局長には地域とのしがらみがなかったのが功を奏した。
「内部」に長く留まっていると、人は選択的関心しか持てなくなる。自分が見たいものにしか意識が向かなくなるのだ。
同映画は、アカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した。