2024年12月29日

実感のないインチ表示はやめよう

インチ表示について考えてみる。インチキ表示ではないヨ。

手持ちのEブック(電子書籍)リーダーのバッテリーがへたってきたため、新しいものを買うことを考えている(バッテリーの交換修理サービスを提供しているところもあるようだが、僕のはモデルが古いため対象外)。

本を読むとき紙かディスプレイかというと、間違いなく紙の方が好きなのだが、海外へ行っているときはそうはいかない。電子ブックはとにかく持ち運びが便利。どこの国にいても、何語の本でもすぐに手に入れられるのですごく助かっている。手放せない。

電子書籍を読むのは、iPadのようなタブレットでもいいのだけど、kindleに代表されるEインクを用いたものの方が読みやすく、デバイスも軽くていい。

ということで、1台新調することにした。メーカーは複数ある。それぞれに機能や価格もいろいろ。大きさも複数の選択肢がある。6インチ、7インチ、8インチ、10.2インチといったぐあい。

ただそうした選択の際によく分からなくて困るのが、画面の大きさについてだ。インチの数が大きければ画面サイズが大きいのは分かるが、実際に手に取ったとき、どのくらいの画面の大きさなのかピンとこない。

電子ブックリーダーだけではない。スマホもタブレットも、デジカメのモニターも、テレビもすべてその大きさを示す単位として<インチ>が使われている。本来、インチは、主に米英で用いられている度量衡法であるヤード・ポンド法の単位である。

日本ではかつで尺貫法(長さは尺、容積は升、重さは貫)を用いていたのを1921年にメートル法(メートル、キログラム)を採用し、その後、尺貫法は1959年に廃止された。

そうやって古来用いていた尺貫法を廃止し、メートル法に移行しておきながら、なぜヤード・ポンド法の「インチ」を日本人が平気で使っているのか、なんとも不可解かつ不愉快である。

そもそも1インチが何センチかなんてことを、正確に知っている日本人がどのくらいいるのかね。100人のうち3〜5人くらいかなァ。それを知ってなければ、実際の長さを理解できないはず。正解は2.54センチ。

電子ブックリーダーのディスプレイやテレビ画面のサイズを示すのにインチが使われていることに抵抗感があるもうひとつの理由は、それらは画面の対角線の長さを示しているのであって、大きさ(画面サイズ)は表していない。

つまり、アスペクト比(画面の縦横比率)が違えばインチ数が同じでも画面の大きさは異なる。このように、現状用いられている単位は本当は分かりづらい単位なのである。

テレビやスマホ、電子ブックの画面サイズをイメージしたいときにイメージしたいのは対角線の長さではなく、その画面の大きさである面積。だとしたら、別の尺度が欲しい。

ひとつの考え方は平方センチだ。例えば32インチのワイド画面(16:9)テレビは、2,816平方センチ、64インチなら11,265平方センチになる。

うーん、これも慣れないと分かりづらい。ならば、皆が使い慣れているはがき(ポストカード)のサイズ(10センチx14.8センチ=148平方センチ)を1単位にしたらどうか。たとえば32インチのワイド画面テレビは19ps(postcards)、64インチのテレビはその4倍(2x2)の76psと表す。それぞれ、はがき19枚分、76枚分の大きさ(画面の広さ)の意味である。

この方がずっと分かりやすいと思うのだが、どうだろう。


2024年12月28日

犯人の顔になぜぼかしが必要なのか

千葉県内の企業に賊が押し入って金庫などを持ち去ったというニュース。事務所内の防犯カメラに犯行の様子が映っていて、犯人が室内を物色したり、金庫を抱えて歩いている(!)映像が番組で公開されていた。

ところが、なぜか押し入った賊の顔が視聴者に分からないよう、わざわざボカシが入れてある。防犯カメラに記録された映像がオリジナル、つまり加工されたフェイクでなければそのまま使用すればいいはず。

そうすることで犯人逮捕につながるかもしれないのに、なぜ顔にボカシを入れるのだろう。犯人たちのプライバシー保護を重視してのこと? 

 
(TBSテレビ「報道特集」から)

局の視聴者センターに電話して、犯人の顔にボカシを入れる理由を訊ねたが、担当の窓口の回答は「他のテレビ局もそうしている」とか「警察署の指名手配の犯人の張り紙には顔写真が出ている」など、ピントが完全にずれている。笑うしかない。結局、顔写真を出すことで犯人逮捕にも繋がるのではないか、とのこちらのコメントに「ではそう関係者に伝えておきます」でおわり。 

ただ、こうした映像処理は、警察などの捜査当局からの指示ではなく、テレビ局自体の判断で行っていることは確認できた。

残念ながら、これが今の日本のテレビ局の実状のようだ。

2024年12月26日

検察庁の報告書

袴田巌さんの再審での無罪判決の確定を受けて行われていた、当時の捜査に関する検証結果を最高検察庁が公表した。

その報告書のなかで、最高検察庁が奇妙なことを言っているのが引っ掛かかる。犯行時の着衣として検察が有罪の根拠とした「5点の衣類」についてのことである。

例の5点の衣類

ことし9月、静岡地方裁判所は再審で無罪の判決を言い渡し、有罪の拠りどころとされてきたこれら5点の衣類について捜査機関がねつ造したと指摘した。

だが、検察側は今回の報告書でそれは「現実的にありえない」と強く否定した。

技術的にありえないとか、時間的にありえない、といった言い方は方便としては可能かも知れないが、現実に向かって「現実的にありえない」とはどういう意味か、日本語の理解に苦しむ。

このところ検察庁内での不祥事が続いているが、ひょっとするとこうした不適切な日本語(言葉)をおかしいとも感じなくなっている感覚がそのベースにあるのかもしれない。

いや、それだけではない。捏造を認めたら、次はそれを誰が指示したかを世間から問われることになるのを怖れ、組織防衛のために嘘を承知で突っぱねていると考えるのが妥当か。

それにしても警察が袴田さんを容疑者として逮捕したのが1966年のこと。彼が死刑判決を受け、その後冤罪が明らかになり、無罪判決が確定するまでに58年がかかっている。

さすがにそこまで時間をかけてもらっては困るが、もう少しじっくり本気で検証をすべきだろう。自分たちのやった誤りはこれでさっさと幕引きとするつもりなのだろうが、国民の信頼はそれでは回復しない。

2024年12月20日

一人当たりGDPから考える

今年の年初、日本が名目GDPでドイツに抜かれたというニュースがあった。日本は4兆2106億ドル、ドイツは4兆4561億ドルだった。

それは意外なことではなく、というのも、日本の人口は減少傾向にあると言えどまだ1億2400万人もいる一方、ドイツの人口は8400万人で日本の3分の2。ずっと以前から、一人当たりのGDPではドイツは日本を越えている。

その一人当たりGDPで、一昨年に日本は韓国を下回った。さらに、今年は台湾を下回ったとの試算が出た。推計では、韓国や台湾との差は、これから年を追うごとに開いていくと見られている。ちなみに日本の2024年の実質経済成長率は、アジア・太平洋地域の18ヵ国のなかで唯一マイナス成長になる見通しである。

こうしたわが国の労働生産性の低さについて、ある種の識者と言われる連中は日本が取るべき対応としてDXの推進とリスキリングをあげる。それで問題が解決すると思っているのが実に愚かに見える。

考え方や発想、戦略的な思考を大胆に変えることなく、ただ人の手をデジタルに変えてもたかが知れている。すぐにその生産性向上の効果は逓減していく。

また、リスキリングと彼らが呼ぶものも同様。そもそもリスキングとは何なのかが不明なまま言及されている。リ・スキリングで具体的に何を学び直すのかが語られないまま、イメージだけでもっともらしく吹聴されているのが不思議でならない。

大切なことは、誰が、何を、どういう目的で、どう学び、どういった成果に結びつけるかを明確にしてからスタートしなければならないことであるのは明らかなのに。

まるでアスリートに対して、スポーツ選手なんだからとにかく体力を鍛えよ、と言っているようなもの。スポーツ選手と言ってもマラソンランナーなのか、卓球の選手なのか、ウェイト・リフティングの選手なのか、それぞれトレーニングの内容はすべて個々に異なるはず。

バカの一つ覚えで、何かあればすぐリスキリングが重要と口走るみっともなさに、いい加減辟易する。

日本経済の歯車がギシギシと軋み、やがてかみ合わなくなってきたその原因はどこにあるのだろう。経済の歯車はかみ合わずうまく廻らないだけでなく、安倍政権以来の巨額な国債の発行で借金だけが積み上がっており、やがては首が回らなくなる。

植田日銀総裁は、昨日の金融政策決定会合後に「利上げの判断に至るまでには、もう1ノッチほしい」と語ったらしいが、そもそも歯車がかみ合っていないなかで1ノッチを気にする方がおかしい。責任回避の煮え切らなさがうかがえる。


このランキングを見ると、残念ながら日本人は決してもう豊かな国民ではないなと思うとともに、海外からの旅行者(インバウンド)を受け入れることはできても、自分たちは海外に以前のように遊びに行けなくなっている状況も納得がいく。

2024年12月15日

3日かけてセーターを売りに来る

冬を控えてセーターを何枚か取り出した。これは、ペルーに行った折にクスコの町で買ったもの。

時期が8月だったので防寒など考えることなくペルーに出かけたのだが、現地は標高3400メートルの地。朝夕の冷え込みを甘く見ていた。

マルカパタという村に住む女性がベイビーアルパカの毛で編んだセーターは、なめらかな肌触りでとっても温かい。彼女は編み上がると歩いて3日かけてクスコの町へやってくるのだという。その距離は165キロだから、確かにそれくらいはかかる(東京から栃木県の那須あたりまでに匹敵する)。道中は3,000メートルを超える峠道である。 

マルタパカークスコ

マルタパカの村

マルタパカの村

僕は旅先で土産物を買うという習慣がない。理由は、旅をするときは荷物は最小限にしておきたいということと、土産物を選んで決めるというのが得意でなく、そして時間がもったいないと考えているからだ。

でもお土産ではなく、旅に必要なものを現地で調達することはよくあるし、それらは衣料品や小物、薬まで、旅から帰っても十二分に活用している。手に取るたびに旅の思い出が蘇り、懐かしい気持ちにしてくれる。

2024年12月14日

シリアとライスプディングと豊島美術館

親子2代にわたる独裁政権によって国民に対する圧政が続いていたシリアのアサド政権が崩壊した。

アサド政権に抗する反政府活動は長年続いていたが、今回はシリア解放機構(HTS)率いる反政府勢力が一気にダマスカスに入城、政府省庁や刑務所、国営放送局などを陥落させた。

長年の願いだったのだろう、市民らが心からアサド政権の終焉を喜んでいる映像が伝わって来た。ここでも前大統領の像が市民によって引き倒され、人々が喝采と雄叫びを上げていたのが印象的である。

後ろ盾だったロシアがウクライナの戦線に軍事力を注力せざるを得なかった状況を捉え、電光石火の10日間の攻防で首都を制圧したわけだ。

アサド政権の元でのシリア経済は悲惨な状況だった。かつて日産60万バレルを超えていた石油の生産は設備の老朽化などのせいで20分の1の3万バレルまで落ち込んでいた。代わりに外貨を稼ぐ手立てとなっていたのが麻薬の製造といった始末だった。 

シリアの人たちと親しく付き合っていた時があった。1980年代前半、浜松町の竹芝桟橋近くのマンションに住んでいたとき、一時、同じマンションにシリア人が10人ほど暮らしていたのである。

ある日、建物の管理人室の前で何やら揉めている様子があり、たまたま通りがかって通訳のようなことをしてやったのが、彼らと知り合ったきっかけだった。それから、彼らが日本で暮らすうえでのちょっとしたことを求められてアドバイスするようになった。

彼らは田町のNEC本社で長期研修を受けるために来日していた、シリアから派遣された通信関係のエンジニアたちだった。日本語はおろか英語もままならない人たちもなかにいて、人ごとながら日本にいる間は仕事の面でも生活の面でもさぞ大変だったと思う。

ある週末のこと、部屋のドアをノックする音に扉を開けてみると、スカーフ(ヒジャブ)を被ったシリアの女性がふたり。たいていは相手に助けを求めるような何か困ったような顔をして現れるのだが、その日はなぜかニコニコしている。で、自分たちの部屋まで一緒に来てくれという。

彼女らについていくと、そこではシリア人たちが車座になって座っていた。研修が終わる日が近づいているのだという。そうした気持のゆとりも手伝ってか、僕にこれまでのお礼を言いたいというので招いてくれたのだ。

そこで彼らにライスプディングを饗された。といっても、その時はそれが何かまったく分からなかった。目の前に出された大皿には白いかたまりがこんもり盛り付けられていて、それを好きなだけ自分の皿に掬って食べるよう勧められた。

初めて食したライスプディングはとても甘く、さらにミルクの匂いのする米粒の食感に最初戸惑ったのを覚えている。

シリアのニュースを見る度、竹芝桟橋近くのマンションの小さな一室で車座になっていたシリアの人たちの顔を思い出す。

そして、瀬戸内海の豊島に帰郷した折、近くの豊島美術館まで朝の散歩に行ったときには、あのこんもりと大皿に盛られたライスプディングを思い出すのである。

豊島美術館

2024年12月8日

銀行のいい加減な調査を問う

三菱UFJ銀行の社員が、顧客が契約している貸金庫から4年半にわたって金品をちょろまかしていた。

発覚したのは、貸金庫を利用していた客が何かおかしい、変だぞと気づいて指摘したことからだったらしい。


銀行側は、被害件数は約60人十数億円と説明している。と同時に「すべての支店の緊急点検を実施。2支店のほかに被害は確認されなかった」としているが、腑に落ちない。

被害者の数がはっきりしていないような杜撰な社内調査であるにもかかわらず、「ほかに被害は確認されなかった」とは人を馬鹿にした説明である。

いったいどうやって点検したのか。盗みの被害がなかったかどうかを完全に把握するためには、貸金庫の利用者すべてに中身を各自で点検してもらう必要があるはず。銀行預金の口座情報と違って、貸金庫の中に何が入っているかは利用者本人しか分からない。

三菱UFJ銀行はそれをやったのか、やってないのではないか。にもかかわらず、早々とほかに被害は確認されていないなんて公表して、とにかく火を早く消したいのだろうが、言っていることの筋が通っていない。

その銀行員は4年半も盗みを気づかれずにやってたんだから、他のボックス(貸金庫)からも札を抜き取ってた可能性は充分考えられるだけでなく、他にも同様の輩がいてもおかしくない。

また、10億円(!)をこえる大金が盗まれておきながら、その犯人の名前を公表しないのはなぜなのか? 自分たちは日本を代表する大銀行で、その大銀行からその社員は懲戒解雇されたのだからもうお仕置きは済んでいるとでも考えているのだろうか。

世間の常識からはずれた特権意識である。

2024年12月7日

学者と夫の距離

住んでいたマンションの火災で、政治学者の猪口孝氏とその家族の方が亡くなったという報があった。

彼のパートナーは同じく政治学者で現参議院議員の猪口邦子氏で、世間では彼女の方がよく知られた存在かもしれない。

仲の良い夫婦で、夫の孝氏はさまざまな面で妻の邦子をサポートしていたと聞く。それは大変結構なことだと思うのだが、報道された記事のなかにどうにも理解し難いところがあった。

それは、彼が政治家である妻を支援するなかで、しばしば周囲に「どうしたら邦子は総理大臣になれるでしょうか」と尋ねていたという点である。

邦子自身が一政治家として、総理大臣になりたいというのはあるだろう。しかしだ、一国の宰相にはそれなりの器というものが必要である。それが彼女にあるか。多くの人から好かれるキャラクターの持ち主のようではあるが、彼女の言動にはどこか浮世離れしたところがある。

孝氏は、その業績から日本を代表する国際的な政治学者であることに間違いはない。僕が首を傾げてしまうのは、政治についてこれまで何十年も研究してきたその専門家が、他でもない猪口邦子を「日本の総理大臣に」と願うに至る発想である。

そこにあるのは、親バカならぬ夫バカの個人的な感情のみ。その思いの前に、学者としての客観的な判断力が完全に失われてしまっている。

だが、それは猪口孝氏だけが特殊だったというわけではなく、机の上だけで学んできた専門家たちに往々にして見られる一つの特性かもしれないけどね。

2024年12月3日

石岡瑛子 I デザイン

最近の広告は面白くない。形だけ整えているだけで、表現としては死んでいるも同然。

まだ作り手の中には意欲を持ち、ビジネスの手段としての広告と表現物としての広告のせめぎ合いを買って出る志のある人もいるはず。しかし、企業(広告主)のなかからそうした度量と知性のある人間がいつの間にか消えてしまったようだ。

スマホのちっぽけな画面のなかですべてを満足させられてしまっているうちに、思考も視野も拡がりをなくしてしまったというのもある。

つまんねーなー、と思っていた矢先、石岡瑛子(1938-2012)の回顧展(石岡瑛子 I デザイン)が兵庫県立美術館で開催されているのを知り、なんとか会期の最終日に三宮の県立美術館へ足を運んだ。

彼女はグラフィック・デザイナー、アート・ディレクター、衣装デザイナー、プロダクション・デザイナーと、広告だけでなく書籍や雑誌の装丁、商品のパッケージデザイン、映画や舞台の衣装、同じく映画や舞台の舞台美術全般にわたる、アートに関しての幅広い実に多種多様な仕事をしている。
https://tatsukimura.blogspot.com/2012/07/mishima.html

そうした膨大な仕事量を沸き立つような熱量で精緻にかつ大胆に仕上げているクオリティの高さには目を見張る。

今回の展示品は60年代から80年代の広告と出版に関するものが多かった。さすがにパルコの一連の広告に添えられたコピーは今ではすっかり古くさいが、石岡のアート・ディレクションは今でも刺激的だ。