2016年5月21日

交換日記で新入社員を育てる

今日のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、ダイヤ精機(株)社長の諏訪貴子さん。12年前に同社の創業者であるお父さんが急逝され、その後社業を引っ張っている若き肝っ玉かあさんだ。


 先週、今週と彼女が書かれた『ザ・町工場』をもとにお話をうかがった。


町工場が、自分たちが期待する若い社員を獲得するのは大変だ。そして入社してきた彼らを育てるのと同様に、彼らの先輩社員がしっかりそうした若手に目をむけて育ててくれるようにするのも容易なことではない。

諏訪さんが考えたひとつの方策が、交換日記。入社してからひと月ほど、毎日その日のことを日記に書かせる。その日記は、教育役の先輩社員だけでなく、副工場長と社長の諏訪さんも目を通し、必要に応じてコメントを書き足す。

いまどき実にアナログな手法であるが、手書きの文字からは書かれた内容だけでなく、その字の乱れなどから若い社員が悩んでいる様子を感じて手遅れになる前に手をうつこともあるという。また、書き方、ノートの使い方、文字の大きさから彼らのコミュニケーション能力なども知ることができる。なんだか小学生時代に、作文に赤ペンを入れて返してくれた先生がいたのを思い出したりした。

今週と先週の選曲は、オーリアンズの「Dance with Me」とジャクソン5「I'll Be There」でした。



2016年5月12日

数字が僕を歩かせる

出かける時には、ズボンのポケットに fitbit One という運動量計を入れることが習慣になっている。歩行数、階段の昇降数、歩行距離、消費カロリーなどが記録される。

ただ、時々うっかり持って出るのを忘れる。住んでるマンションの建物を出るとき、ポケットの中を確認する。ちゃんと入っていれば、左へ。最寄り駅のひとつ先の駅に向かう方向だ。だけど、ポケットに入れ忘れたときは、右へ。最寄り駅へ自然と、自然でもないが、足が進む。

違うのは、その日の歩行記録が取れるかどうかだけ。それが励みになる。数字が後押ししている。



2016年5月11日

パナマ文書の日本人

パナマ文書の情報が公開された。21カ国・地域のタックスヘイブン(租税回避地)に設立されたペーパーカンパニーに、どこから金が向かっていたかという実態を示したものだ。

そうしたペーパーカンパニーの中には、日本の個人や法人も含まれている。金持ち国日本だから、別に不思議じゃない。

だけど、頭をひねってしまうのは、パナマ文書で名前が出た人物がメディアのインタビューに答えて、「租税回避が目的ではない」と回答していること。租税回避が目的でなくて、何のためにタックスヘイブンに会社を設立したのか。

あり得ない話だが、もし僕が数十億円の資産を持っていたとしたら、どうやってタックスヘイブンに資産を移せるか知ろうとするだろう。

喩えが卑小だが、ストリップ劇場に入ってる客が、「女の裸を見るのが目的ではない」と言い放っているようなもの。

(後日追記)
使ったことがないので(当たり前か)よく知らなかったが、タックスヘイブンの使用目的としては租税回避だけでなく、身元を隠して法人を設置できる特性を利用するものがある。例えば、財産の隠匿や資金洗浄(マネーロンダリング)だそうだ。

2016年5月8日

猫を助ける仕事

先週と今週末の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5) は、NPO法人東京キャットガーディアン代表の山本葉子さんをゲストにお招きし、『猫を助ける仕事』(光文社新書)をもとにお話をうかがった。

猫にまつわる彼女の仕事は多彩だ。ベースは、保護猫を預かり新しい飼い主を見つけるための保護猫カフェ。その発想を展開して実現させた猫付きマンション、猫付きシェアハウスなど。

賃貸マンションに入居しようと思ったら、先に猫がいるとは傑作である。それらの猫はもとはといえば保護された猫たちで、いわばレンタルである。だが、一緒に暮らせば情が移るというもの。やがて預かっていた住人たちがそのニャンコらを引き取ってくれるケースも多いという。

猫付きシェアハウスは、猫がいわば備品としてそこに備わっている感じのシェアハウスだ。猫好きにはたまらないだろう。

傾向としては減少しているものの、日本では今も多くの猫や犬が捕らえられ、行政によって殺処分されている。もちろん行政もそうした役割はまったく不本意に違いない。特に保健所のその担当者については、とても気の毒としか言いようがない。

環境省が発表している数値だが、猫の殺処分数は2011年が13万匹、12年12万匹、13年11万匹、14年8万匹となっている。同統計で犬は、2011年が4万匹、12年4万匹、13年3万匹、14年2万匹と示されている。早くこれらがゼロになって欲しい。


番組内でかけた曲は、カーペンターズ「動物と子どもたちの詩」とトッド・ラングレンの「 I Saw the Light」でした。



2016年5月2日

慣れと関心

以前は裁判所の傍聴席でメモを取ることが禁止されていたことを、朝刊の一面コラムを読んで知った。「メモを取れば公正で静かであるべき裁判の進行の妨げとなる」というのが、長年にわたる裁判所の理屈であるというから驚く。

傍聴席で手帳やノートにメモを取るのがなぜ裁判の妨げになるのか・・・。紙にペンを滑らす音が裁判の妨げになる騒音を生むのか・・・。禁止できることは何でも禁止しておこうという「役人根性」である。

それに異を唱え、国を訴えたのはアメリカ人弁護士だった。傍聴席でメモを取ることをゆるされなかったことから裁判を起こしたのである。その裁判の結果、最高裁は1989年に「メモは原則自由」との判決を出した。しかし、またここで驚くのは、その最高裁に行くまで一審、二審とも敗訴したことである。

それにしても、なぜアメリカ人弁護士だったのか。日本人の法曹関係者はなぜ行動を起こさなかったのか。「変だ」となぜ思わなかったのか。もしそう思ったことがあるとしたら、なぜ放置したのか。

先日観た映画「スポットライト 世紀のスクープ」は、アメリカ東部の新聞、ボストングローブ紙の取材チームが教会権力の腐敗を2001年夏から2002年1月まで追ったストーリーだった。

同紙の特集記事欄「スポットライト」担当の4名の記者が地元ボストンの数十人もの神父による児童への性的虐待の実態と、カトリック教会の組織ぐるみの長年にわたる隠蔽工作を紙面で暴いた実話が元になっている。 

「スポットライト 世紀のスクープ」(2015)

ボストン・グローブでのスクープ記事がきっかけで全米にその波は拡がり、1年後の2003年1月11日にはニューヨーク・タイムズ紙が、過去60年間に全米のカトリック教会の聖職者1,200人が4,000人の子どもに性的虐待を行ったことを調べ上げた。

そんな大規模の悪弊(犯罪)に誰も気がつかなかったのか。そんなこと考えにくい。間違ったことが行われていると知っていながら、誰もそれを表だって指摘しなかっただけである。日本の裁判所の「傍聴席でメモ」とは違って、教会内、そして信者のあいだには様々な直接的利害があったことは容易に想像できる。

ただ、メディア側にも問題があった。このプロジェクトを指揮したのは、外からやってきて新たに編集局長に赴任した人物だった。同紙には、数年前に被害者支援する弁護士から児童虐待を続ける神父たちに関する情報提供があったが、担当の記者(ボストン生まれ、ボストン育ちの今回のチームのデスク)は、その情報を「スルー」していた。巨大な権力であるカトリック教会、そして読者の半分以上がカトリック教徒であるという理由からだったのだろう。

インターネットに押されている新聞の危機的な状況の打開策といった理由もあったに違いないが、よそ者でユダヤ教徒の新任編集局長には地域とのしがらみがなかったのが功を奏した。

「内部」に長く留まっていると、人は選択的関心しか持てなくなる。自分が見たいものにしか意識が向かなくなるのだ。

同映画は、アカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した。