2016年11月21日

タンザニアのマチンガについて話を聞く

昨日のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」は、ゲストにサントリー学芸賞を受賞した気鋭の人類学者の小川さやかさんをお迎えした。

彼女が書いた『「その日暮らし」の人類学』は、もともとは学術論文をベースして書かれたものであるが、一般的な書籍としてとても読みやすく再編集されている。 

 
タンザニアで十年以上にわたって調査し、そこで出会ったマチンガと呼ばれる零細の露天商たちに混じって自ら露天商として生業を立てながら現地の実態を調べ上げたそのガッツは素晴らしい


彼女はタンザニアで、日本にはもう無くなったいくつもの宝ものを見つけたようだ。その中の1つが、「仕事は仕事」という考え方。どんな仕事も等価と彼らは捉え、仕事に序列を作らないことに誇りを持っている。その場その場で、何でも仕事にしてしまう逞しさ。

彼女によれば、スペシャリストではなくジェネラリストを目指しているという。ある種、リスク分散のためだ。日本のように社会が安定しているわけではないので、どこでどうなるか分からない。不安定な社会のなかで、どんな事があっても働いて食っていけるようにということか。

そして、何でもこなせる人になっておくため、仕事はつねに副業を持っている。いい仕事があれば、すぐにそれをやろうとする。いろんな仕事を組み合わせて新しい仕事をつくり出していく。実に逞しいのだ。

日本でも局所的にではあるが、副業を持つという働き方が認められてきている感じがある。企業が社員に副業を持つことを表立って認めているところもある。副業を持つことで社員が新しいスキルを身につけたり、新しいアイデアを生み、そのことで本業に刺激を与えることを期待している。

日本の管理社会の典型である日本企業が、マチンガにやっと追いついた(?)とも考えられる。

タンザニアのマチンガたちは、とても風通しがいいと小川さんは言う。特定のメンバーシップのなかでのつながりだけでなく、その場でたまたま会った人、いまここにいる人、もう会わないかもしれない人とのちょっとしたやり取りを大切にする生き方。そうした、一見どうでもいいような人と、自然なかたちで助け、助けられて生きている。

話を聞くにつれ、なんだかとても彼らが羨ましくなってきたぞー。  

番組中にかけた曲は、アルバート・ハモンドの「落ち葉のコンチェルト」。



2016年11月16日

先輩の死

学生時代のサークルの先輩、I氏が亡くなったという知らせがあった。彼とは学生時代の夏に、合宿で北海道の山々を3週間あまり一緒に歩いた事がある。生真面目な尊敬すべき人物だった。

早すぎる死には驚かずにはいられなかった。事故なのか、病気だったのか。逝去を知らせる同期からの一斉メールには何もそのあたりは書かれていなかった。

「寂しいなァ」「たまらないなァ」の一言もなく、葬儀に花輪を出すとか出さないとか、花輪は奇数じゃダメだとか、その代金をどう分担し、いつ回収するとか、葬儀業者のような話ばかりがメールで交わされるのを見て、その後のメールを読まなくなった。

彼の若かった頃の顔を思い浮かべながら、静かに手を合わせ冥福を祈った。

2016年11月13日

勘違いを生んでいるMBA

『結論を言おう、日本人にMBAはいらない』という本を、かつての同僚である遠藤功さんが出した。日本のビジネススクール、とりわけ彼が在籍していた早稲田のビジネススクールに対する批判の書である。

日本のビジネススクールの世界のなかでの位置づけ、そこでの問題ある教授たち、MBAという言葉に振り回される学生と志願者、今さらながらに遠藤さんが言いたいことを沢山抱えて早稲田を辞めていったのが分かる。

彼は、大学院という場で経営学を勉強することをすべて否定しているのではないと思う。ただ、閉ざされ管理された大学という場でのそれの限界を指摘しているのだと僕は読んだ。

その上で、ビジネススクールの姿勢に大いなる疑問を突きつけている。

結論を言えば、日本のMBAにはほとんど価値がない。ビジネススクール側がどんなに宣伝しようが、日本でMBAをとっても、劇的に人生が変わることなど期待できない。 
確かに、受験希望者を集めて行われる大学の説明会の場で、大学側の人間がこの数年「MBAはあなたの人生を変えます」というような惹句を投げかけていたのは浅薄すぎると言わざるを得ない。

学位でしかないMBAに人生が変えられたんじゃ、寂しすぎる。人の人生は、その人にしか変えられないもっと重たいものだろう。


2016年11月11日

転職しづらい社会という不幸

当時24歳だった電通の女性社員が、昨年12月に会社の寮から身を投げて亡くなった。原因として考えられている第一の要因が、過剰な残業である。

昨年の秋頃から仕事量が増大し、残業を繰り返す日が続くだけでなく、休日をほとんど取れなくなっていた。心身共に疲れ果てていたことをうかがわせる彼女のメールやツイッターでのつぶやきが残されいる。

これから人生を謳歌していくはずの若い人が自らの命を絶つという悲惨な出来事だが、それにしても不思議に思ってしまうのは、仕事の場で周りにいた人たちはなぜ助けの手を差し伸べなかったのかということ。

在宅勤務で一人で働いていた訳ではない。彼女と上司の間には何人もの先輩社員がいたはずだ。同期も近くにいたことだろう。しかも彼女は会社の寮に住んでいたと云うではないか。そこでは同じ釜のメシを食っていた仲間がいたはずなのに。

毎晩深夜に会社から戻り、メイクを落とす気力もなくベッドに倒れ込む毎日。髪を整える時間もなくオフィスに出社し、そのことで上司から叱られたり、土日も寮から会社に出かける日々が続けば、放っておいても周りがその異常さに気付くだろうに。なぜ助けてやれなかったのか、悔やまれる。

一昨日開催された厚生労働省主催のシンポジウムに彼女の母親が参加し、過労自殺で娘を失った無念さを語った。昨年11月、彼女は母親に対し「上司に異動できるかどうか相談し、できなければ辞める」と語っていたらしい。

それに対して上司は「仕事を減らすから頑張れ」と答えたが、長時間労働は解消せず、12月に命を絶ったという。無責任で問題解決能力のない上司だと思う。

こうした事件を受け、国も企業のなかでの労働実態に目を光らせるようになってきているが、それだけで問題がなくなるとは思えない。企業の業績が向上せず、仕事量が変わらなければ、社員は会社内でなくてもどこかで仕事を片づけなければならなくなる。決まった時間にオフィスの灯りを一斉に消したからといって解決にはならない。

過労死の問題は、今に始まったことではない。僕が英国の大学院に留学していた頃だから、もう四半世紀前になるが、その頃も日本では過労死が大きな社会問題となっていた。英国人の同級生たちからは、日本人はどうしてそんなに(死ぬほど)働くのか、頭がおかしいんじゃないかと言われたのを覚えている。

その頃、過労死に相当する英語はなく、当時われわれは Death by overwork という言葉を使ってその事を議論していた。その後、Karoshi は英語の辞書に載るようになった。
https://en.oxforddictionaries.com/definition/karoshi
しかし、日本の状況はその後もほとんど変わっていないように見えて仕方がない。

先月17日の日経朝刊に「転職しやすさ賃上げを刺激、勤続短い国は潜在成長力高め」とする記事が掲載されていた。OECDと米労働省のデータをもとに分析されたもので、勤続年数10年以上の割合が小さいほど、潜在成長率が高いことが示されている。

2016年10月17日付日経朝刊3面から

転職が活発で自由になされている国ほど労働力の有効活用がなされ、会社も国も活性化されて、結果として経済全体を押し上げる動きに繋がっていることが推測できる。

不要なリスクを感じることなく、人がもっと自由に働く場を求めて転職できる社会をつくっていかなきゃと思う。転職することで差別されたり、非正規でしか働けなくなるなんてことがあってはいけない。そうした社会ができれば、ブラック企業なんて呼ばれている類の会社は自ずから淘汰されて無くなっていくはずだ。

実際は、一人ひとりが古い労働感をぬぐい去り、働くことに対する意識を強く変えていくことから始めるしかない。

自殺した彼女には、自死を選ぶ前に倒れ込んで入院しちまうか、会社を辞めて欲しかった。

2016年11月5日

慶応大学に「気品」はあるか

慶応大学のサークル、広告学研究会の学生たちが集団で女子学生に乱暴をした事件に関し、大学が処分を行ったという報道があった。

処分の理由は、下記のように「気品をそこね、学生としての本分にもとる行為をした」ことだとか。んっ?「気品」って何だ!? 


大辞林によると、気品とは「気高い趣。どことなく凛として上品な感じ」とある。暴行を行った男性学生らが、こうした趣からまったくかけ離れた存在であることは言を俟たないだけでなく、疑問を感じるのは慶応大学が何を以て学生たちにこうした「気高い趣」をもとめているのかということだ。

今回の事件は、慶応の学生たちに<気高い趣>があるかどうかというようなレベルの話ではない。蛮行を行われた末、性行為の様子まで撮影された女子学生はどうなる? 報道が事実なら、慶応大学の大学としての矜恃と気品のあり方を問いたい。

処分内容も実に慶応らしい?! こんな悪童どもは普通なら問答無用で即刻退学だろう。

ところが、無期停学の処分だとか。無期停学の「無期」は、永久という意味ではない。現時点で期限を定めていないだけのこと。ほとぼりがさめれば、密かにこれらの学生を大学に復学させるのだろう。

福澤先生が泣いている。