来週、北京で第24回目の冬季オリンピックが開催される。オミクロン型コロナウイルスが世界的に蔓延してなかでの大会となる。
日本ではオンエアされていないが、IOCがUncommon Creative Studioというロンドンの広告制作会社に作らせた北京冬季五輪のCMが世界で流されている。
世界中が冬季オリンピアンとシンクロしていく様を表現するのがコンセプトなんだろうけど、ちょっとね。
来週、北京で第24回目の冬季オリンピックが開催される。オミクロン型コロナウイルスが世界的に蔓延してなかでの大会となる。
日本ではオンエアされていないが、IOCがUncommon Creative Studioというロンドンの広告制作会社に作らせた北京冬季五輪のCMが世界で流されている。
世界中が冬季オリンピアンとシンクロしていく様を表現するのがコンセプトなんだろうけど、ちょっとね。
動画投稿アプリTik Tokの日本法人が、インターネット上で影響力を持つインフルエンサーたちに金を渡して特定の動画をTwitterに投稿させ、拡散しようとしていたと報じられた。
映画「クライ・マッチョ」は、クリント・イーストウッドが50年前に「恐怖のメロディー」で監督デビューしてから40作目になる作品である。今や誰もが認める大監督である
もっと本を読もう、映画は映画館で観よう、と思い、先月契約を止めたネットフリックスを再契約してしまった。そして「新聞記者」6話分を一気見してしまった。
一晩で一気に見るつもりはなかったのだけど、次の話がどんどん再生されていくんだもんなあ。うまいというか、ほんとよくできているよ。
ストーリーの中心は、安倍元首相の例の森友学園問題で近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんが自殺にいたったことと、それに絡んだ官邸と財務省の作為だ。
本件、関係者はもう終わったと胸をなで下ろしていたかもしれないが、これで再燃するかもしれない。
日本のメディアには官邸や総務省からの圧力がかかっているだけでなく、局の番組スポンサーも政府の意向を気にしてできるだけ波風を立てない考えをもっている。だから報道姿勢も腰砕けというか、見て見ぬ振りを続けているように思える。
だが、ネットフリックスにはそうした忖度は基本的にほぼ無用のようだ。しかも、このドラマの視聴者は日本国内だけでなく、世界中の人間がそれぞれの言語の字幕付きで見ることができるのが何と言っても圧倒的だ。テレビ局も番組スポンサーも、フィルムの配給会社も劇場興行主も関係ない。コンテンツそのものに力があれば、何億人という人がダイレクトに見てくれる。
もとは米海兵隊員で名うての狙撃兵だった男が、メキシコとの国境近くの田舎町でいまは小さな農場で愛犬とだけ暮らしている。
その彼がある日、訳あってメキシコの麻薬カルテル組織から追われてアメリカに逃げ込んできた親子と出会う。母親は撃ち殺され、彼はメキシコ人の11歳の少年を連れてシカゴを目指すことになる。
ラジエーターの壊れたクルマで北へひた走る彼(リーアム・ニーソン)と少年、ワンコも乗ってる。映画『マークスマン』は、彼らに対して執拗に迫ってくる組織の殺し屋たちとの戦いを描いたロードムービー。
本作品でのリーアム・兄さん、じゃなかった、ニーソンが演じる主人公は『グラントリノ』のイーストウッドを彷彿とさせる。
どこか親近感があると思ったプロットは、ジョン・カサベテスの『グロリア』を連想させる。
観客は50代以上がほとんどだった。
マーク・ラファロが主人公の弁護士ロブ・ビロットを演じた『ダークウォーターズ』は、ビロットも含め、映画に登場する全員がすべて実在の人物である。
ということは、ストーリーも事実に基づいているということ。アメリカの大化学企業デュポンが起こしたとてつもない環境汚染と、その被害者である多くの住民と、たまたま彼らの側で闘うことになった弁護士を描いている。
デュポン社が生んだ巨大なイノベーションのひとつである<テフロン>が製造される段階でPFOA (PFAS) という化学物質が排出され、デュポン社はそれが持つ強い毒性を種々の実験調査で知っていながらたれ流すことで水を汚染していた。多くの住民や従業員が癌で亡くなり、女性は顔面が畸形化した子どもを産んでいた。
何十年も前からその毒性を確認しておきながら、莫大な利益を生む製品を守るために自分たちが犯している犯罪を隠蔽し、誤魔化し、政治力に訴えてもみ消そうとする世界的な巨大化学会社。その存在はどこの国にもあり、珍しい存在ではないかもしれない。
しかし、その犯罪的行為を真正面から糾弾する映画は珍しい。デュポンやテフロンは、実在する企業名、製品名。舞台とされている街(ウェスト・バージニア州パーカーズバーグ)も実在の街だ。登場人物の名前も実在の人びとだ。
アメリカには、こうした映画を作る勇気があることに敬服する。正義を求め、それを真正面から堂々と主張しなければと考えるスピリットが多くの人のなかに生きている。
この映画、僕は個人的に音楽の使い方が気に入ったところがある。たとえば、主人公の弁護士ビロットが実状を確認しようと初めてウエスト・バージニア州を車で訪れるとき、BGMにジョン・デンバーの「カントリー・ロード」が流れる。
そうだ、覚えているかな。こんな歌詞で始まる。
♪ Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountains, growin' like a breeze
Country roads, take me home
To the place where I belong
West Virginia, mountain momma
Take me home, country roads
「♪まるで天国、ウエスト・ヴァージニア」と始まる歌で、皮肉が効いている。
ビロットは文字通りその身を掛け、デュポンというゴリアテ相手に何年もの闘いを挑み、やっと裁判に持ち込む。その裁判は、いま現在も続いているという。水俣と同じだ。
映画のラスト、懐かしい声がスクリーンから流れてきた。Johnny Cashが歌う「I Won't Back Down」である。聴いてて泣きたくなったよ。
新聞のサイトでGIGAスクール構想とやらの現実を映す写真を見て、思うところがあった。
GIGAスクール構想は、文部科学省が2019年12月に打ち出した全国の小中学校生に一人一台のパソコン(タブレット)端末を渡し、学校には高速大容量のネットワーク環境を設けるという政策だ。
この写真、教室内で子どもたちが授業の終わりに先生の板書内容を「一人一台」のタブレット端末で撮影している。前の児童の頭が邪魔なのか立ち上がり腕を伸ばして撮影しているようだが、みんながそれをやれば結局は同じ。
これはどこかで見た風景であり、僕が教える大学院(ビジネススクール)でも、数年前まで教室で「カシャッ」「カシャッ」という音が響いていた。
不愉快なので禁止にした。不満の声が出たが、こちらが話をしているときに不遠慮に聞こえてくる撮影音がノイズであるのはもちろんのこと、ノートを取るという作業を放棄して写真さえ撮っておけば安心、という学生の思考放棄に問題があると考えたからだ。
手を怪我していてノートが取れない、だからしかたなく黒板(ホワイトボード)を撮す、そしてちゃんと後で見返す。というのなら、もちろんOKだ。が、そうでもないのにホワイトボードやプロジェクタースクリーンをパシャパシャやって、それで「学んだ」気になっているだけなのが大半である。
確かにノートを取らないという学習スタイルはある。その時に自分の頭で考え、理解し、覚えるべきことは記憶できるという自信があればそれでいい。あるいは、理解することを主眼に据え、記憶も記録も自分には不要だと割り切れば、それもそれで構わないだろう。
だがそうした考えでノートを取らないのではなく、写真さえ撮っておけばなんとなく安心、と思っているのが窺える。
本来、ノートを取る、つまり自分の言葉で記録しておくためには、まず内容を理解し、残しておくために記録するべきことを峻別し、文字や記号などでそれを留めておくことが求められる。そうした当たり前のことをやっているかが問題だ。
ジャーナリストの故筑紫哲也さんは手考足思(もとは陶芸家、河井寛次郎さんの言葉)をつねづね語っていたが、タブレットのカメラでカシャッとやって済ますのは学習することとはほど遠い。
小学生の時からそんなことをさせてどうするのだ。彼らのノートパソコンやタブレットの中にはやがて大量の写真情報が蓄積されていく。しかしそれは、学ぶこととはまったく無関係。
そういえば、ムーンライダーズに『カメラ=万年筆』という傑作アルバムがあったが、これからの小学校は、さしずめ「タブレット=カメラ」と成り果てるのだろう。
映画『ボストン市庁舎』(原題:City Hall)は、今年の1月1日に91歳になった映画監督、フレデリック・ワイズマンが制作したドキュメンタリー。
劇場での上映開始が今朝9時で、途中10分の休憩を挟んで終了したのが午後2時前だった。本編274分。鑑賞料2800円。半日仕事になってしまったが、時間をやり繰りして出かけた甲斐はあった。
今回の作品はワイズマンの43本目のドキュメンタリーになるが、彼の作るものはある意味で独特だ。ナレーションなし、BGMなし、インタビューなし。フリルの付いたテレビのドキュメンタリー番組に慣れた向きには素っ気ないだろうが、余計な飾りや制作者の意図を拝した姿が伝わる。
制作の場では、目の前で起こっていることをワイズマンを含めて3人という少人数のクルーが映像と音声に収めていく。監督であるワイズマンは、撮影後の編集はもちろん、現場では音声も担当しているらしい。
今回の彼の作品がこれまでのものと違う点は、ある特定の人物に焦点を当てていることかもしれない。それが、当時のボストン市長であるマーティン・ウォルシュ(現在はバイデン政権下の労働長官)だ。
彼が市庁舎や警察などの関係機関はもちろん、市民や各種NPOなどの集会に出かけて話をするシーンがたくさん出てくる。そこでのウォルシュのスピーチ、そして市民などのやり取りが日本人には珍しく映る。言葉の力というものを見せつけられ、実にまぶしい。
行政は何のためにあるのか、市長の存在意義は何なのか、市民との関係はどうあるべきなのか、実にフランクにそして的確に、かつ誰にでも分かりやすく説明をする。
質問や苦情を投げかける市民の方も容赦はない。ストレートに自分(たち)の考えや要望を伝え、対応を求める。成熟した民主主義ってこうなんだろうなって、観ていて感心することしきりだった。
ボストンはアメリカのなかでも歴史のある古い街。だから、さまざまな人種が交錯する。そして格差や不均衡、差別が存在している。性のありかたも多様だ。それぞれのバックグラウンドを抱えた市民やコミュニティが、自らの生を求めるなかでストレートに主張をぶつけ合う。言葉を尽くして相手に訴えかける。
忖度なんて考えていたら何も始まらない。で、当然ながら言葉には言葉で対応する。その力強さと発展性は、残念ながら日本には根本的に欠けているものだ。
ところで、この映画こそ日本の役所で働く連中にも見せなきゃ、と思ったら、今日行った映画館では市役所勤務の人を対象にした「市役所割」をやっていたよ。
いい考えだと思うけど、本当は各自治体が自分たちで上映会を行って、行政のあるべき姿に関して議論などしたらいいと思う。
地球温暖化は避けがたい現実である。だが、地球温暖化や気候変動の原因を資本主義に収斂させる単純な思考には首を傾げてしまう。
そもそも、こうしたことは「主義」の問題なのか。地球温暖化や気候変動の原因やそれらへの対応はもっと科学的な議論であるべきだ。
人類の経済活動が地球を破壊するとする人新生の考え方を唱える人は、「主義」の転換が問題解決につながると考えているらしく、具体的にいえば資本主義を共産主義に転換することが必要と言う。
だがそれで何か変わるのか、僕にはよく分からない。中国はCO2を排出していないのか。してる、大量に。
われわれは、環境保全を目的として共産主義の世界で生きるべきか。われわれは、そもそも何のために生きているのか。これは哲学の問題だが、ただ生物として生存するために、そのことを第一義的にして生きることに意味があるか疑問を感じる。
大阪市立大の斎藤幸平の本で「人新世」という言葉が知られるようになったが、そもそもその言葉の定義すらまだ定まっていない。
人新世という用語は、科学的な文脈で非公式に使用されており、正式な地質年代とするかについて議論が続いている。人新世の開始年代は様々な提案があり、12,000年前の農耕革命を始まりとするものから、1960年代以降という遅い時期を始まりとする意見まで幅がある。(Wikipedia)
それは12,000年前からか、それとも60年前からか、という訳だ。これでは議論のスタート地点にも立てない。
60年前から(1960年以降)というのは、以下のグラフからの指摘だろう。確かに異常気温が顕著になっているのはその頃からだ。だが、その当時はソビエト連邦はまだ崩壊していなかったし、多くの東欧の諸国も共産主義を標榜していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%96%B0%E4%B8%96 |
In my book, I argued for de-growth communism which became very popular currently in Japan ....
とセドラチェクに迫ったが、very popular in Japan はないだろう。彼の本がどれだけ売れたのかは詳しく知らないが、たとえ100万部のミリオンセラーだとしても、日本人の1%以下。そして、その本を購入したからといって、購入者のすべてが彼の主張する<脱成長コミュニズム>に賛同しているわけでもない。
セドラチェクは、かつてソ連に侵攻されたことのあるチェコの学者ということもあって、コミュニズムの復権には注意深さを崩さず、きわめて懐疑的である。
そのチェコからネットで対談参加している彼に対し、日本の実状など分からないからとこうしたハッタリをかますのはいかがなものか。
そうした人間を精神分析の視点から論評することはたやすいが、それはここでは書かない。ただ言えるのは、こうした人物は信用出来ないということである。
今朝の日本経済新聞の一面。「社内の幸福度の低さが企業の成長を阻み、それが社員の不満をさらに高めかねない」とある。その元になっているのは、同紙に掲載されているグラフ化された以下の調査結果だ。
これで分かるのは、せいぜい社員の幸福度と企業業績の間に相関関係がありそうだということだけ。ところが同紙は、「社員の幸福度の低下」が「企業の売上高の低下」を導くという因果関係があると一方的に解釈している。
そうではなく、「企業の売上低下」が「社員の幸福度の低下」を導いている可能性をなぜ考えないのだろうか。あるいは、ここにはない別因子の「経営の拙さ」が「企業の売上高の低下」と「社員の幸福度の低下」の双方を導いているとは。
日本企業では社員の幸福度が低いことが原因で企業業績がはかばかしくない、だから社員にもっとハッピーになってもらうことが肝心である、と読者に向けて言いたいようだけど理屈に合ってない。
そもそも目を向けるべきは社員の心の状態ではなく、企業経営の巧拙の方だろう。
30代半ばの知り合いが昨年末でそれまで勤めていた会社を辞めた。今年から別の業界に飛び込むらしい。
彼の年齢から、ダグラス・アダムズの法則と呼ばれる考え方があるのを思い出した。
それは、「人は、自分が生まれた時にすでに存在したテクノロジーを自然の世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じる」というものである。
1月1日の各紙一面トップ記事をさらった。
朝日・・・「未来予想図 ともに歩もう」
毎日・・・「露、ヤフコメ改ざん転載 政府系メディアが工作か」
読売・・・「 米高速炉計画 日本参加へ」
東京・・・「「脱原発」叫び強くなれ」
日経・・・「資本主義 作り直す」
朝日、東京、日経は連載特集の初回記事だ。朝日は「未来のデザイン」、東京は「声を上げて デモのあとさき」、日経は「成長の未来図」というシリーズが始まる。
原発に関連した記事を東京新聞と読売新聞が取り上げているが、論調はきわめて対照的だ。読売は、高速炉計画への参加について、その難しさを指摘しながらも必要性を訴えようとしている。一方、東京新聞の一面は、直接原発に関した内容の記事ではないが、フリーの写真家を取り上げるなかで「脱原発」の意味を読者に語っている。 両社のスタンスがよく分かる。
特に元日だからと気張ったところがないのが毎日だ。ロシアの政府系メディアが日本の雑誌、ニュースサイトの読者コメントを改ざんして転載していることを指摘している。今回、そうした改ざんを毎日新聞が確認したものだけでも「週刊朝日」「ニューズウィーク日本版」「ヤフーニュース」がある。ロシアの主たる目的は、日米分断をあおることだと分析されている。
勝手に記事を書き換えたり、原文に書かれていないコメントを自分たちの情報操作を目的に勝手に付け加えていることが明らかにされた。ロシアのこうした情報操作はソ連時代からのもので、第二次大戦前から世界的に巧妙に行われていて、いわばお家芸なんだろう。
人のいい日本人たちは、これまでこうした旧ソ連やロシアによる情報操作と不正な手口でどれほど不利益を被ってきたことか。毎日新聞はいい仕事をしている。
その一方でノー天気としか思えないのが、朝日新聞だ。12月に横浜アリーナで行われたDREAMS COME TRUEのコンサートを引き合いに、ともに手を携えて未来に進もう、とのご託宣だが、まるで朝日中学生新聞かと思った。
元日の新聞一面は、各紙、自分たちの姿勢を読者に表明する場としてそれなりに時間をかけて考えられているはず。いまそれらの新聞各紙が何を考えているか、何に依っているかを知る手だけになる。
政府はよほど国民にマイナンバーカードを持たせたいらしい。何人ものタレントを使い、複数バーションのテレビCMでその取得を熱心に促している。
そのCMのひとつがこれ。
「いまもう国民の3人に1人が持っているっていうから・・・」
と、佐々木蔵之介が話すこのテレビCMに、なんだか馬鹿にされていると感じた視聴者も多いことだろう。理屈はなく、ただ<船に乗り遅れるよ>と相手を不安がらせようとしているだけ。
船と言えば、「沈没船ジョーク」と呼ばれる各国の国民性を揶揄した鉄板ジョークがある。こんな話だーー。
様々な民族の人が乗った豪華客船が沈没しそうになる。それぞれの乗客を海に飛び込ませるには、さてどのように声をかければいいか?
イギリス人には、「こういうときにこそ紳士は海に飛び込むものです」と伝える。
ドイツ人には、「規則ですので飛び込んでください」と伝える。
アメリカ人には、「今飛び込めば貴方はヒーローになれるでしょう」と伝える
イタリア人には、「海で美女が泳いでます」と伝える。
フランス人には、「決して海には飛び込まないで下さい」と伝える。
中国人には、「おいしい食材が泳いでますよ」と伝える。
日本人には、「もうみなさん飛び込んでますよ」と伝える。
総務省が作ったこのテレビCMが言わんとしていることは、これと同じ。「何も考えなくていいから、さっさと右へ倣えでカード作れ」って。
深層心理の部分で国民に向かって「海に飛び込めー」って言ってる。
映画「たちあがる女」は2019年作のめっぽう元気で、気が利いたアイスランド映画である。
主人公ハットラを演じるハルズ・ゲイルハルズドッテルを見ていて、「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドを連想した。
現代のアイスランドを舞台に、その環境破壊を食い止めるために立ち上がった一人の女性を描いたユニークな作品で、自然にあふれたアイスランドの地にも環境汚染の波が押し寄せていることが分かる。中国資本が注がれたアルミニウムの製錬工場である。
アルミニウムの製錬には大量の電気を必要とするが、アイスランドは火山の国、すべての電力は地熱でまかなわれていて電気代が安い(タダ)からだ。
平原に延びる送電線をショートさせ、鉄塔を一人で爆破する彼女は一人で立ち上がり、戦いを続けている。
警察などから追われる彼女を赤外線カメラで執拗に追うドローンは中国の象徴だ。姿を捉えられないように死んだ羊の皮をまとって逃げるハットラ。途中、彼女を追うドローンをハットラが弓矢(!)で仕留め、手に握った石で叩き潰すシーンは「これが私たちのあんたへの回答よ」と聞こえた。その時、彼女は彼女のヒーローであるネルソン・マンデラの写真で作ったお面を被っている!
彼女にはオルガンと太鼓、スーザフォンの謎の3人からなる音楽隊が寄り添っていて、時に彼女の気持ちを象徴するように、時に彼女を励ますかのようにリズムを刻む。さらに3人の若い女性からなるコーラス隊もあちこちのシーンで登場する。不思議なユーモラスさを醸し出している。
映画のなか、自転車でアイスランドを旅するスペイン人の若者が方々のシーンで登場する。彼はその都度、ハットラが巻き起こす騒動に巻き添えを食わされる。気の毒だったり、情けなかったり。でも可笑しい。
太古の土地が残り、原始性豊かな自然のなかで暮らすアイスランドにも、外国からの資本が容赦なく流入し経済発展の名の下で環境破壊が行われていることへ、この映画は警告を発している。快作である。
昨日、千葉から遊びに来た友人が持って来てくれた煎り落花生をバッグに放り込んで南の島へ。横浜とは気温が10度以上違う。
ベランダでその落花生をむきながら本を読んでいると、次々と鳥がやって来る。豆の匂いなのか、殻を剥いている音なのか、それとも食べてる様子に誘われてなのか。
人に慣れているらしく、落花生の実を投げてやると器用にキャッチする。
駆け足で瀬戸内海に浮かぶ直島の美術館3館、地中美術館、ベネッセ・ミュージアム、李禹煥(リー・ウーファン)美術館を回ってきた。
特に今回の目当てだった地中美術館は、安藤忠雄が設計した独特なデザインによる美術館。建物自体が美術館のひとつの作品だ。
実は、2004年にこの美術館がオープンした時に一度訪問している。夏の暑い日だったのを覚えている。表の駐車場に延びる長蛇の列に並び、1時間近く待っただろうか。結局、暑さに疲れて諦め、入館しないまま島を去った覚えがある。
今回は、コロナ感染拡大防止のために事前予約制による入館なので、「これなら」と思い訪ねた次第だ。
そこには3人の作家、クロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品がそれぞれの展示室に分けられて恒久展示されている。
モネの部屋には5点の「睡蓮」が展示されていた。いずれもモネが70代半ばを過ぎて取り組んだ作品。会場スタッフの人と、モネが高齢になって煩っていた白内障がモネの作品に与えた影響について意見を交わす。
地中だけど、展示スペースには天窓が設けらえていて、柔らかな空間の雰囲気が醸し出されている。とりわけジェームズ・タレルの「オープン・スカイ」は天窓とそこから差し込んでくる光も作品のひとつになっている。
ジェームズ・タレルの会場では、彼の作品が展示されている新潟県十日町の「光の館」(2000年に越後妻有トリエンナーレのために制作)に展示されているタレル作品をめぐってスタッフの方としばし歓談。
彼女らは、本当はそうした会話は禁じられているのかも知れないけど、ほかに誰も客がいないし、こちらが話しかけると色々と専門知識を教えてくれるのでありがたい。
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ブルース・ナウマン「100年生きて死ね」1984年(ベネッセ・ミュージアム) |
ミュージアム・カフェのテラスから夕暮れの瀬戸内海を望む |
LINE Payでキャンペーン参加者の個人情報が漏洩していた。下記の記事にあるように2ヵ月にわたって外部からアクセスできる状態になっていた。
そもそも、LINE社のセキュリティに関しては、2014年頃から問題点を指摘する声も一部ではあげられていた。
https://facta.co.jp/article/201407039.html
それにしても、こうした記事が掲載される際にLINEについては「日本で8600万人のユーザーを持つ・・・」という説明がメディアでなされているが、どうも信じられない。
国内ユーザー数8600万人というのはLINEが発表している数字だろうが、これは全国の15歳以上すべての77%にあたる。12歳以上に対象を広げても73%だ。日本全土のほぼ4人に3人がLINEユーザーということになるが・・・。
総務省が2021年6月に発表した「通信利用動向調査」によると、2020年度の日本国内のスマホの利用率は下図のように68.2%である。しかもこの数字は「無回答」を除いたものなので、実数はそれより低い可能性が高い。
先のLINEの国内ユーザーが8600万人というのとは辻褄が合わない。
最相さんの『辛口サイショーの人生案内DX』(ミシマ社)が面白かった。
ところで、この本のタイトルのDXには<デラックス>とルビが振ってある。今流行りのデジタル・トランスフォーメーションではないところが昭和で、僕が気に入ったところ。
そもそも、今ごろデジタル・トランスフォーメーションが重要などといって口角泡を飛ばしている国家も企業も、それだけで自分たちが既に周回遅れなのが分かってるのかね。
たとえば承認プロセスのハンコをどうやってなくすかとか、紙の書類を電子化して効率化を図るなんてことを経営者が考えている段階でアウトだ。沈みゆくタイタニック号の甲板の上でデッキチェアをきれいに並び直しているようなもの。やってる感はあるが、それだけ。
大切なのはMX、つまりマネジメント・ トランスフォーメーションなのだよ。
たとえよく切れる包丁を手にしたからといって、それで素人がいっちょまえの板前仕事ができるわけではない。優れた料理の提供に必要なのは、そして繁盛する店をやり繰りするのは、客が何を欲しがっているかという理解とそれに応える技術、そして豊かな経験と想像力なのだ。
それをなしに、日本の経営者は、何か「魔法の道具」さえ手に入れればすべてうまくゆくと考えてはいないだろうか。