2015年7月25日

農的な生活に生きる

今朝のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『農的な生活がおもしろい』(さくら舎)を書かれた東京大学大学院教育学研究科教授の牧野篤さん。


牧野さんと教え子の方たちが愛知県豊田市で行った里山プロジェクトは、農村に外部から人を入れ、その人たちを通じて新しい生き方を創造するとともに、地域社会の方にも新しい発見の機会をあたえ元気にしようというもの。

お金が第一の基準となっている企業社会とはことなる、自給自足と助け合いによる日々の暮らし、そしてコミュニティをベースにした人間関係の構築の実験である。

農村に入る若者たちは、ハローワークで「農的な生活をたのしみませんか」との触れ込みで集めた。そうしたら募集10名のところに、50名の応募があった。書類で20人に絞り、最終的には地元のおじいちゃんとおばあちゃんに「この子ならいて欲しい子を選んで」ということにした。地元の老人たちとの相性がとても大切なのである。

選ばれた10名は、ある面、都会の世界の生活に疲れていた若者たちだったらしい。1人をのぞいて、これまで正規職についた経験のない若者たちである。

彼らはその村に入ってからは、町内会のいろんな雑用的な仕事を進んでやり、運動会に参加したり、子どもたちと友だちになることを通じて地元社会に溶け込んでいった。

その結果、ほぼ10名全員が地元に定着し、メンバー同士で結婚するメンバーがいたり、地元の男性と結婚した女性がいたり、そしてその村で25年ぶりの赤ん坊が生まれる。喜んだ地元のおばあちゃんらは毎日面倒を見に来てくれる。

その後、そうした試みが広く知られるようになって、次第に村に人が集まり始めた。田舎だから、住むところは空き屋を数千円程度で借りることができ、食事は基本的には農業をやっているので自給自足。あるいは野菜などを分けてもらう。つまり、お金の支出をほとんどすることなく過ごす日々の生活。おもしろいなあ。 

僕のように農的というよりノー天気に生活をしている身には、きょうの話はとても新鮮に思えた。


今朝の一曲に選んだのは、Mike & The Mechanics の The Living Years。



2015年7月14日

文科省はどこへ行く

今日の新聞に「大学はどこへ行く」と題したコラムが掲載されていた。短い文章ながら、大学の現在の状況をうまく描いている。

(クリックで拡大)

筆者がここで引いているJ・S・ミルの言葉を持ち出すまでもなく、「本質を見失っては小手先の目標や計画をいくらつくってみても、そこから良いものは生まれない」。

日本の教育行政は、このところずっと迷走としか言いようがない。しかもそれは、確信犯的に行われている。

コラムの筆者が取り上げている法科大学院がひとつの例だ。交付金をちらつかせて音頭を取って自分たちがつくっておきながら、受験者数や司法試験の合格者率が低い大学には「お前ら、なにやってんだ」とばかりの上から目線の無責任姿勢である。

「産業界の要請に応えて」だか何だか知らないが、彼らが「金にならない」と勝手に判断をくだす文系・教育系学部と大学院に関するリストラ要請など、担当官僚はどれだけ腹をくくってやろうとしているのか。責任は取れるのか。・・・取るわけないか。

官僚が自分の在任中に、次の出世のために何か目立った「功績」を残すがための行いとしか見えない。

同じ新聞紙上に「取締役 半数以上退任へ ー 東芝新体制、社外を過半数に」の見出しがついた記事がある。不適切会計問題を指摘された東芝が、現社長や現会長(前社長)を含む多くの経営陣を退任させるらしい。社外取締役を半数以上にするなど、ガバナンスの改革に着手する。

責任という概念は企業だけでなく、役所にも当然のごとくあってしかるべきだと思うのが、責任者がきちんと責任をとったという話はとんと聞かない。

2015年7月11日

本で床を抜いちゃいけない

今朝のFM NACK 5「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)の著者、ノンフィクション・ライターの西牟田靖さん。 

 
引っ越しをきっかけに、増殖し続ける本の始末に悩んだ西牟田さん。本の重量できしむ床や押し入れの写真をネットに載せた途端に、実際に床が抜けた現場の例がいくつも寄せられてきたらしい。

そうして、さまざまな「床が抜ける」実例を知った西牟田さんがとったひとつの方策は、書籍の電子化(自炊)。しかし、それですべてが順調に片づいた訳ではない。なくなった本への喪失感、自炊するための費用と時間。それらをどう解決していくか・・・。 

本をどう処分するかという問題は、簡単なようで簡単にはいかないから不思議だ。

まずは、番組のなかでも紹介したノンフィクション作家の内澤旬子さんの言葉を反芻してみる。
仮にあと4、5年しか生きないんだったら、いつか読めたらとか、書けたら書きたいなんて資料を持っているのがバカバカしくなってしまった。もっと身体が気持ちよくいた方がいいし、気持よくいきたい、と思ったんです。死ぬまで読めないかもしれない本に押しつぶされないようにして、せせこましい空間にいる意味がない。
これは本だけの話じゃなくて、すべてのものに当てはまることだよね。


今朝の一曲は、The Lovin' Spoonful の Daydream。 



2015年7月6日

過剰なブックカバーをやめよう

最寄り駅の中に有隣堂書店が入っている。時折、立ち寄る。これまで気づかなかったのだけど、今日、一番はしのレジで精算するとき、下記写真のパネルがカウンターにあるのを見つけた。


書店で付けるカバーの付け方を簡略化するという案内だ。最初、書店のカバーをつけるのをやめたのかと喜んだのだが、そうではないらしい。書店カバーはつけるが、元々の単行本に付いているカバー(ややこしい!)に巻き込むようにつけるのを省略するということ。

以前もこのブログで書いた覚えがあるが、そもそも出版社のカバーがついているのに、さらに書店のカバーなど必要ないというのが僕の考え。本は消耗品だ。もちろん無理に乱暴に扱うことはないが、後生大事にする類のものでもない。

以前、同じ店で体験したはなし。文庫本を2冊手にした僕は、電車の時間があったのでいささか急いでいた。レジに向かっている時、そこに見えたお客さんはひとりだけ。これならすぐ精算できるな、と並んだのはいいが、彼女の手元を見てイヤーな予感が。

当時、日本テレビで放送していた綾瀬はるか主演の「きょう会社休みます。」の原作コミック本を7冊(第1巻から第7巻)抱えている。

予感的中! 店員が(言わなくてもいいのに)「カバーをお付けしますか?」と聞いたものだから、それら一冊一冊について包装ビニールを剥ぎ、それらに書店のカバーを付け終わるのを待たされるはめに。

その時、頭に浮かんが考えは「あとでアマゾンで買おう」。思いついたらすぐに実行してしまうタチなので、本を買わないままさっさと店を出た。

本当は、できれば書店で本を買ってやりたい。だから、自分でも釈然としない気分だった。書店は、店頭で本を買ってくれるお客への「サービス」としてやっているのだろうが、優れたサービスになっていない。

この余計な(過剰な)サービスをするために、レジでは客が待たされるし、店にとってもコストがかかる。

そろそろ他の書店らと声を掛け合って、一斉にこうしたサービスの「有料化」へ進んだ方がいいんじゃないかな。

2015年7月5日

大学院生を子ども扱いしている

昨日は、この9月に大学院を修了する予定者の修士論文提出日だった。

僕が勤めている研究科は、3月と9月にそれぞれ修了式が行われる。9月に入学と修了が行われるコースは、全日制グローバルと呼ばれているプログラムなのだが、そこでは論文提出日に指導教授が学生の論文をとりまとめて大学の事務所に提出することになっている。

学生自らが修士論文を提出しようとしても、受け付けてくれないのだ。 なぜかそうした奇妙なルールがある。学生たちも不思議がっている。

知り合いの他大学の教授に話したら、ひとこと「甘やかせすぎ」と笑われた。確かにそうだろう。彼らは大学院生で、小学生ではないのだから。

対象となっている大学院生たちに失礼な気すらする。これまで何度か、なぜこうしたやり方を続けているのか担当に問うたが、これまでそうしてきたからという以上の説明はない。やれやれだ。


2015年6月27日

ガムと講義

ガムを噛むことには、多くの効用がある。歯の清浄や虫歯の予防だけでなく、顎を動かす事で脳の活性化にも効果があることが認められている。だが、それは時と場所次第だ。

昨日は、勤務先の大学の修士1年生全員に向けての講義を行った。一度きりの特別講座である。

どんな研究に取り組んでいるかを彼らに説明するのが目的である。通常の授業の場合、とにかく学生が分かるように話す、と云うことを心がけてるつもりだ。だが、今回だけは、さほどそれを気にすることなく話をさせてもらった。

ほとんどの学生は(理解しているかどうかは別として)真面目に聞いてくれている。しかし、なかに何名かガムを噛みながらこちらの話を聞いている学生がいた。

たかがガムだが、僕は気になってしょうがない。どのような状況であっても、人の話をガムをクチャクチャしながら聞くのは不作法なことだと思う。これまで企業経営者や名をなしたマネジャーの方たちに何度も話をしたが、当然ながらガムを噛んでいた人は皆無だ。そうしたことは、常識の範囲だ。

次代のリーダーを養成するビジネススクールで学ぶ学生が、授業中に平気でガムを噛んでいるというはどうも・・・。そこで、研究の話を中断し、ガムを噛むのを止めるように学生に告げた。目があった学生は、決まり悪そうに下を向いてガムをはき出した。

ところが、そのすぐ後、平気でガムをまだ噛んでいる別の学生を見つけた。すぐに止めるように注意したが、力が抜ける感じがした。

教壇は30センチほどの高さにすぎないが、そこから教室内をながめると全員が何をしているのか、どんな顔をしてこちらの話を聞いているのか、一目瞭然にわかる。ガムを噛んでいた学生は、それが分かっていないのだ。これだけ人数がいるのだから、分かりはしないはしないだろうと。想像力の欠如だ。

もう一つ驚いたことがある。そこにいた学生の7割ほどは、今期僕の授業を履修した連中で、その彼らのなかでガムを噛んでいた学生はいなかった。授業のオリエンテーションの時に「ガムはだめだよ」と伝えていたから。

しかし、他の教員はそうした注意を学生にこれまでしていなかったらしい。自分が講義をしているとき、学生がガムを噛んでいても何も言わなかったわけだ。それもまた驚きだ。
 

なぜ人は、他人の意見を聞かないのか

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『他人の意見を聞かない人』(角川新書)の著者で精神科医の片田珠美さん。


人は誰でも「他人の意見を聞かない人」の可能性がある。自尊心があれば、程度の違いがあれどそうした傾向になるし、それを完全に排除すれば鬱などになってしまう。ただし、自分がそうした状態にあることが分かっていない人は、要注意らしい。

さらに「困った人」は、確信犯的に他人の意見を聞かない人たち。片田さんの分析では、そうした人たちは人の意見をシャットアウトすることで自己防衛を図っていて、近年はますます増え続けている。

片田さんによれば、「過去と他人を変えることはできない」。

では、我々はどう対応したらよいのか。方法は、ふたつ。まず相手がなぜ人の意見を聞こうとしないか、その理由を分析すること。
 
その場合、考えられる理由は、通常3つあるとか。まず、そのことで自分が「メリット(利得)」を得ようとするため。あるいは、自分の悪とか間違いの事実を「否認」するため。さらには、他人を無視することで「プライド」を得るため。これらのどれか、あるいはどの組み合わせなのか分析し理解することで、こちらの心の持ちようを保つことができるようになる。

彼女が勧めるもう一つの対応方法は、「プチ役人」になること。少し意地悪目線で相手をながめること。けれど、時にはきちんと言い返すことが肝心。ただじっと我慢だけしていたらダメだと。こちらが壊れてしまうから。

精神科医として現場で日々臨床を重ねるなかで、「他人の意見を聞かない人」のせいで精神を壊されている方々に多く接してこられたのだろう。また、彼女自身、個人的にも「他人の意見を聞かない人」に悩まされてきたのかもしれない。

こうした人格の蔓延というのは、番組の中でも申し上げたが現代の社会病理のひとつだと思う。せめて、自分がそうはならないよう気を付けなければ。

 
今朝の一曲は、ダリル・ホール&ジョン・オーツの "Private Eyes"。



2015年6月20日

自治体の運営は、経営なのである

今朝の「木村達也 ビジネスの森」も先週に引き続き、夕張市長の鈴木直道さんをゲストにお迎えしました。


鈴木さんは、市長の仕事は「人気のない仕事を繰り返すこと」だと言う。

逼迫した財政のものとでサービスの縮小を進めることのなんと難しいことか。過疎が進む町を効率的に運営するために考案したコンパクトシティの実現のためには、市街地周辺の方には引っ越ししてもらわなければならない。
 
結果、多くの市民が反発し、不満を抱くことになる。 それを解決するためには、問題を他人ごとではなく、自分ごと化する必要がある。置かれている状況を、全体的に捉えてもらうことしか納得してもらえる筋道はないのである。これは、実際は実に骨が折れる。

鈴木さんは、理想とする政治家像とは、自分の話で市民が「(ある施策が)自分や家族にとっては不利益なことで困る、でもそれは町にとってはプラスになること」と考えてくれるようになることだという。

そうした多少なりとも成熟した民意が育たないところでは、先日も例があったが、無料で提供されている高齢者へのバスサービスが今後は有料になるからといった理由から本来なすべき大きな改革が否定されてしまうことになる。

彼は市長として、5人以上申込があれば、どこにでも出かけて話し合いの場を持つことを約束している。たいていの場合は、吊し上げに会う。だが、彼はそうした場での緊張感を貴重なものと理解している。「政治は恐怖が付きまとう」と。市長のひとつの決断によって、多くの人が傷つく可能性がある。だから、4時間もの集会にも吊し上げられるだろうことを納得で出かける。

まずは相手の話を1時間でも2時間でも聞く(これだけでも大変だ)。そうすれば、何が相手の関心の中心なのかが分かるから。やがて、相手は話し疲れる。そうした時間をかけた話し合いの中で、相手もこちらの考えや想いを理解していってくれるというのが、鈴木さんがこれまでの住民とのやり取りの中で身をもって獲得したこと。

行政のトップとして、彼は「自治体の運営は、経営」という明解な考えを持っている。だからこそ、リスクに備えることと目標としての希望を市民に掲げることを大切している。だが、自治体運営が経営であるという当たり前ことすら分かっていない首長が日本にはいかに多いか。

日本全国、これから人口が減少するのは明白な事実であるにもかかわらず、首長が人口減少社会の中での持続可能性などを話すとたちまち次の選挙で落ちる。縮小均衡といった考えをまだ有権者は受け入れられないのかもしれない。そうしてみると、日本人もデフォルトの可能性を抱えたギリシャ国民と変わりはない。
 
彼が番組の最後で語った「(そうした状況へ)住民が関心を持つかどうかは勝手だが、無関係ではいられない」という言葉が重くのしかかってくる感じがした。
 
今朝の番組の一曲は、テイラー・スウィフトの Shake It Off をお送りしました。


2015年6月13日

がんばれ、夕張再生市長

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『夕張再生市長』(講談社)を出版された北海道夕張市の鈴木直道市長。


夕張市は、今から9年前の2006年に353億円もの負債を抱えて財政破綻をした。その町はかつて炭鉱で栄え、人口は12万人近くがいた。今はそれが1万人を割り、しかも高齢化比率が日本で最も高い場所になっている。

石炭から石油への流れ。さらに海外からの安い石炭との競争に敗れ、夕張はゆっくり、だが確実に廃れていった。かつて24年間の長きにわたる長期政権を握っていた市長のもとで市制は硬直化し、しかも第三セクター方式による不透明で杜撰な開発と投資が続いた。

そこへ東京都からの派遣職員として赴いたのが、鈴木さんが26歳の時。2年間の勤務を終えた彼に、夕張市の市民たちは今後の市の将来を託したのである。

土地とはまったく関係のない青年に町の再生を託した市民もギリギリの決断をしたに違いないが、それを受けとめ、東京都の職員を辞して夕張市長の選挙に立った彼の決意もヒリヒリするようなチャレンジだったに違いない。

2011年4月、当時30歳で、全国最年少として市長に就任した。その時の市長選の投票率は、83パーセントだった。

スタジオでお会いした鈴木さんは、涼しげな紅顔の美青年である。いつもそうらしいが、今回も1人での夕張からの上京だ。

乞われて市長になったとはいえ、市民が大きな痛みをともなう政策を実施に移すのは、大変なこと。何度も市民への説明の場でつるし上げのような場を経験したと聞いた。始終落ち着いた受け答えは、そうした決して容易ではない経験の積み重ねから身につけたのだろうか。


今朝の一曲は、先月亡くなったB. B. キングさんの「上を向いて歩こう」。彼の2011年のアルバム、"Dear Japan" から。彼の東日本大震災後の復興への願いが込められている。



2015年6月5日

今回も引き続き、聴取率第1位

昨年からやっているFMラジオ番組「木村達也 ビジネスの森」のプロデューサーから連絡があり、最新の聴取率調査でまたもや番組が首都圏のラジオ放送においてM1F1層(20歳から34歳の男女)の聴取率調査でトップだったと知らされた。

聴取率調査が行われたエリア

2位は僅差でTOKYO FMだった。

現在、日本国内で番組視聴率、聴取率調査を行っているのはビデオリサーチ1社だけである。以前は、ニールセンとビデオリサーチの2社が行っていた。Wikipediaには以下のような記述はあるが、詳しい経緯は記されていない。
日本における聴取率は、かつてニールセンとビデオリサーチの2社が測定していたが、2000年にニールセンが個人視聴率導入に関する民法との対立で、日本における聴取率調査から撤退。現在は、ビデオリサーチの測定した結果のみが用いられている。
調査について学んだことがある人ならば、視聴率調査の限界、というかサンプル調査につきものの標準誤差について知っていることだろう。つまり、僅かなポイントの差など、実際は調査上の誤差範囲なのだ。

しかし、それがアタマで分かっていても、自分が関係している番組となると僅かな差でも気になってしまう。

2015年6月4日

マーケティングの最終授業、その後、打ち上げ

今期のマーケティングの授業が終わった。毎週、午後7時から午後10時過ぎまでの長丁場だった。

これは僕のタイムマネジメントの拙さ以外の何ものでもないのだが、たいてい授業は午後10時半位まで続く。学生はやっとこさ、そこで開放されるわけだ。

僕はといえば、授業後は教壇で学生たちの個別の質問に答えつつ、書き殴った何面ものホワイトボードをきれいにし、教卓の上のメモなどを片付け、また学生たちと雑談なんかをしているとあっという間に11時近くになる。

その後、研究室で少し授業後の片付け(記録づけ)などしてから、大学を出るというのがいつもの水曜日のペースだった。

ただ昨日だけは8時半に授業を終了し、その後は学生たちが待っている近くの居酒屋で打ち上げだ。30名ほど、授業履修者の半分以上が集まっていた。

普段、つまりこれまで授業中あまり発言しなかった学生が、今日ばかりはとビール片手に実に面白い話を聞かせてくれたり、意外な側面を知る機会にもなる。


2015年5月30日

ビジネスの対象としての自治体を考える

今朝の「木村達也 ビジネスの森」(NACK5)は、『地方自治体に営業に行こう』の著者、古田智子さんにゲストに来ていただいた。


彼女は、建設コンサルティングの会社での営業経験などから、地方自治体が抱えている種々の仕事に通暁し、一方で民間企業とはその仕組みが異なることからある種ブラックボックスになっていた地方自治体対象のビジネスの存在の大きさに気付いた。

その目の付け所は秀逸である。彼女の本で知ったのは、地方自治体がカバーする幅広い領域にわたって民間企業が予算を獲得し、仕事を担っているということ。それは道路工事や学校建設などの箱物づくりではなく、多くのサービスが民間企業へ委託されているといった事実。

ただ残念なことには、そうした情報はあまりスムーズに自治体から民間企業には流れていないようだ。彼女の話を聞いていて思ったのは、決して公平性に欠けているというのではないが、これまでの役所ならではの習わしにとらわれ、相手の立場に立っているとは言い難い情報の伝達のあり方だ。

だからこそ、そうした点に彼女のようなコンサルタントの存在意義が光る。自治体が事業を行う予算は、まぎれもなく我々の血税である。それを有効に、かつ効率的に使ってもらうために、行政と民間の間ではさらに適切なマッチングが必要とされている。


今朝の一曲は、ヴァネッサ・ウィリアムスの Save the Best for Last 。


2015年5月18日

緊急増刷の連絡

ダイヤモンド社のN嶋さんから電話があり、『コトラーの戦略的マーケティング』が緊急に増刷されるとのこと。

昨日の日経の記事の影響力である。アマゾンでは、マーケティング関連の本のベストセラーリストで1位、ビジネス書全体でも2位にランキングされている。アマゾンにはもう在庫がないらしく、プレミアム価格がついた中古本しか掲載されていない。

マーケティング・セールス

ビジネス・経済

今回の増刷は21刷り目になる。文芸書や哲学書ではない、一般のビジネス書がこれだけ長く多くの方に読まれるのは珍しい。

2015年5月17日

『コトラーの戦略的マーケティング』

今朝の日経新聞「リーダーの本棚」の欄で松本晃さん(カルビー会長兼CEO)が座右の書、愛読書など10冊の書籍を紹介されていた。

企業が新しいことを始める場合に行う設備投資。個人にとってのそれは学ぶことで、その一番効率的な方法が読書だという記事中の彼の話に納得。


松本さんの座右の書は、堺屋太一『組織の盛衰』と同『風邪と炎と 第4部』。

愛読書は8冊があげられていて、経営書のトップに拙訳の『コトラーの戦略的マーケティング』が紹介されている。

「経営書では、『コトラーの戦略的マーケティング』は本当によくできている。コトラーさんは、これ1冊で十分です。5回読めば、マーケティングの本質がほとんどわかる」と書いていただいた。

いま日本で最も注目されている実力派経営者が太鼓判を押してくれたのだから、これは確かだろう。

この本の原著のタイトルは、Kotler on Marketing。そこで訳書は『コトラーの戦略的マーケティング』という名にした。そうしたら、その後日本で出されるコトラーさんの本は、どれもこれも(もとの書名にKotlerとなくても)真似て「コトラーの・・・」と彼の名前が冠に付けられるようになった。

松本さんとは、僕がこの本を訳した2000年にお会いしたのが最初だ。彼が当時社長を務めていたジョンソン・エンド・ジョンソンで取締役会メンバーにマーケティングについて話をする機会があり、それを契機に同社のマーケティング組織強化のお手伝いをずいぶん長いことやったことなど思い出した。

水田のあるホテル

泊まりがけの会議が那須であり、ひさしぶりに栃木を訪ねた。以前は小さな仕事場があって暇を見つけては訪れていた場所なのだが、震災後にそこを処分してからはこの地にはまったく縁がなくなっていた。

今回訪ねたのは「二期倶楽部」というホテル。那須塩原駅からタクシーで約30分ほどのところ。この時期、あたり一面に青葉若葉が生い茂り、道中緑がまぶしかった。

二期倶楽部は、那須の雄大な自然を利用したすばらしい施設である。野菜は自家菜園で無農薬によって育てられていて、卵やチーズは地元の契約農家から届けてもらっているらしい。

夜、外の風が入ってくるようにテラス側の窓を開けて寝たところ、夜明け前からカエルの鳴き声で目をさました。いくら田舎だといっても、やけにうるさい。

朝、目をさました後、外へ出て納得。昨晩は周りが暗くて気がつかなかったのだが、すぐ近くに田植えが終わったばかりの田んぼがあった。どおりでカエルがうるさいはず。敷地内に水田があるのだ。

朝食の時にホテルのスタッフにそんな話をすると、レストランで使う米はその水田で穫れたものを使っているとのことで、納得するとともに「そこまでやるか」といささか感心させられた。


2015年5月16日

負け組には敢えて自分から入らないことが大切だと思う

今日の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)のゲストは『英語もできないノースキルの文系はこれからどうすべきか』の著者、大石哲之さん。


大石さんは大学卒業後、コンサルティング会社などをへて独立、2年ほど前からご家族とベトナムへ居を移しているとか。そのことで「人生が楽になった」と言って憚らない。


「英語もできないノースキルの文系」というのは、学生の半分以上を占める。そうした彼らが、就職活動に際して横並びで企業に立ち向かっていき、ほとんどの学生はたちまちはねられる。

誰もがいわゆる一流企業を目指す、上場企業の方が非上場会社より「上」だと考える。上場会社に勤務することができるのは10〜15%らしい。その結果、しなくてもよい挫折を感じることになる。

全員が勝てるわけないゲームに横並びで参加し、そして負けることで自分はダメだと考えるようになる。悲惨ではないか。就活自殺なる言葉もあるらしい。

大学を4年間で卒業する必要はない。途中で休学して外国へ飛び、大学の勉強とは違う学びを求めたり、インターンシップなどで種々の経験を積んではどうなのだろうか。

人と同じことを考え、行うことのリスクに早く気付き、自分ならではの発想で他人と違うことへ踏み出すことである。

今朝の一曲に選んだのは、ナタリー・コール "Starting Over Again" 。


2015年5月11日

スマホより顕微鏡を与えよう

先週金曜日の新聞記事から。米ワシントン大学教授の鳥居啓子さんが、女性科学者に贈られる「猿橋賞」を受賞した。

植物の葉には、酸素や水蒸気を放出し、二酸化炭素を吸収する通気口である微少な器官「気孔」がある。それが形成される仕組みは明らかになっていなかったのを、5つの遺伝子が関係しているメカニズムを解明し、米植物界から「もっともシンプルかつ美しい生命システムの解明」と評価された。それは、「教科書を書き換える」とまで云われる大発見である。

彼女が科学への道へ興味を持ったきっかけは、小学生時代に親から小さな顕微鏡と生物図鑑を買ってもらったことらしい。横浜にあった自宅近くの田んぼの水でミジンコを観察して感動したという。

いい話だなあ。親からの最高の贈り物だ。アマゾンでいくらするかちょっと調べてみたのだけど、学習用の顕微鏡ってたいした金額じゃない。スマホより、ずっと安価だ。

2015年5月2日

爆発的に膨張するデジタル・アーカイブで生き残るには


 今日の「木村達也 ビジネスの森」の番組ゲストは、『誰が「知」を独占するのか』の著者で弁護士の福井健策さん。デジタル・アーカイブについての話をうかがった。


爆発的に膨張する情報の蓄積のなかで僕たちは暮らしていて、その中からはもう逃げられないらしい。テキストも音楽も映像も何もかもがデジタル化され、アーカイブ化されている。

それらのプラットフォームを作り運営しているのは、グーグル、アマゾン、アップルといったいずれも米国西海岸の巨大IT企業だ。何十億人というユーザーを持ち、圧倒的な支配力を持っている。

ヨーロッパは、そうした状況をよく思ってはいない。文化的侵略と考え、なんとかこの流れを止めようとする考えが拡がっている。たとえば「ヴィクトル・ユーゴー」を検索すると、検索ランキングの上位に登場する文献はフランス語のものではなく、英語文献が出てくる。こうした状況についてフランス人はたいへん強い危機感を抱いているという話は頷ける。

その結果、フランスやドイツが中心となりグーグルの対抗軸をつくろうとしている。米国サイトとは異なる、欧州ならではの巨大電子履博物館のようなデジタル・アーカイブを構築しようとしているのだ。

翻って日本はどうだろう。日本語の特殊性ゆえに、ある種の「鎖国性」を持って結果として侵略を防いでいるようにも感じられるが、実際のところはどうなのか、来週福井さんにうかがっていきたいと思っている。

それにしても、グーグルでの検索結果の表示を見て、その2ページ目に進む人は平均してわずか6パーセント、つまり94パーセントの人は最初の画面しか見ていないという事実、そしてさらには検索ランキングの上位3つで80パーセントがまかなわれているという偏りには唸らされてしまった。

検索結果の最初の画面に登場しなければ、それは存在していないも同然なのである。そして、上3つに入らないと見てもらえないということである。

今朝の一曲は、Sheryl CrowのSoak Up the Sun。


2015年4月18日

ひとり出版社は、強くてしなやかだ。

きょうのゲストは、『あしたから出版社』(晶文社)の著者で、夏葉社という出版社を経営している島田潤一郎さん。6年ほど前に出版社を立ち上げ、いまも編集から書店対応、営業まですべて自分一人で担当されている。


彼の語り口は静か。そして朴訥とした語り口の中に、本への愛情がこもっている。


彼が出版社を立ち上げたきっかけの一つは、転職に失敗し続けたこと。50社に履歴書を送ってもすべて選考に落ち続けてしまった苦い経験。

もうひとつは、親しかった従兄弟を亡くし、悲しみを抱えていた時に出会った一編の詩。それを本にして、子どもの頃から親のように面倒を見てくれたおじさんとおばさんの心の痛みを少しで和らげることができたら、との想いからだとか。

年間8万点を超える新刊書が発行されている日本の出版事情のなかで、出版社を続けていくのは大変な事。だけど、彼の発想はたとえ初版3000部の本でも、10年かけて少しずつ売っていけばいいじゃないかというもの。

売れそうだから売るのではなく、自分が売りたい、人に読んでもらいたい本を作って売っていくという基本姿勢を守るのは大変そうだけど、これからも健闘を祈りたい。

今朝の一曲は、ボズ・スキャッグスで "We're All Alone" 。


2015年4月11日

旅行の醍醐味は、いかに気持ちよく、普段と違う金の使い方をするかだ

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、先週に引き続き『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』の著者、デービッド・アトキンソンさん。


彼は、ソロモンブラザーズやゴールドマンサックスなどで金融アナリストとして活躍された後、国宝や重要文化財の補修を手がけている小西美術工藝社の社長に転身したという方で、日本語は日本人以上に流暢だ。


日本への海外からの2014年の渡航者は、年間1300万人ほど。2013年が1000万人ほどだったので、ずいぶん急に増えた印象である。下のA)には世界各国・地域への外国人訪問者数のランキングが掲載されていて、それによれば日本は33番目らしい(2012年度)。

A) http://www.nippon.com/ja/features/h00046/
B) http://www.jnto.go.jp/jpn/reference/tourism_data/visitor_trends/index.html

9番目にロシアが入っているのが、ちょっと意外だったりする。それに、オーストラリアが入っていないのはなぜだろう?

もとのデータは入出国管理上の数字だろうから、例えば隣国への出稼ぎ労働者が出たり入ったりするのも毎時カウントされているのかもしれない。それに国によって集計の取り方はそれぞれだろうから、こうした統計は、まあ参考程度にながめておいた方がよい。

つまりこれをもって、日本はどこそこに負けているからなんとかしなければとか(余計な予算をつけてヘンなキャンペーンを組んだりとか)、そうした表面的な考えに踊らされないようにすることが大切だと思う。

海外からの観光客は大切にしつつ、どうやって少しでもたくさん(そして気持ち良く)お金を使ってもらうかを戦略的に考え、仕掛けていかなくちゃいけない。

団体ツアーで東京へやって来た海外旅行者が、一泊数千円のビジネスホテルに泊まり、買い物はディスカウント・ストアとドラッグ・ストア、あと秋葉原の家電量販店、銀座に観光バスで乗り込んできたかと思うと、ウインドウショッピングだけして、昼食に牛丼屋に並ぶような現状は困りものである。

今朝の一曲は、エルトン・ジョンの "Rocket Man (I Think It's Going to Be a Long, Long Time)"。1972年のアルバム Honky Chateau から。