2021年10月9日

ONODAの真実

金曜日に公開された『ONODA』は、フランス人のアルチュール・アラリが脚本を書き、監督した映画だ。

津田寛治が演じるルパング島の小野田さんは、精悍で危なさそうでキャラクターとしては魅力的だ。劇場に足を運ぼうと思いながら、小野田さんについての本を以前買っていたのを思いだし本棚から手に取った。

それは『小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか』と題する本だが、意外な結論に驚く。著者が書いているのは、あくまで推測である。しかし、状況や時代背景を考えると、十分納得がいくものだ。

その具体的な内容はここでは記さないが、これまで小野田さんはどうして29年間もフィリピンのルパング島にいたのかという謎が解けた気がした。

ルバング島は東西10キロ、南北27キロあまりの島だ。29年間をずっと過ごすには小さすぎる。なぜ脱出しなかったのか。

小野田さんは終戦を知らなかったのでずっと任務を続けていた日本兵士の鏡と評価する向きが多いが、彼は戦前は海外勤務をしていた商社マンで英語が理解でき、フィリピンでの任務の前には陸軍中野学校で諜報の訓練を受けたインテリだった。そして、島の密林に暮らしながらも、食糧や物資の調達のためにフィリピン人の民家に忍び込んでいた彼が、29年間ずっと終戦を知らなかったというのは不自然だ。

彼は終戦のことくらい当然知っていたが、ある<任務> のために世間に出てこれなかったというのがこの本の指摘するところ。

「なあんだ、そうか」というのが正直な読後感だった。おかげで映画を観に行く気が萎えてしまった次第。


2021年10月8日

震度5は警告

昨日、帰宅の途中に千葉県北西部を震源とする地震に遭った。時刻は午後10時41分頃。

 
駅を出て、帰宅途中の食料品店でワインを選んでいるとき、店の中には僕を入れて2人の客、そして男女一人ずつの店員がいた。突然の揺れに、女性店員が叫び声を上げた。

すぐ近くのワイン棚の最上段から赤ワインが床に落ちてボトルがくだけた。一気に立ちこめるワインの香り。飛び散ったガラスを避けるため僕はその場からすぐに離れた。

自宅に戻って玄関を開けたら、普段と雰囲気がちょっと違う。いつもならそこに猫が座って待っている。エレベータの音で帰ってきたのが分かるみたい。だけど、その日は姿が見えない。

廊下に平積みしている本がいくつも倒れていた。それを跨ぎ室内へ。同様に本棚の上に平積みで置いてあった本が床に散乱していた。書斎の本も同様。本棚に収容している本は問題なかったが、平積みしている本が下に落ちていた。

着替えもそこそこに床の本を集めていると、どこからか猫がそろりと姿を見せた。思っていたほど怯えている様子でもなく、ちょっと安心する。

それにしても地震発生が帰宅駅に着いてからでよかったとつくづく思う。東京駅発の下り新幹線最終は、22時48分発だから、それで帰ろうと思っていたらそのままホームに停車している車内で何時間も待たされたはず。

昨日はその一本前、22時12分発の新幹線になんとか間に合ったのでスムーズに帰り着けた。それにしても、22時12分に乗り遅れたら、48分の終電まで36分も空いているJR東海のタイムテーブルは何とかならないものか。

震度5の「周囲の様子と被害」状況は、1996年以前の定義だと「壁が割れ、煙突が壊れたりする」となっているが、今回はそうした話はほとんど聞かなかった。

最近の建造物は、それだけ堅牢なものになったということだろう。建物が地震で崩壊するということは、古い木造建築物以外はないかもしれない。問題は、建物の中で何が起こるかだ。身の危険に及ぶとしたら、家具などに押しつぶされる可能性が一番大きいかもしれない。

震度6や7(最大震度)の地震、それも直下型のものがいつ来てもおかしくない状況である。これを機に、ちゃんとその時の対応に備える準備をしなくてはと思う。

2021年10月5日

グラフは言葉よりストレートに語るから

昨日、おかしな調査結果について少し書いたが、今朝の日経に別の意味でおかしな調査が掲載されていた。プレゼンテーション(表現)についてである。

以下の3つのグラフには、いずれも1980年以降の労働力人口を表す2本(全年齢と64歳以下)の曲線が示されている。

図A


図B

 

図C

図Aは、高齢者雇用についての記事に添えられていた図だ。このグラフをパッと見た限りでは、直近での64歳以下の就業者数と65歳以上の就業者数がほぼ似通ったボリュームと印象づけられる人が多いかもしれない。理屈で考えて<おかしいぞ>と思った人は、グラフの目盛りを見て納得することになる。5000が基点になっているからだ。

同じグラフを試しに5500から初めてみたのが、図Bだ。新聞社が図AをOKとするなら、図BもOKとなるはずだ。むしろ、ここまで見え方をデフォルメすれば、ほとんどの読者は目盛りの付け方に目を向け、意味を正しく理解するかもしれない。しかし図Aなら、ビミョーなところだ。

図Cは基点を0で作図してみたもので、これが本来のグラフである。

人は直感で印象づけられ、それをもとに容易に判断に向かう。グラフは多くの場合、言葉(テキスト)より饒舌で、かつストレートに語る。だからグラフの見せられ方にはつねに注意しないとね。

観天望気

書棚の奥から『実戦・観天望気 山の天気を知る法』(飯田睦治郎著)が出てきた。観天望気を知るきっかけになった本。雲や空の様子から今後の天気の移り変わりを読むコツを教えてくれた本でもある。

雑誌『岳人』を出版していた東京新聞から出版されている。 手元のものは昭和52年発行だから、大学に入って間もなく手に入れたものだ。

学生時代、山に行くときはたいていポケットサイズのラジオと天気図帳をザックに入れていた。山行中、テント場に着くとNHKラジオの気象通報を聞きながらその日の天気図を書き、それと当日の雲の様子から翌日の天気を予想していた。

山に行くことはほとんどなくなったが、今も空や雲を見ない日はない。コロナで自宅に籠もっていたときですらそうだし、出張で海外に行っても決まって同じことをしている。そうした習慣を身につけるきっかけとなった一冊。



2021年10月4日

クズな調査ってこんな調査

社会調査を専門とする谷岡一郎さんが、ニュース上に見る社会調査の問題点を指摘していた。

その中の一つとして彼が取り上げていたのが、プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険が行った調査の結果である。

今年60歳になる男女2,000人へのアンケートをもとにしたもので、その結果の内容は「現段階の貯蓄額は4人に1人が100万円未満で、2,000万円にはとても届かない」というものだった。

2,000万円という参照値は、2019年春に金融庁金融審議会が、95歳まで生きるには夫婦で2,000万円の蓄えが必要と試算した例の数字のことである。

詳しい質問票がないので詳細については推測するしかないが、調査結果の発表内容からだけでもいくつかの点が指摘されている。
 
金融庁の報告書にある2,000万円の蓄えには、現金預金は勿論だがそれ以外の不動産や有価証券なども含まれるはずだ。しかし、この生命保険会社の調査で問われているのは、貯蓄額である。貯蓄額を問われた時、一般的に我々は銀行預金をイメージして回答するはずだ。
 
さらに、この調査での調査対象は今年60歳になる男女2,000人らしいが、そのことはつまり、まだ多くの人は退職金を受け取っていないと考えられる。調査対象者の年齢を何歳か上げて聞いたならば、貯蓄額の平均額は退職金で上がったはずである。
 
さらには、さきほど述べたように、貯蓄額ではなく全ての蓄えがいくらかという問いであれば金額はさらに大きくなったはずだ。
 
調査を行ったこの生命保険会社には、意図的に調査結果の数字を小さく抑えることでそれを目にした人の心配をかきたて、「いざという時のために生命保険に入っている必要がありますよ」と思わせようとした狙いがあったと勘ぐられても仕方がない。
 
ところで、朝日新聞社が出版するAERAという雑誌の編集部が、【独自アンケート速報】として以下のようなアンケート調査結果をウェブ上で掲載していた。
 

 
皇族のあるお嬢さんと彼女のボーイフレンドとの結婚について、それを「祝福する気持ちはあるかどうか」を一般の人に尋ねた調査であり、結果は祝福すると答えた人の比率は5%だったとレポートした。設問は「あなたは今、お二人の結婚を祝福する気持ちはありますか?」だった。
 
この調査の問題点は、誰でもが回答することができるネット上の調査であり、回答者の4分の3が女性に偏っていたこと。もともと自誌の登録ユーザー宛に調査したんだろうか。
 
その調査システムでは、同じ回答者が調査期間中に繰り返し回答することができるようになっていたらしい。
 
こんな調査を調査とは呼ばない。そもそもこのアンケート調査の意味はどこにあるのか。誰が誰と結婚しようが、それは当人らの問題であり、赤の他人がどうこう言うことではないだろう。
 
どこのバカがこの調査を立案したか知らないが、自分が、あるいは自分の家族が結婚を控えていたとして、見ず知らずの新聞社の誰かがその結婚について「祝福する気持ちがあるかどうか」のアンケート調査を行って、その結果を公表したらどんな気持ちになるか。少しでも考えてみたのか。
 
嫌がらせ以外の何ものでもない調査だ。これで自社の雑誌が売れるからとか、サイトアクセスが増えるからとか、面白おかしく記事に仕立てるためだけにこんなクズ調査はやってはいけない。それに、こうしたアンケートに答える方も答える方である。

2021年10月3日

アナザー・ラウンド

今年のアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した作品で、映画評での評価もすこぶるいい。デンマーク人のヴィンターベアが監督したデンマークを舞台にした作品だ。アナザー・ラウンドは、酒場では「もう一杯」といった意味。

昨日観た007の映画では、ボンドとパブで飲んでいた仲間が Next is my round と言ってカウンターに2人の酒を求めに行くシーンがあった。

英国で暮らしていたとき、学生仲間と授業後に何人かでパブに繰り出すと、まずそのなかの誰かが全員分のビールを手に席に戻ってきた。みんなのグラスが空いてくると、別の誰かが It's my round と言ってみんなのビールを注文しにカウンターへ。次はまた別の誰かが。結果、こうして人数分のグラスを重ねることになる。これが英国のパブ文化。

このデンマーク映画の主人公は、 マーティンという名の歴史を教える高校教師。仕事はあまりやる気がなく、家庭でも問題を抱えて過ごしている。その彼を含む同僚4人が「人間は血中のアルコール濃度を0.05%に保つとリラックスし、やる気と自信がみなぎる」という理論を聞き、それを実践しようとする馬鹿話である。

4人はそれぞれ、ほろ酔いの時は調子がいいのだが、だんだん飲酒がエスカレートしていき、ハチャメチャへと向かう。そもそも、ほろ酔いの時に調子がよかったのは軽い酩酊状態で勝手にそう思っていただけ。酔っ払いには誰でもがそうした経験があるはず。

この4人が、どれだけ血中アルコール濃度を上げられるか挑戦してみようとバーをハシゴし、自宅の居間にボトルを並べ、飲み続ける。どこかで見た風景。そうだ、学生時代の俺たちがやっていたことと変わらない。

16歳から(ハードリカーは18歳から)飲酒が認められているデンマークの人は酒好きらしい。それにしては酒の飲み方が幼いとしか言いようがない4人のおっさんに呆れた。主人公のマッツ・ミケルセンは「北欧の至宝」と呼ばれる名優らしいが、最後まで冴えない中年オヤジにしか見えず。

ラストで、元バレエダンサーだったというミケルセンが、教え子たちの卒業を祝ってパレードで踊りまくるところがハイライト・シーンなんだろうけど、何が言いたいのかメッセージが読めず。何か見落としてるかな?  ☆☆

2021年10月2日

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ

ただスカッとしたくて、007の新作を見に劇場に。IMAXのシアターはさすがに音がよく響き渡る。

15年間にわたってボンドを努めたダニエル・クレイグの007最終作だ。『カジノ・ロワイヤル』で彼がボンドとして登場してきたときはどうなるんだろうと思ったが(2002年の『ロード・トゥ・パーディション』で演じた、いささか情けないイメージがあったから)、ボンドの役を重ねることで役者も観客もその世界を共有することになるもんだね。

こうした映画はただ楽しめばいいので、余計な講評はしたくない。 ただ本作品の途中、ロンドンにあるのQのフラットのキッチンで彼が料理をしているとき、彼が日本の酒屋の前掛けをしているのが気になった。ほんの一瞬だったけど、そこに「酒」って漢字が見えた。

今回の悪役を演じるラミ・マレックのアジトには、なぜか畳が敷いてある。後ろには枯山水。で、正座して座っている。能面ぽいマスクが意味深長な小道具として登場する。

何でだろうと思ってたら、この作品の監督はキャリー・フジオカという名の日系人だった。だからかな、ボンドが自死を選ぶ最後のシーンに日本的な滅びの美学を感じた。

上映時間2時間44分は、007シリーズで最長。 ☆☆☆☆


2021年10月1日

3年間、2億円の弁護士費用

東京五輪が終わり、まもなくひと月になろうとしている。その後のコロナウイルス感染拡大と収束、そして緊急事態宣言の解除などで、五輪のときの騒ぎは人々の意識から消えてしまったようだ。

だが、大切なのはこれから。膨大な予算と時間とエネルギーを国家レベルで注ぎ込んだ大イベントなのだから、しっかりとした総括がなされなければ。

例えば、9400億円という巨額な公費(税金)を結果として注ぎ込んだ、その内訳が隠さずに示されるかどうかが問われることになる。

でもおそらくそうはならないと思わせる報道があった。五輪の東京招致をめぐってJOC(日本オリンピック委員会)が賄賂を使ったとされる裁判で、捜査を受けている前JOC会長の竹田恒和の弁護士費用としてこの3年間ですでに2億円が支出されており、けれど公開用の理事会議事録からはその記載が削除されているという。

内部の限られた関係者だけが知り得る情報となっていて、すでに外部からはこうした金の使途がわからないようにされているのだ。

会場となった施設で大量の弁当がそのまま廃棄されていたとか、オリンピック村の食堂でこれまた大量の食事が無駄に捨てられていたニュースは表に出ている通りだ。もちろん五輪事務局が公表したのではなく、メディアが内部関係者から聞き取りを続けて調査した結果、あきらかになった事実である。

弁当や食堂の件は氷山の一角だろう。自分の懐から出る金ではないということで、コスト意識を持たない連中が行ったさまざまな施策は公共心の欠如の表れともいえる。

さて先の賄賂裁判だが、3年の時間と2億円の弁護士費用を注ぎ込んでいまだ無罪となってないということは、「やった」と見るのが普通だろう。JOC会長だった竹田は、フランスの司法省から訴えられて即座にその立場から辞任している。無実なら、そうやって逃げる必要はなかった。

日本政府は色んな方面から圧力を、あるいは懐柔策をフランス司法省やフランス政府に対しておこなっているかもね。フランス側がどう判断するかが見物だ。

この手の有象無象の話がどこまで透明性を持って表に出てきて、事実関係がちゃんと検証されるかが、この国の今後のカタチを決めていく重要なポイントになる。

2021年9月29日

もっと自然に語っていいんだよ

「嵐」の櫻井クンと相葉クンが、それぞれ結婚することを公開した。同じ日に事務所のホームページを通じて発表するというのは、ファンや世の中での騒ぎを最小化するための配慮なんだろうね。

相葉クンは、そこで「結婚させて頂くことになりました」「日々、状況が変化していく中で、それでも頑張れる場を頂き、そしてお仕事をさせて頂いています」と コメントしていたという。

ずいぶん丁寧だなあ。「頂く」のオンパレードだ。結婚は当事者の合意でするものだから、結婚します、でいいと思う。それが自然な表現。

2人は超有名人で社会への影響力が大きいからこそ、妙にかしこまった不自然なものの言い方などせず、当たり前の表現を心がけた方がいい。


2021年9月28日

雲間から光

 
夕刻近く、西の空。赤い光のシャワーが雲の間から降り注ぐ。

 

これからの季節、南の夜空にはシリウス

南の空に輝くシリウス

23夜の月

今日は23夜で南の夜空は結構明るいのだけど、それでも雲がないおかげでいくつもきれいな星が見える。

書斎の窓からは、真正面におおいぬ座のシリウスが輝いている。これからの季節、しばらくのあいだずっと付き合うことになる。そしてシリウスと共に冬の大三角形を形作るオリオン座のベテルギウスとこいぬ座のプロキシオンもきれいに見える。オリオン座の三ツ星もまたたきを見せている。

ベランダに三脚を持ち出し、つい撮影してしまった。

2021年9月25日

映画「MINAMATA」から考えること

水俣病は過去の人災ではない。いまも多くの人が水俣病に苦しんでいる。しかも、いまだに水俣病であることを国から認められていない被害者たちがいる。

熊本県水俣市にある化学会社、チッソ株式会社は32年間にわたってメチル水銀を含む工場排水を無処理で水俣湾に垂れ流していた。32年間である。チッソと国と県の無責任さぶりを示してあまりある期間だ。

熊本大学医学部が水俣病は原因不明の奇病ではなく、チッソが垂れ流す排水が原因だと報告したのは1963年のことーー日本中が翌年の東京オリンピックに沸いていた頃。しかし、国が水俣病の原因をチッソの工場が流す排水に含まれる有機水銀が原因であると認めたのは1968年になってから。1963年以降も5年間、毎日毎日、水俣病の原因である有機水銀は水俣湾に流され続けた。

水俣病の原因は過失ではなく、見まがうことない国と県の犯罪だったわけだ。なぜそれがなされたのか。為政者が見るべきものを見ようとしなかったからだろう。もし見ていたとしたら、人間として感じるべきものを頭の中で完全に封鎖していたからだと思う。

2011年に原発事故を起こした東京電力福島第1発電所をあげるまでもなく、企業などによる人災によって被害を受けた住民への補償や原因追及においては、住民の中に被害者と加害者が混在することで地域社会が分断されるケースが多い。

産業に乏しい地域でその企業に雇用され生計を営む人たちが多く存在しているからだ。それが企業にとってはある種の安全弁となっている。住民からすれば足下を見られ、取られた人質である。

水俣病をめぐる闘争においても訴えについての賛成派と反対派のいざこざがあり、この映画でもそれが描かれている(真田クンがカッコいい)。根の所にあるのは仕事と金である。

映画の中で、ジョニー・デップが演じるユージン・スミスが妻のアイリーンの手を借りながら、あの「入浴する智子と母」を撮影する箇所がある*。日系アメリカ人で、ユージンの通訳として一緒に水俣で過ごすことになるアイリーンがいたからできた撮影であることがよく分かる。

米写真誌「LIFE」誌によって世界中に水俣病をしらしめることになった一連の写真のなかのこの一枚が、被写体となった智子の母親の強い思いから撮影されたことに強く心がふるえた。緊迫のシーンである。 

ユージンとアイリーンが日本に来たのは、1971年。三波春夫が歌う「世界の国からこんにちは」が日本国中に流れ、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博が開催された翌年のこと。

当初数ヶ月の予定だったのが、彼らはそれから3年間水俣の地に滞在して不条理としか言いようがない現地の姿を撮影した。 


化学会社であるチッソの事業は、2011年にチッソが設立したJNC株式会社という別会社に移転して運営されている。そのサイトにアクセスすると、トップページに「よろこびを化学する」というコーポレート・スローガンが表示される。悪い冗談かと苦笑するしかない。

帰宅後、書斎の本棚から彼の写真集を引っぱりだした。映画を思い出しつつ、モノクロの数々の写真にしばし見入ってしまった。 


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* その写真は1998年から新たな著作物への使用が認められていなかったのが、今年新たな写真集で使用が認められた。https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/634576

以下の西日本新聞の記事参照
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451786/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451978/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452161/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452445/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452733/

2021年9月22日

神話と歴史の境界

現在行われている自民党総裁選に私は関係ない。総裁選で投票できるのは日本国民の1%。

そう、われわれのほとんどは蚊帳の外の "We are 99%" である。アメリカの大統領選挙のような首相公選制がわが国でも本気で議論されるべきだが、ここではそれは置いておく。

僕は自民党の4人の候補が総裁になるために何を主張しようが気にしないことにしている。99%のわれわれには関係ないからね。関係があるのは、実際に総理大臣になった議員がその後何をやるかだけ。

だが、高市早苗議員が天皇家の皇位継承策について「126代続いた男系の血統は天皇陛下の権威と正統性の源であり、多くの国民の誇りと敬愛の情の源。私は男系維持で、その中でも旧ご皇族の皇籍復帰を希望いたしております」と訴えたことは聞き流せない。

天皇制を支持しようがどうしようが、それは個人の価値観。ただ、歴史と作り話(神話)の区別がつかないような人物が日本のリーダーになってはいけない。

高市が言う126代とは、初代の神武天皇から数えた歴代の天皇を言っているのだろうが、これは事実ではなく作り話である。

初代の神武から第15代の天皇と言われている応神天皇までは、実在したかどうか分かっていない。存在が確認されているのは、第16代とされている仁徳天皇以降である。

もし初代天皇から存在したと国が主張するなら、天皇墓とされている各地の古墳を考古学者に公開し、きちんと発掘させて歴史的な事実を明らかにすればいい。しかし宮内庁は調査を絶対に認めない。

そもそも紀元前7世紀から始まるとされる神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)・・・と続く代々の天皇に漢字名がついているのはおかしな事である。

日本に漢字が伝えられたのは、3世紀終わり頃のこと。漢字文字が日本に伝わる1000年も前、どうやってそれらに漢字の名前がつけられたのか? 誰が考えたっておかしいことが分かるだろう。

実はこれらは江戸後期になって水戸藩が雇った中国人学者である朱舜水が徳川光圀から『大日本史』の編纂を依頼されて「整えた」もの。だから、綏靖、懿徳なんていう日本人には誰も読めないし使えない漢字が使われている。

つまり、126代というのは事実ではない。以前のこのブログで歴史(ヒストリー)と物語(ストーリー)の線引きの曖昧さについて書いたが、そのまさに典型のひとつ。

神武天皇が天照大神の子孫であると『古事記』『日本書紀』で記されているが、それらは当時の朝廷が自分らの権威を既成事実化するために作った「物語」なんだから何をか言わんやだろう。

神話と歴史の区別がつかない人は、特徴として自分が信じたいことだけを信じるようなところがある。そうしたタイプが元総理大臣に何人もいたが、もう結構、こりごりである。

2021年9月16日

私の個人情報は高い、という訳ではないが

「フォーラム」と称するものへの案内メールがたくさん来る。主催は新聞社やリサーチ会社、コンサル会社、IT企業などさまざまだ。

ほぼ全てスルーだが、ごくたまにちょっと気になるスピーカーがいたりして、予定が合うかどうか分からないが、まずは参加申込みだけでもしておこうと思うことがある。

ただ詳細を読んでみて思うのは、フォーラムと称しておきながら、まったくフォーラムらしくないものばかり。Forumとは、本来は公開討論会、討論の機会、討論の場の意味。つまり双方性の高い議論の場である。だが、開催要項に書かれているのは、完全な一方通行のプレゼンか説明である。

しかも申込時に記入を求められるのは、なぜここまで書かせるのかと頭をひねる質問事項だ。名前とメールアドレスに加えて、生年月日、性別、現住所、勤務先名、所属部署名、連絡先電話番号、携帯の番号、これらの欄がすべて<必須>となっている。

開催内容からはどう考えても郵便物を送ってくることはないし、電話でやり取りする必要もない。だから本来は、名前とメールアドレスだけで事足りるはず。

そうした主催企業の意図は、ただこちらの個人情報を「可能な限り」集めたいということだけ。一応、個人情報に関してのきまりのようなものは参照できるようにしているが、ほとんどの人は読まない。

こうした個人情報泥棒にまともに付き合う必要はないので、適当にアバターを作る。フリーメールのアドレスを追加で作成し、なりすまし用のいい加減なプロフィールをつくったうえでメールの転送設定をする。

面倒臭そうに聞こえるだろうが、慣れれば数分とかからないし、こうした別人格を何人かもっておくと他のサイトや企業相手にも使えるからね。

相手がどう感じるかよく考えて、合理的で節度のある態度でこちらに質問してくれば、それなりにちゃんと回答してやるのだけど仕方ない。

2021年9月14日

無力感

自民党総裁選が熱を帯びてきたようだ。これで日本の首相が決まる。

報道では、その現状とゆくえが第一に取り上げられている。だが実質的には、そうしたニューズ・バリューはない。

どうせ投票できるのは、自民党議員と自民党員だけ。一般の市民は完全に蚊帳の外だ。

それに候補者は、どれも似たようなもの。自殺した元財務省職員の赤木さんが関わされた公文書改ざんの実状を明らかにしようと考えるものはいないし、モリカケ問題と言われている森友学園、加計学園の開学認可に関する疑惑を再調査しようと考える候補もいない。だから、どの候補も五十歩百歩だ。

それらのなかから総裁を選ぶ自民党議員の最大の関心は、次の選挙で自分が当選できるかどうかだけだろう。それと、誰にくっつくことでより大きな権力を得られるかだけ。

まだ今は小康状態だが、これからの日本は間違いなく長期的にとんでもない状況に陥るのは明らかなのに、それに向けた議論が政府からもメディアからも出てはこない。

自らの決定権がまったく及ばないところで、自分の国にそれなりの影響を与えることがきまってしまうことに無力感のようなものを感じるいたたまれなさ。

2021年9月10日

27歳のチーフ・デジタル・オフィサー

来年度の国の予算策定に向けた概算請求の総額は、111兆円を超えた。またまた膨大な額の国債を発行してまかなうのだろう。

特に要求金額が大きいのが、9月1日に発足したばかりのデジタル庁。その要求額は5,426億円にのぼるが、なんてことはない、各省庁内の情報システムの整備と運用費用がその98%を占めるという。


役所同士がデータをやり取りできるようにするのだろう。紙をデジタルデータにし、ハンコを不要にし、どの省庁内からでもデータの検索ができるように・・・なんてことを計画している。業務効率は上がるが、そこには戦略性は感じられない。

総務省は、マイナンバーカードの普及と促進に1,230億円を要求している。金がいるのも分かるが、普及と促進に一番必要なのは知恵と工夫だ。

これらはすべて国民の税金。

先日、デジタル庁の事務方トップに72歳の女性(元大学教授)が就いた。高齢だからだめだとは言わないが、彼女が自分のサイトで商用イラストを無断利用していたと報じられた記事を読むと、そうした感覚の人でほんとに大丈夫かなと思う。

2012年、僕がニューヨークのコロンビア大学で在外研究をしてた時のこと。マイケル・ブルームバーグ市長(当時)によって、ニューヨーク市の初代CDO(チーフ・デジタル・オフィサー)が任命された。当時27歳の女性、レイチェル・スターンだった。


その後、彼女はニューヨーク市での仕事を評価され、3年後の2015年にはニューヨーク州のクオモ知事に乞われて州政府のCDOに就任した。

27歳と72歳。彼我のなんと大きな違いだろう。本人の問題というより、任命した人間(役人)のセンスの問題ともいえる。72歳の元大学教授、さてこれから1年もつかどうか。


2021年9月7日

五輪が終わった。余韻などない。

五輪は終わった。国民生活のレベルで語るならば、この時期にやる必要性はなかったのにやっちまった五輪である。

「安全安心」という言葉が何百回と念仏のように唱えられただけで、総理大臣も五輪担当相も組織委員会の責任者も、最後までそれが何かを誰もきちんと説明しないままにだった。

成田に到着する選手団や五輪関係者だけでなく、各国からのメディアへのコントロールはほとんど利かなかったと聞いた。現場にいるのはアルバイトやボランティアの人たちばかりで、正規の担当者は姿を見せないのだからそうなって当然の様相だったらしい。だからクラスターが発生したのも当然の成り行きである。

「復興五輪」とか「新型コロナに人類が打ち勝った証」とか、今にして思えば見え透いたウソで固められたオリンピックとして人々の記憶に残ることだろう。

いずれにせよ、今回のオリンピックがどうだっかかなんて、今後話にのぼるのは日本だけだ。もちろん、全体の予算や当初の目的がどう達成できたのかなどについては、ちゃんと総括をやってもらわなくては困る。

でも外国は状況がまったく違う。例えばパリではメディアや人々の口にも9月6日以降は東京五輪の話などまったく出なくなった。オリンピック・パラリンピックと云えば、パリ2024なのだ。他国も似たようなものだろう。

観客を入れずに試合が行われた数々の新設施設はこれからも残る。

2021年9月6日

ジャパニーズ・タリバン

先日、東京オリンピックの開会式に絡めてLGBTQのことを書いたら、知り合いからLGBT理解促進法案の提出が、この5月に自民党によって見送られていたことを知っているかと聞かれた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2021/08/blog-post_11.html

調べて見ると、その法案は足かけ5年かけて議論されてきたにもかかわらず、自民党内で意見の統一が見られず提出が見送られてたものだ。

7月下旬から始まった東京オリンピックは、そのオリンピック憲章で性的指向による差別を明らかに否定している。また、同性婚やそれに準ずる法制度が国のレベルで整ってないのはG7の国の中で日本だけである。

全体の話のつじつまが合っていない。 

この法案の最終的な取扱いは、最終的に二階ら自民党の党三役の判断に一任されたとあった。それじゃあ絶望的だ。

結局、日本は性的指向による差別が法的に規制されていない、つまり差別が認められている国家の1つということになる。タリバン支配のアフガニスタンと同じだ。

2021年9月5日

この国のこれから

こんなニュースを目にした。

同じ神奈川県選出で信頼する麻生派の河野太郎行政改革担当相を要職に起用できないか―。だが、麻生氏は声を荒らげた。「おまえと一緒に、河野の将来まで沈めるわけにいかねえだろ」(西日本新聞 9月4日配信)

2日夜、菅首相が党役員人事に関して麻生副総理と話したときのやり取りだ。この記事の通りなら、一体どちらが総理大臣で、どちらが副総理か分からない。これはガバナンス上の大問題である。

もし国に万が一のことがあって最高意思決定者の総理大臣に重大な判断が求められても、こんな状況では速やかかつ適切な意思決定ができるのか。

いつ首都圏直下型の大地震なんかがが起こっても不思議ではないなかで、どうかしちゃってるね、この国は。

戦後70数年。敗戦後の混沌の中からの復興への意欲とその後の人口増加をもとに少なくとも経済的には成長してきたこの国は、今やもう完全にガス欠である。より良くなろうと高みを目指す貪欲な意欲はなく、足下の日々の些事に一喜一憂している。つまり、目的も資源も戦略も意欲もない。

今日、パラリンピックは閉幕する予定。この13日間、スーパーマン、スーパーウーマンとしか言いようのないような選手たちのパフォーマンスに目を見張った。

だが、これで祭りは終わり。これから日本の長い長い落日が始まるのだろうーー。

2021年9月4日

歴史とは、そもそもが物語

唐辛子味のとっても辛い「暴君ハバネロ」(東ハト)というお菓子がある。

その商品名は、ローマ皇帝の暴君ネロから取っているのだろうが、ネロは実際に暴君だったのか。

今、ロンドンの大英博物館で「Nero: the man behind the myth」(ネロ:俗説に隠れた男)という展示会が開催されている。さまざまな出土品をもとに、ネロが実際はどういった皇帝だったかに想像力が刺激される。

https://www.britishmuseum.org/exhibitions/nero-man-behind-myth

第5世ローマ皇帝ネロというと、稀代の暴君として歴史にその名が残っている。ただ、彼のもともとの胸像や碑文は死後に削り取られ、多くの痕跡は消されている。ネロが今日暴君とされているもとになったのは、歴史家のタキトゥスらの著作に残された記述である。

ところが、ローマのコロッセオに隣接する地から掘り起こされ、復元がなされている当時の遺跡からはネロがきわめて有能な君主だった多くの証拠が見つかっているという。

また、ベスビオ火山の噴火で埋没してしてしまったポンペイの遺跡からは、その地を訪れたことがあるネロについての落書きが見つかっていて、そこには市民がネロを称える多くの言葉が書き残されていた。

ネロがとんでもない暴君だったとして挙げられる理由に、キリスト教徒への激しい弾圧がある。また、彼は市民からの受けはよかった一方で、元老院との関係が良くなかった。

先に書いたように、彼に関する碑文などは削られ消されてしまっているが、残っている他の記録によればネロの死後には丁重な葬儀が行われ、墓前には花が途切れることなく市民から手向けられていたという。

もし、ネロが当時の誰もが認める暴君であれば、葬儀などなされなかっただろうし、絶えず花が供えられることもなかったのではないか。

ネロの公式な評価は歴史家タキトゥスの著作によるものだが、タキトゥスはネロの存在を苦々しく思っていた元老院議員のひとりだったし、その後ローマの歴史を書き残してきたのは、のちにローマの国教として認められたキリスト教徒だった。

キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は聖人として歴史に刻まれているが、実は自分の長男と2番目の妻、義父を殺害したような男だった。

ネロが非道な暴君で、コンスタンティヌスは聖人というのは一体どういうことだろうか。想像するに、ネロに関しては後にフェイクニュースが作られ、それが唯一の歴史になってこれまで残ってきた可能性があるということだ。

英語のHistory(歴史)は、His story(彼、つまり時の権力者の物語)だと言われる。ギリシャ語では、「歴史」も「物語」も 同じ ιστορία(イストリア)である。さすがはソクラテスを生んだ国だけあり、ギリシャ人はそのあたりをよく分かってる。

そういえば、我々が学校で教えられてきた「歴史」のなかにも、冷静に考えてみるとありえない話がたくさんある。