2016年8月27日

学校をつくろう

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、NPO法人アジア教育友好協会理事長の谷川洋さん。谷川さんが書かれた『奔走老人』(ポプラ社)を元にお話をうかがった。

谷川さんは、元丸紅の商社マン。60歳を区切りにきっぱりとサラリーマンを辞め、いまはアジアの山岳少数民族の村に学校をつくる活動を行っている。この12年間で270校ほどを立ち上げた実績がある。


谷川さんらの活動がユニークなのは、押しつけではないこと。作ってやるのではなく、「作らせてもらう」ところ。自分で現地をたずねて、学校が必要だと思う村を見つけ、そこの首長に学校をつくる提案と交渉をするところから彼らの活動は始まる。

学校の建設を持ちかける村は、決して豊かではない。子どもたちは学校で勉強するより、日々の労働力として求められている。そう考える大人たちを上手に説得しなければ、学校建設の話は前に進まない。

谷川さんらが学校があったらと思う場所には、文字が読める大人自体がほとんどいない。だから、よそ者からうまい話を持ちかけられて騙されたりした経験を持っている。

そこで、谷川さんが村の大人たちに話すのは、「学校が出来て、子どもたちが字が読めるようになれば、村人たちがよそ者に騙されないようにできる」ということ。こうした説得などで協力を取り付けるらしい。

実際の学校造りも独自のノウハウを生かして行っている。建設業者を送り込んで、ガンガンと工事して学校を建てることはしない。近くの町で大工の棟梁のような人物とその弟子のような人物を見つけて雇い、村に連れてくる。そして、彼に村人を指導してもらいながら村全体を学校をゼロから作っていく。

そうすることで、その学校は「村で建てた学校」になる。その後も修理なども自分たちの手でまかなわなきゃという意識ができる。

その後は、先生の手配だ。学校造りは、先生作りでもある。とにかく労を惜しまない。国の国際協力のように形式通りの予算を組んで業者にすべてやらせると、学校は村のものではなく、彼らからすると「どこからから持ち込まれたもの」になってしまう。

谷川さんは、いまもアジアの村に学校を作るのが楽しくて仕方ないという。そうだろうなあ。必要とされる学校を村人たちと一緒につくり、喜ばれ、役に立っているという実感を直接感じることができるんだから。


今朝の一曲は、エクストリームで More Than Words でした。


2016年8月15日

食えない魚


宇野港から島に渡る旅客船乗り場の近くに展示された魚のオブジェ。けっこうデカイ。使われている材料は、漂流物やゴミ。瀬戸内国際芸術祭の正式出展作品として制作、展示されている。
 

2016年8月14日

贅沢なレストラン

「海のレストラン」という名の島のレストラン。その名の通り、目の前はすぐ瀬戸内海。自家栽培のハーブと新鮮な海の幸を用いた料理を出してくれる。この島にはコンビニは一軒もない、信号もない。けれど、耳の奥をくすぐる波の音がある。

2016年8月13日

ペッパーと人間のあいだ

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、ソフトバンクのロボット「ペッパー」の開発責任者を務められた林要さん。現在は独立され、あらたなロボットの開発を進めておられる。


ペッパーの顔が、もう少し細長かったらかなり「怖い」顔になるらしい。耳がもう少し大きかったら気味が悪い顔になるという。生身の人間に近づいていくところで不気味とわれわれが感じる「不気味の谷」と呼ばれる領域があるという。その点でも、人型ロボットには微妙なデザイン調整が不可欠だ。

そういえばペッパーは、1927年に公開された、フリッツ・ラング監督の映画「メトロポリス」に登場してくるマリアという名のアンドロイドをどこか連想させる。

AI(人工知能)の進歩が凄まじい。学習することを学習し始めたAIが人間を多様な面で超えていくのは明らか。ディープラーニング(深層学習)で有名になったIBMのワトソンに、ペッパーのような人型ロボットが「端末」となってつながっていくことも間近なんだろう。

そうした世の中は、ユートピアかディストピアか。


今日の一曲は、ランディ・ヴァンウォーマーで、Just When I Needed You Most。


2016年8月7日

暦の上では秋

今日は立秋、夏至と秋分の中間である。暦の上では、今日から秋ということらしい。だけど連日の猛暑に、日中外を歩いていると血液が沸騰してくるような感じがする。まだまだ、夜になるまで時間がたくさんあって、いろいろ楽しめるのはいい。

2016年8月6日

龍口寺竹灯籠

片瀬江ノ島の龍口寺。境内の足下には青竹の灯籠が一面に並べられていて壮観である。5000基の灯籠は近所の人たちやボランティア、学生アルバイトが総出で準備した。竹灯籠を並べるデザインは、地元の中学生に図面を描いてもらったと教えてもらった。ここには、地域のお寺さんがしっかりと根付いている。

2016年8月3日

聞く耳持たず。思考停止企業

三菱自動車の新人社員が、社内の発表会で燃費データ測定の不正を正すように社内の発表会で提言していたらしい。

そこでは20人あまりの幹部社員がそれを聞いていた。そして、聞かなかったことにして無視した。結果、今回の問題が表に出て企業としての社会的な地位を完全に失った。

つくづく変な企業だと思う。



2016年8月1日

政治は政治、経済は経済、が正しい

先週の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、宋文洲さん。一昨年の秋にお越しいただいてからの2回目の出演である。今回は、彼が新しく出された『日中のはざまに生きて』(日経BP社)をもとにお話をうかがった。


宋さんのストレートで、舌鋒鋭い語り口はあいかわらず。どんどん話が進む。


中国人の訪日ブームはいまもやむことはないように見える。その理由をどう考えるかうかがったところ、理由として帰って来たのは意外な答え。それは、中国の景気にもとも関係するようなことではなく、日本の観光ビザの緩和という簡単な理由だった。


20年前に宋さんの妹さんが日本を訪ねようとしたことがあった。だが、その時20種類もの書類の提出を日本政府(現地大使館)から求められ、やっていられないとあきらめたとか。

今の訪日ブームは、中国の日本大使館が5年間有効の往復ビザを、簡単に中国人の普通のOLにでも出すようになったかららしい。そして、それは2年前に米国が中国人に10年間の往復ビザを出すようになったのがきっかけだろうと。なーんだと、拍子抜けした。いかにも対応が日本政府らしい(笑

ところで宋さんは、中国の経済成長は2013年に終わったと本書で書いている。そうなのか? 彼によれば、政府がGDPで操作的にやっている部分は1割か2割に過ぎず、大半は民間(市場)資本の手になるものだから、もう必要のないものは作らない。

だから、経済成長はいつまでも二桁成長を続けるはずはない、という考え。(数字が)いいときがあれば、そうではないときもあるのが当然なのだ。

翻って日本は、安定成長を重視するあまり、思い切り落ち込むときも落ち込ませない。構造改革のために経済成長がマイナス5%といったときがあったっていいじゃないかと。

10年間、20年間にわたってグズグズとゼロ成長に近いものが続くのはおかしい。良いときがあれば、悪いときもあることを、国民が納得していればいいのだ。「経済は別に政治家にやってもらわなくていいからさ」という彼の指摘に頷いた。

痛みを覚悟して時に血を流し、膿も出し切ることで、やっと健康な体を取り戻すことができるわけだろう。そうした痛みに向ける覚悟が日本にはない。だから、政治家もそうならないように細心の注意を払い、結果として本来あるべき健康体を取り戻すことができないことになる。

市場から退出すべき企業の多くが、いまも「雇用を守るため」という理由で税金が投入されたまま生きながらえている。人工呼吸器を付けられ、チューブから栄養剤を流し込まれながら生きながらえている姿だ。人間ならそれもありだろうが、企業は違うはずだ。


番組中で紹介した曲は、The Kinks の Sunny Afternoon でした。


2016年7月15日

見かけの勤勉さと低い満足度

先週の「木村達也 ビジネスの森」(NACK5、79.5 MHz)は、同志社大学の太田教授をお招きし、彼の『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書)をもとに対談を行った。

 
この本では、日本企業の社員の表の姿と実際の姿の大きな違いが分析されている。そのひとつが、見かけの勤勉さと低い満足度である。

エンゲージメントとは、仕事に対する積極的な関わり方のこと。「熱意」と訳されることが多いという。そのエンゲージメントだが、ある調査によれば総合的にエンゲージメントが高いとされる社員はグローバル平均では35%。一方、日本では13%しかいない。

逆にエンゲージメントが低い社員はグローバル平均で26%、日本では50%。なんだ、この違いは!?

仕事と職場に関しての満足度をみてみよう。これはNHK放送文化研究所が参加しているISSPの国際比較調査の結果なのだが、この調査に参加している32の国の中で日本は低い方から5番目である。

内閣府が実施している青年意識調査の結果からも、同様の結果が見て取れる。職業生活に「満足」あるいは「やや満足」している人は、調査対象となったアメリカ、イギリス、フランス、韓国、そして日本の5カ国のなかで韓国に次いで少ない。そして、「不満」あるいは「やや不満足」と答えた人の数は、5カ国中で日本が最多だった。

満足度をどう感じるかは、国民性によって違いがある。より楽天的な人は、コップ半分の水でも「まだ半分もある」と感じるだろうし、悲観的な人の場合は「もう半分しかない」と感じるのと同じだ。いわば、受け取り方の問題ともいえる。

しかし、見過ごすことができないのは、「職場に不満があれば、転職する方がよい」「不満がなくても、才能を生かすためには、積極的に転職する方がいい」と答えた割合が、日本が最も少ないという調査結果。こちらの方は、大いに問題だと思う。

いくら嫌でも転職しない、転職できないのが日本の企業社会ともいえる。縛られ、飼い慣らされ、ストレスを抱えたままで現状の仕事を続けなければならない人生がそこにある。

制度的に、また労働市場的に会社を辞められないのが、日本の会社社会であり、その実態はこの2016年になってもまったく変わっていないことに驚き、呆れる。

明日の番組では、なぜそうなのか、なぜ変われないのか、変わるためにはどうしたらよいのか、そうした点について話をうかがいたいと思っている。


番組中の選曲は、プロコル・ハルムの「青い影」。



2016年7月9日

「仕込み」が共同幻想を作っていた時代

昨日の夕方、大隈講堂で「新宿1968−1969 ドキュメンタリー/ハプニング/ジャズ」という座談会があった。

ゲストはピアニストの山下洋輔、田原総一朗、宮沢章夫氏ら。前半に田原が東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクター時代に制作した1969年のテレビ番組「バリケードの中のジャズ〜ゲバ学生対猛烈ピアニスト〜」が上映され、後半は主にその番組の制作裏話を田原が語り、出演した山下が番組の本当のところを吐露し、宮沢らが突っこむという感じだった。

僕も何度か見たことのある先の番組は、やはりほとんどの部分が仕込み(なんのことはない。つまりが「やらせ」「嘘」)だった。その意味では思っていた通り、胡散臭さの固まり映像である。今なら、絶対にありえない番組だ。

それがなぜ制作され、放映されたか。田原はしきりに、当時の局の上層部が理解してくれた(番組制作に疎くて緩かった)ことを指摘していたが、そもそも局自体に「たかがテレビ番組」という意識が強かった。上の人たちは、テレビとは近いようでやっぱりかなり遠い親会社の新聞社から来ていたから。

また、後追いの弱小テレビ局のディレクターとして、田原はとにかく派手で話題を呼び、自分を売り出すためにはゲリラ的にあざとく世間をかき回す番組をつくる必要があった。放送の倫理など鼻くその欠片ほどもないように思える。

しかし、昨日の壇上の田原氏にはいささかなりとも良心の呵責があったのか、彼は逆説的に「やらせというなら、もっとある・・・まだある・・・」と次々と自らのやらせ演出を明らかにして見せた。まるでひとつの嘘を覆い隠すために、より多くの嘘でその周りも塗り固めて元の嘘を見えなくしてしまうかのような「演出法」である。

世の中が騒然としていた時代の空気である。荒削りでも、時代を切り裂く表現が受け入れられる、ある意味で「幸せな」時を生きた人の回顧だった。

夜8時半に座談会は終了し、大隈講堂から外に出たら生暖かい風に頬を撫でられ、おもわず後ろを振り返った。

2016年6月19日

電力会社を切り替えた。

2011年3月11日の東京電力福島第1原発事故で、核燃料が溶け落ちる「炉心溶融(メルトダウン)」が起きたにもかかわらず、東京電力は最初それを公表しなかった。

理由として東電は、「炉心溶融」だと判定する基準がないとして、原子炉の状態を「炉心損傷」と言い換えていた。しかし今年の2月になって、「損傷割合が5%超」を「炉心溶融」であると定義する社内マニュアルがあったと発表した。

事故3日後には炉心溶融と判定ができたはずだったのが、実際にそうだったと認めたのは2カ月以上後だった。

マニュアルの存在を5年間にわたり見逃していたことについて、東電自体が設置した第三者委員会は「秘匿する理由はない」として意図的な隠蔽はないと結論付けた。第三社員会の設置方法がすでに間違っている。 誰がこんな報告書を信用できるというのだろうか。

報告書では、首相官邸から「炉心溶融」という言葉を使うなと指示があったからと書かれている。しかし、「官邸関係者」とだけで、それが誰から出たのかはあいまいなままだ。調査とは名ばかり、当時の官邸関係者にはヒアリングはなされてはいない。まあ、よくこんないい加減な報告書があげられるものである。 

この国をとてつもないリスクに晒しておきながら、いまだに言い逃れと責任回避にしゃかりきになっているような企業は、はっきり言って消えてもらいたい。

こうした企業に独占的に電気料金を支払わされるのはご免なので、今日、電気会社を別の電力事業社に切り替えた。書類一枚で簡単に手続きは完了。料金シミュレーションをしてもらったら、東電の時に比べて千円単位で節約も出来ることが分かったし。せいせいした。

2016年6月11日

72時間

NHKが金曜日の夜に放送している番組で「ドキュメント72時間」というのがある。内容は、対象に丸3日間密着取材してその間に起こった種々の出来事をカメラに納めて紹介するというもの。

間をあけた3日間でないのがミソだ。連続した3日間、72時間である。その番組を観て思うのは、わずか3日間だけど、3日間あれば全体像はほぼ分かるという実感である。

まったく知らない対象についてある1日だけ密着観察しても、ほとんどの場合、ある一面しか分からない。だけど3日あれば全体像が分かる。それが「72時間」という長さの不思議なところだと僕は思う。

テレビ番組の取材だけではなく、何かそれまで取り組んだことのなかったテーマについて勉強するときもそうである。

1日朝から晩まで資料を読み勉強しても一面しか分かった気にならない。けれど、3日間にわたって読み、考え続けるとたいていのテーマならだいたい理解できるところまで行ける。

72時間とはそういう時間の長さなのである。

2016年6月6日

政治家の奇妙なバイオリズムについて

前経済再生大臣の甘利氏が政治活動を再開した。

現金授受問題で閣僚を辞任して、その直後から睡眠障害を理由にして国会を4ヵ月以上にわたって欠席していた。病気療養が理由である。

そして、あっせん利得罪の疑いで告発されていたのが5月31日に不起訴処分(嫌疑不十分)になったと思ったら、今回の突然の復帰だ。

主治医がどう言ったとかこう言ったとか、僕は知らないし、その健康状態の真偽の程についても語るべきものはない。

ただ、彼の発言を信じるとしても、政治的状況と健康状態がシンクロしてしまうようなひ弱な人物に、われわれは国の進路を任せる訳にはいかないと思うのだ。

2016年6月4日

英語とこれからどう付き合うか

先週と今週の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)のゲストは、『本物の英語力』(講談社現代新書)の著者、鳥飼玖美子さん。


「英語格差」という言葉をめぐる話から始まって、ではそうしたことをどうやって解消するかという話へ。鳥飼さんの問題解決へのアドバイスは明快だ。それは、「英語を勉強すればいいのです」と。

結局は勉強することで乗り越えるしかないというのが、彼女の考え。多くの英語嫌いの人にとっては、ある種身も蓋もないアドバイスではあるが、真実である。

だが、彼女が主張する英語勉強は、決して英語ネイティブ同様のレベルを目指すものでない。自分の目的に沿った力をつけること、発音はハチャメチャと完璧の間を狙うなど実践的なアドバイスも数々うかがうことができた。

また彼女の長年の経験から、人に耳を傾けてもらえる英語とは、決して英語が流暢にしゃべれるというものではなく、むしろたどたどしくても中身が豊かなものであるという指摘にも頷かされた。

ちょっと意外だったのは、日本人は外国の地で一人だとけっこう頑張って英語でコミュニケーションを取ろうとするし、それなりにやっているという話。

ところが、周りに日本人がいるとそのために萎縮してしまい話ができなくなるとのこと。日本人同士で牽制したり、足の引っ張り合いをするらしい。

英語コミュニケーションの能力というより、日本人特有のマインドセットの問題という気がした。


先週と今週の選曲は、それぞれブレッド「Make It with You」とジャーニー「Open Arms」でした。

5月28日放送分選曲

6月4日放送分選曲

ラジオ番組はこちらから
https://youtu.be/xyqaA8D4seE
https://youtu.be/zkU3lUsYPOM

2016年6月2日

最新の聴取率調査から

最新の聴取率調査(在京の12局対象、ビデオリサーチ調べ)で、「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)がまたまたM1F1層(20〜34歳男女)で第1位になった。M2F2層(35〜49歳男女)では、第2位。とりわけ、30歳台の男性層では 他局を寄せつけない断トツ1位のレーティングだった。

週末の朝の番組にしては結構かたい内容なのだけど、狙った(聞いて欲しい)人たちが聴いてくれているようでひと安心。

2016年5月21日

交換日記で新入社員を育てる

今日のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、ダイヤ精機(株)社長の諏訪貴子さん。12年前に同社の創業者であるお父さんが急逝され、その後社業を引っ張っている若き肝っ玉かあさんだ。


 先週、今週と彼女が書かれた『ザ・町工場』をもとにお話をうかがった。


町工場が、自分たちが期待する若い社員を獲得するのは大変だ。そして入社してきた彼らを育てるのと同様に、彼らの先輩社員がしっかりそうした若手に目をむけて育ててくれるようにするのも容易なことではない。

諏訪さんが考えたひとつの方策が、交換日記。入社してからひと月ほど、毎日その日のことを日記に書かせる。その日記は、教育役の先輩社員だけでなく、副工場長と社長の諏訪さんも目を通し、必要に応じてコメントを書き足す。

いまどき実にアナログな手法であるが、手書きの文字からは書かれた内容だけでなく、その字の乱れなどから若い社員が悩んでいる様子を感じて手遅れになる前に手をうつこともあるという。また、書き方、ノートの使い方、文字の大きさから彼らのコミュニケーション能力なども知ることができる。なんだか小学生時代に、作文に赤ペンを入れて返してくれた先生がいたのを思い出したりした。

今週と先週の選曲は、オーリアンズの「Dance with Me」とジャクソン5「I'll Be There」でした。



2016年5月12日

数字が僕を歩かせる

出かける時には、ズボンのポケットに fitbit One という運動量計を入れることが習慣になっている。歩行数、階段の昇降数、歩行距離、消費カロリーなどが記録される。

ただ、時々うっかり持って出るのを忘れる。住んでるマンションの建物を出るとき、ポケットの中を確認する。ちゃんと入っていれば、左へ。最寄り駅のひとつ先の駅に向かう方向だ。だけど、ポケットに入れ忘れたときは、右へ。最寄り駅へ自然と、自然でもないが、足が進む。

違うのは、その日の歩行記録が取れるかどうかだけ。それが励みになる。数字が後押ししている。



2016年5月11日

パナマ文書の日本人

パナマ文書の情報が公開された。21カ国・地域のタックスヘイブン(租税回避地)に設立されたペーパーカンパニーに、どこから金が向かっていたかという実態を示したものだ。

そうしたペーパーカンパニーの中には、日本の個人や法人も含まれている。金持ち国日本だから、別に不思議じゃない。

だけど、頭をひねってしまうのは、パナマ文書で名前が出た人物がメディアのインタビューに答えて、「租税回避が目的ではない」と回答していること。租税回避が目的でなくて、何のためにタックスヘイブンに会社を設立したのか。

あり得ない話だが、もし僕が数十億円の資産を持っていたとしたら、どうやってタックスヘイブンに資産を移せるか知ろうとするだろう。

喩えが卑小だが、ストリップ劇場に入ってる客が、「女の裸を見るのが目的ではない」と言い放っているようなもの。

(後日追記)
使ったことがないので(当たり前か)よく知らなかったが、タックスヘイブンの使用目的としては租税回避だけでなく、身元を隠して法人を設置できる特性を利用するものがある。例えば、財産の隠匿や資金洗浄(マネーロンダリング)だそうだ。

2016年5月8日

猫を助ける仕事

先週と今週末の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5) は、NPO法人東京キャットガーディアン代表の山本葉子さんをゲストにお招きし、『猫を助ける仕事』(光文社新書)をもとにお話をうかがった。

猫にまつわる彼女の仕事は多彩だ。ベースは、保護猫を預かり新しい飼い主を見つけるための保護猫カフェ。その発想を展開して実現させた猫付きマンション、猫付きシェアハウスなど。

賃貸マンションに入居しようと思ったら、先に猫がいるとは傑作である。それらの猫はもとはといえば保護された猫たちで、いわばレンタルである。だが、一緒に暮らせば情が移るというもの。やがて預かっていた住人たちがそのニャンコらを引き取ってくれるケースも多いという。

猫付きシェアハウスは、猫がいわば備品としてそこに備わっている感じのシェアハウスだ。猫好きにはたまらないだろう。

傾向としては減少しているものの、日本では今も多くの猫や犬が捕らえられ、行政によって殺処分されている。もちろん行政もそうした役割はまったく不本意に違いない。特に保健所のその担当者については、とても気の毒としか言いようがない。

環境省が発表している数値だが、猫の殺処分数は2011年が13万匹、12年12万匹、13年11万匹、14年8万匹となっている。同統計で犬は、2011年が4万匹、12年4万匹、13年3万匹、14年2万匹と示されている。早くこれらがゼロになって欲しい。


番組内でかけた曲は、カーペンターズ「動物と子どもたちの詩」とトッド・ラングレンの「 I Saw the Light」でした。



2016年5月2日

慣れと関心

以前は裁判所の傍聴席でメモを取ることが禁止されていたことを、朝刊の一面コラムを読んで知った。「メモを取れば公正で静かであるべき裁判の進行の妨げとなる」というのが、長年にわたる裁判所の理屈であるというから驚く。

傍聴席で手帳やノートにメモを取るのがなぜ裁判の妨げになるのか・・・。紙にペンを滑らす音が裁判の妨げになる騒音を生むのか・・・。禁止できることは何でも禁止しておこうという「役人根性」である。

それに異を唱え、国を訴えたのはアメリカ人弁護士だった。傍聴席でメモを取ることをゆるされなかったことから裁判を起こしたのである。その裁判の結果、最高裁は1989年に「メモは原則自由」との判決を出した。しかし、またここで驚くのは、その最高裁に行くまで一審、二審とも敗訴したことである。

それにしても、なぜアメリカ人弁護士だったのか。日本人の法曹関係者はなぜ行動を起こさなかったのか。「変だ」となぜ思わなかったのか。もしそう思ったことがあるとしたら、なぜ放置したのか。

先日観た映画「スポットライト 世紀のスクープ」は、アメリカ東部の新聞、ボストングローブ紙の取材チームが教会権力の腐敗を2001年夏から2002年1月まで追ったストーリーだった。

同紙の特集記事欄「スポットライト」担当の4名の記者が地元ボストンの数十人もの神父による児童への性的虐待の実態と、カトリック教会の組織ぐるみの長年にわたる隠蔽工作を紙面で暴いた実話が元になっている。 

「スポットライト 世紀のスクープ」(2015)

ボストン・グローブでのスクープ記事がきっかけで全米にその波は拡がり、1年後の2003年1月11日にはニューヨーク・タイムズ紙が、過去60年間に全米のカトリック教会の聖職者1,200人が4,000人の子どもに性的虐待を行ったことを調べ上げた。

そんな大規模の悪弊(犯罪)に誰も気がつかなかったのか。そんなこと考えにくい。間違ったことが行われていると知っていながら、誰もそれを表だって指摘しなかっただけである。日本の裁判所の「傍聴席でメモ」とは違って、教会内、そして信者のあいだには様々な直接的利害があったことは容易に想像できる。

ただ、メディア側にも問題があった。このプロジェクトを指揮したのは、外からやってきて新たに編集局長に赴任した人物だった。同紙には、数年前に被害者支援する弁護士から児童虐待を続ける神父たちに関する情報提供があったが、担当の記者(ボストン生まれ、ボストン育ちの今回のチームのデスク)は、その情報を「スルー」していた。巨大な権力であるカトリック教会、そして読者の半分以上がカトリック教徒であるという理由からだったのだろう。

インターネットに押されている新聞の危機的な状況の打開策といった理由もあったに違いないが、よそ者でユダヤ教徒の新任編集局長には地域とのしがらみがなかったのが功を奏した。

「内部」に長く留まっていると、人は選択的関心しか持てなくなる。自分が見たいものにしか意識が向かなくなるのだ。

同映画は、アカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した。