2013年8月27日

テスラモーターズのロードスター

偶然、青山通りで見かけたテスラモーターズのロードスター。


テスラモーターズは、PayPalの創業者であったイーロン・マスクが共同創業者として2003年に設立した電気自動車の会社だ。本社はカリフォルニア州パルアルトにある。デトロイトではない。

米国では2008年からスポーツセダンタイプのクルマであるロードスターを販売しているが、モデルSはまだ日本では発売されていないはず。しげしげと眺めていると、テスラの名の入ったポロシャツを来た女性が近づいて来た。試乗用のクルマを停めていたのである。

ドライバーズシートに乗り込ませてもらった。ブレーキを踏むとモーターがオンになる。ハンドルの右には17インチのタッチパネルが据え付けられている。これで各種の設定や操作を行う。ナビもこれに組み込まれている。当然ネットもできる。



駆動力となるモーターは、後ろのトランク部分の下に置かれている。ずいぶん小さい。それでいて時速100キロに到達するまでが、わずか5.9秒らしい。トランクも広いが、ボンネットを開けると、そこがもう一つのトランクルームになっていた。


このクルマのメカニカルな構造はシンプル。内燃機関をもとにしたこれまでの自動車とは発想が異なっている。しかも同じ電気自動車でも、日本メーカーのもの(例えば三菱自動車のi-MiEVや日産のリーフ)とはクルマとしてのあり方が違う。主婦がサンダル代わりに使う買い物用車でもなく役所の公用車でもなく、テスラロードスターはその名の通り、コンセプトはスポーツカーなのである。

日本の自動車メーカーと一番違うところは、高性能が求められるスポーツカーとして一気に開発し、普及させようという発想の戦略性だ。
http://www.youtube.com/watch?v=bK3rZnj0-Co

現時点で日本での販売価格はまだ未決定だ。価格もそうだが、利用する人が充電にかかる時間とどう付き合うか、そして高速充電を可能にする電気ステーションがインフラとしてどのように整備されていくかが鍵になりそうだ。

2013年8月26日

化学兵器と日本陸軍

渋谷で降りたついでに、円山町のユーロスペースで「陸軍登戸研究所」を観る。上映時間は約3時間。長いが、それでもオリジナルバージョンは4時間だったとか。

取材・撮影は、今村昌平が設立した日本映画学校(現日本映画大学)の学生たちが担当した。編集の面で冗長なところがあったり、カメラ、音声などでも素人ぽさが目立つが、取材対象となった研究所の関係者などから貴重な(そして正直な)証言を引き出しているのは、若い制作担当者たちの情熱がうまく働いたからだろう。

登戸にあったこの陸軍の研究所では、血液などの体内の水分を沸騰させることで敵を殺傷することを目的とした殺人光線(!)の研究、各種生体実験の実施、毒物・爆薬の研究、風船爆弾や生物・化学兵器の開発、侵攻先国の経済を攪乱することを狙った贋札製造、陸軍中野学校へのスパイ用武器の提供など、おぞましい数々の所業が隠密になされていた。


そうした研究が日本国内のどこかで今も密かに続けられている、なんてことのないように願いたいものだが、そんなとき、シリアでアサド政権が反対派を抑圧するために化学兵器(神経ガス)を用いて数百人を殺害したというニュースを聞いた。

研究所のあった地は、現在明治大学の生田校舎の一画となっており、大学によって資料館が建てられている。
 

2013年8月20日

「ひょっこり」

普段そのままの言葉で耳にすることが多い「セレンディピティ」を日本語でどう言うか。水道橋博士が、ラジオで聴衆者から「訳語」を募集したところ、そのなかに「幸せな偶然」といったなかなかの出来の日本語に混じって、「ひょっこり」というのがあったらしい。これも悪くない。

ひょっこりは偶然性を示しているだけだが(大辞林によれば「不意に現れるさま」とある)、その語感にはネガティブな印象はなく、この一語だけでセレンディピティの訳語として当ててもいい気がする。

何年くらい前からか、マーケティングでインサイトという言葉がしばしば使われるようになった。消費者(コンシューマー)インサイトといったように。元々は1990年代後半に外国の広告業界から発せられ、日本でも同様に広告会社や調査会社が好んで用いるようになった。

彼らと消費者動向などについて話していると、必ずこの言葉が出てくる。そんなとき、「そのインサイトって、日本語で何?」とちょっと意地悪に聞いてみる。たいていは、「そうですねえ、え〜と、日本語だとどういえばいいんでしょうねえ〜〜」となる。

こうしたカタカナ用語って、けっこう多い。「ひょっこり」のような実感ある日本語にする努力が必要だ。

2013年8月18日

ボクは、ワタナベが嫌いだ

友人のワタナベ君に手紙を書こうとして、ふと手を止めた。

彼の漢字が思い出せないーー。辞書でワタナベを調べると4つほど出てきた。①渡辺、②渡部、③渡邉、④渡邊だ。さてどれだったか、迷ってしまった。名前だけあって、当てずっぽうとはいかない。よわったなぁ〜。

ワタナベだけでなくサイトウもそうで、こちらはもっとオプションが多い。①斉藤、②斎藤、③齊藤、④齊籐、⑤齋藤と5つもある。本人たちが何よりもそのことで苦労しているのだろうけど、それにしても悩ましい。

2013年8月10日

メニューは人数分

テーブル付きのウエイターがいるようなレストランを除いて、日本ではたいていひとつのテーブルにメニューが一つしか渡されないことがいまだに多い。

しかもメニューがテーブルに置かれた途端に「お飲み物は?」などと聞かれ、つい「じゃ、取りあえず生ビール2つ」などと反応してしまう。その後、向かい合わせに坐った相手との間にメニューを拡げ、2人して首を傾げながらながめ、料理を選んでいく。90度回転した文字は読みにくいし、なさけない気分になる。

最近は、どんな店に入っても(看板にあらかたの料理が出ている店はべつとして)人数分のメニューを持って来てもらう。居酒屋などの場合は、近くのテーブルから勝手に取ってくる。

これだけで、他人に気を遣いながらメニューをめくったり、その結果焦って注文の品を決めることがなくなる。何といっても、首が疲れない。

2013年8月8日

青年海外協力隊について

読売新聞社から頼まれ、8月8日付の「論点」欄にグローバル人材育成と青年海外協力隊をテーマに寄稿した。

このテーマを選んだのは、サバティカルから帰ってきた後、学生時代からの友人でJICAで働いているA山君から青年海外協力隊の現状を聞かせてもらったことがきっかけだ。

JICAの海外ボランティアの育成と派遣を通じた国際協力はすばらしい活動だけど、派遣先国との調整などに時間がかかりすぎるなど、改善点もたくさんありそうだ。興味があり、実際にボランティアとして海外に2年間派遣され、現地の学校で教育の仕事に従事した後、最近戻って来た若者たちに何人か話を聞かせてもらった。印象に残っている話に、「行ってみたら、放ったらかしで、何を期待されているのか最初分からず困惑した・・・」というのがあった。

派遣先の途上国からの要請をもとにボランティア派遣のプログラムが組まれたはずなのだが、時間の経過のなかで現地の当時の担当者(意思決定者)が異動してしまったケースが多いようだ。後任の担当者にすれば、自分の仕事ではないという意識なのだろう。日本の青年たちが現地で迷惑がられるわけではないが、国によっては彼らは自分たちで何が必要なのか、何ができるのかを一からリサーチする必要があったらしい。協力者、相談役となってくれる現地のパートナーも見つけなければならない。

これまでと生活環境や言語が異なる国で、現地の人たちに役に立つことだけを目的に自分で考え、自分で動き、結果を出すことが求められた2年間。彼らの話を聞くだに、自分に彼らの真似ができるだろうかと考えてしまった。歳のせいもあるが(歳を言い訳にするのは卑怯か)、自分には無理な気がする。そして、他国を肌で知るとは、こういうことなのだなと痛感した。

2013年7月23日

海外ボランティアと震災復興支援

JICAの海外青年協力隊のプログラム経験者たち何人かと会う機会があった。彼らはいずれも、中米などの現地校で教育の仕事に従事していた日本の若者である。

現地での任期は基本的に2年間。話を聞くにつれ、開発途上国での教育現場の未整備な状況に驚かされる。日本と比較すること自体が基本的におかしいのだろうけど。行ってみたら、渡航前に聞いていたのとはまったく状況や条件が異なっていた、というのも珍しくないらしい。

アレンジをする事務局の問題が大きいようだが、そうした若い連連中は頭の切り替えと工夫で現地に対応していた。こうした志とバイタリティのある日本の若者がいることは、本当に心強い。

東日本大震災後、海外青年協力隊による途上国へのボランティア志望者の数は減少している。それは他人のために力を尽くそうという若者が減っているのではない。彼らの多くは、現時点ではまずは震災で被災してさまざまな面で困窮している東北の人たちに対して何かしてあげたいと考え、実際にその現場で行動しているからだ。

東北地方への支援はこれからも続けられなければならないが、やがて海外ボランティア志望者が以前のように戻って来るといい。

2013年7月22日

五感を使う

新聞にバイオリニストの千住真理子が書いていた。

彼女の音楽仲間がポロリとこぼしたという。「今の学生は音楽をデジタルで考えている。どのくらいの大きさで弾くか。目盛り幾つの早さで弾くか。五感を使うことを忘れているのではないか」

音楽の分野だけでなく、他にもいろいろありそう。

2013年7月21日

「創造的人生の持ち時間は10年だ」

スタジオジブリの「風立ちぬ」を観る。アニメを劇場に見に行くのはひさしぶり。

公式ホームページから

子どもたちはもう夏休みなので、劇場は混んでいるかなあとと思いながら予約なしで行ったが、劇場には思ったほどの客が入っていなかった。観客は、ほとんどが大人。その分落ち着いて観ることができた。

零戦の設計者の堀越二郎と小説家の堀辰雄が重ねられている。いろんな意味で夏らしい映画だ。空を駈ける飛行機と青い空、白い雲、避暑地の眩しいほどの緑と小川のせせらぎ。

関東大震災と第二次大戦、そして愛する人の死。それらが一見、淡々と描かれる。運命と言えば運命なのだが、主人公はそうした現実を受けとめ、翻弄されるわけではなく自らの夢を追い続ける。大空への夢である。

二郎は夢の中で、イタリアの飛行機設計家のカプローニと交流する。カプローニが二郎に「創造的人生の持ち時間は10年だ」と語るシーンがある。10年は長いか短いか。それは人によって異なるのだろうが、自分が好きなことに熱中できる時を大切にしろというメッセージである。

カプローニにそう言わせた宮崎駿は、10年を優に超えて創造的な仕事を続けているのがすばらしい。

2013年7月20日

日本の「妖怪」を追え

横須賀美術館で「日本の「妖怪」を追え!」と題した展覧会が開催されている。いま、日本は妖怪ブーム。北斎や広重、歌川国芳から水木しげるまで、妖怪やおばけをテーマにした作品を集めた夏の特別展である。

この美術館、テラスレストランから横須賀湾が見下ろせる。


テラスからわんこも海を見ていた

2013年7月15日

八丈島は快晴なれど

取材のため青ヶ島へ向かう。東京都青ヶ島村は日本一人口が少ない村である。村民は全島で約190名ほど。東京から直行便がないので、八丈島まで全日空機で飛び、そこからは東邦航空のヘリか連絡船で渡る。
http://www.vill.aogashima.tokyo.jp/

朝7時30分発のフライトで八丈島にわたり、9時20分八丈島発のヘリで青ヶ島へ行く予定だったが、天候が理由でヘリがキャンセルになった。連絡船も欠航になったらしい。八丈島の天気は問題ないように思えるのだが、目的地である青ヶ島周辺の海がしけているのと、霧が深いことが理由らしい。さすが太平洋に浮かぶ島だ、と感心してしまう。

 ただの経由地としか思っていなかった八丈島に泊まることになった。空港から町の観光協会に電話してレンタカーと民宿の手配をお願いする。こうなったら、のんびりこの島を見学するしかない、と腹をくくり島の周遊へ。

空港のバス乗り場
のんびりした運行スケジュール
広々した島内の牧場
姿のいい八丈小島
気持のいい露天風呂

2013年7月14日

「あまちゃん」サウンド・トラック

午後、渋谷のタワーレコードへ。NHK「あまちゃん」のサウンド・トラックCDが発売になっている。連続テレビ小説のオリジナル・サウンドトラックがこれほど話題になっているとは。



2013年7月13日

上野からアメ横へ

上野の東京文化会館に行った帰り、アメ横へ行ってみた。最近、NHKの「あまちゃん」で上野駅やアメ横が登場することが多く、その影響で人も増えたのではないかと思い足を伸ばした。

センタービルの電飾看板の下に「アメ横女学園」とある。

2013年6月30日

幸せな仕事

岩合光昭さんという写真家がいる(この場合、カメラマンではなくやっぱり写真家)。National Geographic誌のカバーを何度か飾ったこともある動物写真家の第一人者である。

世界中のさまざまな動物を追って写真を撮ってきた彼が、とみに精力的に最近追っている(ようにみえる)対象が「ねこ」だ。NHKで放映している「世界ネコ歩き」なる番組も人気らしい。
http://www4.nhk.or.jp/nekoaruki/


以前、川崎市民ミュージアムで開催された岩合のトークショーのレポートを見つけた。面白い。http://ilove.cat/ja/2622
彼が被写体である猫に近づきショットを狙うための作法は、男が女とどうお近づきなるか(もちろんその逆も含めて)というのと同じ。また、われわれ学者やジャーナリストが取材対象者に対するときに気を付けなきゃならないことと相通じることがたくさんある。

それにしても、好きな猫を追って日本国内だけでなく世界中を巡る彼がうらやましい。
 

2013年6月29日

鍵を捨てる

筆記具を収めた机の引き出しをゴソゴソやってたら、奥から一本の鍵が出てきた。

どこかの合い鍵だが、それが何のためのものか分からない。いつ作ったのか思い出そうとしても思い出せない。ひょっとしたら大事な鍵かもしれないという思いが頭をよぎる。取りあえずは思い出せないまま、それがあった場所にまたその鍵を戻すことが一番なのかもしれないが、ゴミ箱に捨てることにした。これまで何年も使わなかったってことは、なかったと同じ。「万が一」は、万が一でしか起こらないから。

映画にもなったジョナサン・サフラン・フォーの小説、Extremely Loud and Incredibly Close を思い出した。9/11で父親を失った少年が、父親の部屋から一本の鍵とメモを見つける。その鍵が何を開ける鍵か分からないまま、少年はニューヨーク中を 歩き回ることになるーー。映画ではトム・ハンクスもサンドラ・ブロックもよかったが、マックス・フォン・シドーが印象的だった。


残念ながら、鍵の先にある謎探しの「旅」が似合うのは、少年だけである。おじさんにはその時間も体力もない。

2013年6月17日

2013年6月16日

読書会

今日は、知り合いの読書会に参加。今回は『コトラーのマーケティング戦略』をテーマ図書としているということでお誘いを受けた。このグループ、経営書の名著の読書会を毎月1回のペースで開催していて、今日が41回目、3年半くらい続けていることになる。出席したメンバー10名ほどは、すべてコンサルタントの方々である。偶然そのなかに、以前早稲田で教えたことのある方もいて、びっくり。

今日は、同書の8章から11章までをそれぞれの担当者がプレゼン用スライドを使いながら報告が行われた。本の内容をそのままなぞるのではなく、内容に関連する事例を紹介することで、本に書かれている内容の実践的適応例についてディスカッションをするという、読書会としては高等的な進め方がとてもいい。

そういえば『コトラーのマーケティング戦略』は各章末に「検討課題」が設けられており、僕も以前企業内のマーケターの教育や研修を頼まれた折、そこを中心に討議することで参加にマーケティングを考えてもらうということをよく行った。

休憩を挟み4時間ほどのディスカッションの後は、近くの中華料理屋で食事会。

2013年6月3日

上司はボケと曖昧さ

雑誌をめくっていたら、建築家の隈建吾さんが面白いことを言っていた。

世界の各地でプロジェクトを回している彼に言わせると、日本のサラリーマンは現場感が薄いらしい。失敗した時の言い訳や業界でのしきたりが頭の中で先行して、これが自分の仕事だという熱のこもり具合が足りないと。

で、それを取り戻すため、上司はまず現場に行くべきだということ、そしてそこで現場の細かい点に関しては大ボケをかませと言っている。すると現場の人は心配して、いろいろ説明してくれるからと。

その後が大切なのだけど、あれこれ説明してもらってる時にこちらから「知ってるよ」と言っちゃダメなのだ。なぜなら、そうすると相手は黙っちゃうから。「へえ、そうなの、すげえなあ」と返せと。すると「本当は知ってるんじゃないか」と思いつつ、相手はうれしくてもっと話したくなり、もっと深く考えるようになる。

う〜ん、確かにその通りかもしれない。

いいことを聞いたなあ。
 

2013年6月2日

日曜午後のスモールジャーニー

今日は気温も湿度も高くなく、凌ぎやすかった。そこで、新宿区の早稲田大学から川崎市中原区の自宅まで歩いて帰ることにした。

グーグルマップでルート検索をすると、行程は18キロあまりで所要時間は3時間40分とのこと。そのルートを参考に歩くことにした。

新宿3丁目の伊勢丹までは30分ほど。意外と近い! そこから渋谷駅北口のスクランブル交差点までは50分。

新宿3丁目交差点近くで見かけた奇怪なロボット

大学正門前を出発してから学芸大学駅前まで2時間10分。ここであまりの空腹に耐えきれず豚骨ラーメンの店に入る。疲れが一気に出てくる。しかも冷蔵ケースにビアジョッキがキンキンに冷えているのを見てしまい、つい生ビールも一緒に注文。

腹もふくれ、いい気分になったことで、ここからは電車で帰ろうかという思いが頭をかすめたが、気を取り直して30分後に再出発。環七通りを渡り、大岡山の東工大前を過ぎ、50分後には中原街道に出た。

ここまではずっと幹線通りではなく、住宅街の一般道や細い脇道を通ってきたが、ここからあとはおおかたこの通りに沿っての道程である。

無事に自宅にたどり着いたのは、大学を出てから4時間10分後。途中の30分を除くと、歩行時間は3時間40分だった。

2013年6月1日

グレートジャーニー

現在、国立科学博物館で特別展として「グレートジャーニー 人類の旅」が開催されている。グレートジャーニーとは、英国の考古学者ブライアン・フェイガンが名づけた、アフリカ大陸から世界各地に人類が拡がっていった我々の先祖の旅である。

日本人探検家、関野吉晴は1993年にその旅の過程を南アメリカからアフリカへと逆に辿る旅に出た。機械的な動力に頼らず、自らの脚力やそりなどの動物を駆っての移動により10年をかけて全行程を辿った。

今回の展示会には彼の「グレートジャーニー」がひとつのモチーフとされていた。